75に合併『岡山の今昔』久米南条・北条郡村々江戸越訴 (1813)  

2021-09-25 18:04:24 | Weblog

75に合併『岡山の今昔』久米南条・北条郡村々江戸越訴
(1813)  

 1813年(文化10年)には、(略しては、美作において、久米南条・北条郡村々江戸越訴(略しては、「北条17か村江戸越訴」)が勃発する。
 そこで、この地域の支配の前史から起こすと、1603年(慶長8年)から1697年(元禄10年)までは、森藩領であった。その後、松平領、幕府領(天領)支配を経て、1747年(延享4年)から1812年(文化9年)にいたる66年間は、他の作州35か村とともに、関東を本拠地とする小田原藩(大久保氏)領となっていた。
 それが、次の年になると、どういう次第なのだろうか、かかる飛び地が、大坂代官所管下の幕府領に組み入れられる。これをきっかけとして、旧小田原藩となった村々が、同代官所・幕府を相手に起こした嘆願闘争である。
 その願いの主な筋としては、当該の村落においては、かねての慶長の頃から、「大庄屋山崎家そのほか中庄屋たち、これらと特別の関係のある村々庄屋たちは、自分たちだけで一切の支配関係ーとりわけ年貢納入関係を処理して、一般の庄屋ないしは小前百姓ー農民大衆には何ひとつしらせなかった」(大林秀弥「「文化十年久米南条、北条17か村江戸越訴事件」)ことがあるという。

 その実は、この領地替の噂のあった前年に、当該地域の農民たちによる、「一丸となって」の運動が展開されていた。具体的には、代表の4人が江戸に行き、これを思い止まるように、幕府当局や小田原藩に上申したものの、相手側は彼らの願いをはねつける。

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 そこで、当該52か村中17か村落民になっての嘆願参加の村の内訳は、久米北条郡の中では、宮部下村は81名、神代村は72名)、戸脇村は55名)、桑上村は32名、桑下村は60名、福田下村は24名、里公文下村は29名、宮部上村は64名、中北下村は77名、中北上村は80名、油木下村は19名、油木上村は36名となっていて、以上が2000年時点では久米郡久米町内に属する。
 また、同久米北条郡のうち、下打穴中村は67名、下打穴西下村は54名、下打穴西上村は12名、下打穴下村は55名となっていて、以上が2000年時点でいうと久米郡中央町に属する。
 それに、久米南条郡の中では福田村が47名となっていて、こちらは2000年時点でいうと、津山市に属する。

 そこで彼らとしては、次の戦略・戦術を考えざるをえない。改めて相談した結果は、西川陣屋支配の拒否と、大坂代官所の直支配をうけるようにさせてもらいたい、ということになる。同時に、当地伝来の家格による庄屋制度(前述)を廃止してもらいたい。つまり、これにかわって、近隣の幕府領並みの地域運営、すなわち「組合村一惣代による庄屋制」を施行してほしいというのである。

 これに対し、既存の村権力をあずかる「17か村大・中庄屋」一派は、猛然と反対するのであったが、村民側も、飛躍的惣代の名前で願書を大坂代官所・幕府当局に提出して、あくまでも要求貫徹をめざす、そのまま双方がにらみあっているうちに(約3か月というところか)、大坂直支配実現の願意は達成されないままに農閑期を過ぎ繁忙期にさしかかってしまう。
 そうしたところへ、迎えた秋の採り入れ後、闘争の第2幕が上がる。それが、江戸への「越訴」(今度は正式なもの)なのであった。この時、江戸へ向けて出発したのほ、多三郎、貞助の二人、急ぎ足で江戸へなんとか到達、月番の勘定奉行に届くように嘆願書を、公事方曲淵甲斐守に欠込(かけこみ)訴訟を決行したという、だが、当該の嘆願書の細かな内容は現代に伝わっていないなど、その周辺の事情についても今日にいたるまで大して判明していないようなのが、今更ながら気に掛かる。

 明けての1814年(文化11年)には、丸3年にわたる、この事件の一応の決着となる。それまで及びその中では、農民たちの大坂直支配の実現と、庄屋との関係の改定との、うち、前者の願いは、倉敷代官所支配への移管扱いとなったことから、前進。また後者の願いについて芳(かんば)しい改善は得られなかったものの、以前のような剥き出しでの村支配はできなくなったものと推察されよう。

 とはいえ、以上の結末にいたるまでの間には、これら農民の闘いの先頭に立った者の中では、17名が入牢(にゅうろう)し、年貢納入延期の首謀者と目されている2名が拘禁中に死亡していることがあり、あくまでも陳情・嘆願から始めた運動(ただし、後段の越訴については非合法)にあっても、農民側は当面の苦難の道のすべてを犠牲なしに乗り越えられなかったことがわかる。


(続く)

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◻️211『岡山の今昔』ベンガラ、炭など(吹屋の伝統的建造物群保存地区など)

2021-09-25 14:05:17 | Weblog

211『岡山の今昔』ベンガラ、炭など(吹屋の伝統的建造物群保存地区など)


 まずは、著名な旅行家が初めてこの町を目にしての、平安時代から戦後、そして現在に至るまで、まるで絵巻物語を垣間見るかのようで、ここでは、その中からかいつまんで紹介しよう。

 「古くは平安時代から鉱山があったといわれるし、また室町時代からともいわれている。(中略)

 ただし江戸時代は、銅山で数度の繁栄期を経験したことはわかっている。

 それで、現在に残る素晴らしい町並みだが、これはその銅山の繁栄に加え、もう一つ江戸中期に偶然発見されたベンガラの製品化の影響が大きかった。ベンガラは黄銅鉱とともに産出する硫化鉄鉱からつくられるが、ご存じのように、焼き物の赤絵、漆の朱、家屋の塗料、などに用いられる赤い染料である。いや、吹屋の町並みが整ったということなら、このベンガラのほうが影響が大であったのだ。(中略)

 このベンガラと銅による繁栄は、幕末から明治、大正、さらに昭和初期までつづき、またその富は、周辺の山林や田畑の購入に向けられ、家々はさらなる大地主になっていった。(中略)

 しかし、一転、戦後の衰退は激しかった。
 まず、農地解放で地主の収入がなくなった。ベンガラも化学の発達で安い染料が出現した。そのため、かつて倉敷と競ったほどの町は、またたくまに過疎化し、山の中の忘れられた町・・・あの備中高梁の人にさえ忘れられるような無名の町になっていったのである。(中略)
 映画の封切り(横溝正史作品の映画化たる「八つ墓村」・引用者)は1977年(昭和52年)であった。1977年(昭和52年)というのは、吹屋が町並みの修復を始めてから二年目にあたり、くしくも吹屋が重要伝統的建造物保存地区に選定された年でもあったのである。」(馬渕公介「日本全国50か所、小さな江戸を歩く、九州・四国・西国路」小学館、1993)

 

 これにかなり詳しくあるように、吹屋は、重要伝統的建造物群保存地区に認定されている。そこで一番有名なのは、明治から大正時代にかけて、酸化第二鉄を主成分とするベンガラの生産が盛んにおこなわれた。その原料としては、この地方でとれる磁硫鉄鉱という鉱物であった。陶器や漆器の顔料に用いたり、防腐剤としての用途もあったという。


 当地のベンガラは、馬の荷駄となったりして、吹屋往来を通って成羽の廻船問屋(かいせんとんや)に運ばれた。それからは、高瀬舟に積まれて成羽川そして高梁川を下って、玉島港(現在は倉敷市か)から大坂などへ向かった。
 ちなみに、この町には、ベンガラ工場を忠実に再現したしたという、ベンガラ館がある。また、ベンガラの製造、販売で財をなした片山家の屋敷や、ベンガラの原料であるローハ製造て財を築いた広兼邸、「赤の中の赤」を追及してベンガラ製造を発展させた西江邸など、かつてを偲ばせる建物などが残っている。

 

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 さらに、山間地で炭が生産され、それが高瀬舟などで運ばれ、南の消費地に運ばれていたようだ。その炭というのは、木材や竹材を密閉空間としての炉や穴に入れたうえ、火をつけ、材木を炭化してつくる。それからは、小さな穴を開けておく他は、土などで空気穴をほとんどふさぐ。

 そのことで、化学的には、木材や竹材を還元条件でつくる、つまり、木や竹を燃やしつつも、空気の少ない、ギリギリの状態で燃焼させることで、それらを炭素原子ばかりの状態に持っていく訳だ。それが、現代でいう「備長炭」(びんちょうたん)のような良質な産地を形成していたかどうかは、よくわからない。 


 とはいえ、高価で売れる備長炭にするには、かなりの高温を実現するのが必要にして、なおかつ、最後は炎のつくる余熱、いうなれば熱風で摂氏1000度からの温度が必要とのことであり、それらの頃合いは「匂い」とかを頼りに見いだすしかないようだ。


(続く)

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◻️579『岡山の今昔』岡山人(20~21世紀、大林秀弥)

2021-09-25 09:58:57 | Weblog
579『岡山の今昔』岡山人(20~21世紀、大林秀弥)
 
 大林秀弥(大林秀彌、おおばやしひでや、1918~2001)は、教育者にして、また社会運動家としても名を馳せている人物だ。
 当時の久米郡大井東村に生まれる。1925年(大正14年)には、同村立の大井尋常小学校に入学する。1931年(昭和6年)に同学を卒業し、津山中学校へと進む。1935年(昭和10年)には、4年間の学びを終え、第六高等学校の文科甲類に入り鋭意学ぶのだが、途中病気のため休学もあったとされる。
 1939年(昭和14年)に同校を卒業して、東京帝国大学の経済学部経済学科に入学する。なぜ、経済を勉強したいと思ったのかは、つまびらかでないようだ。1941年(昭和16年)12月に東大を卒業する頃には、日本は戦争の真っ最中であった。翌年1月には、日本光学工業株式会社に就職する。
 その後、1943年(昭和18年)6月から戦後の1952年(昭和27年)9月間での、長い病気療養生活があり、その間の1945年10月に同社を退職する。1952年9月には、津山の学校法人作陽学園に就職できる。ここで、やっと、太陽の光を浴びて再び働けるようになった訳だ。
 それからは、同学園において、教育に研究に取り組み、そのうちに作陽女子高等学校、作陽短期大学、作陽音楽大学の教員を務(つと)める。同大学を退職した年の1982年(昭和57年)4月には、作陽音楽大学名誉教授になる。
 
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 さて、大林の場合は、そればかりではないところが顕著であって、作陽学園在職中及び退職以後の社会活動として、津山文化財保護委員・委員長などの公的な役職とともに、その範囲は平和運動、国の治安維持法犠牲者への賠償要求支援の取り組み、被差別の問題・解放運動などにもおよぶ。

 その傍ら、もしくは本人の幹の部分でもあるだろうか、ライフワークとしての学習・研究も同時に進めるという話であって、まさに「寸暇を惜しんで」の学問上の成果を、江戸時代の農民一揆の研究から、明治からの庶民生活の分析にいたるまで、多くを実らせている。

 そんな中でも、「明治10年代美作地方の消費生活」「維新期の農業経営について」「維新期における雇用労働力」「地主制の一側面」「維新期農村工業の存在形態」なる論文は、経済学の立場からは大変重要な研究であり、これまでの日本史の空白部分を埋める一助にもなっている、ここでは、その中でも異色の「明治10年代美作地方の消費生活」の「結び」の一節を紹介しよう。

 「上来わたくしは、一地主の家計支出の分析によって、本稿の主題、明治10年代初頭の、岡山県美作地方に、おける消費生活の実態を具体的に明らかにすることに努めた。
 もちろん、本稿に、おいて分析の対象とした家計は、地主のそれであり、しかも第四表に明らかな通り、金融や窯業マニュファクチャー(工場制手工業・引用者)の別途収入を持つ、強い経済的立場に立っている。したがって本稿の事例によって、当時の農村の農民各階層の消費生活を推定することはできないのは当然としても、本稿の事例が、当時、当地方農村社会消費生活の上限であるとは、言いうるであろう。」(大原秀弥「明治10年代美作地方の消費生活」、この論文の最初の出は、作陽学園学術研究会「研究紀要」第6巻第1号、1973)、追っては、大林秀彌「わが学習と実践の記録」、2000に収録されている。


(続く)

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