◻️415『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、柴原宗助)

2021-09-16 21:11:26 | Weblog
415『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、柴原宗助)

 柴原宗助(しばはらそうすけ、1847~1909)は、宗教家、地方政治家、教育者といった多方面の顔をもつ。後月郡井原村(現在の井原市井原) の柳本甚八郎の二男に生れる。
 幼名は恭二、のち宗助に変わる。幼少の時、興譲館で、岡山県内の阪谷郎廬に学ぶ。
 やがて、大阪に出て薬局に勤める。その後、京都で新島襄の同志社で学ぶ。
 帰郷後は、高梁・本町9の酒造業柴原家の養子となる。1868年(明治元年)には、酒造業のほか柴原文開堂を開店し、書籍・文具・小間物・薬の販売を始め、書籍の出版、郵便引受なども手掛ける。
 1878年(明治11年)には、学習結社「開口社」を共同設立し、一躍、自由民権運動へうって出る。翌年には、上房郡から初回の岡山県議会議員に当選する。全国的な国会開設運動に参加していく。
 他にも、中川横太郎や金森通倫(かなもりみちとも)を高梁に招き、キリスト教の宣教の講演会を開くなど、いた。彼等の招きにより、1880年(明治13年)には、キリスト者の新島襄(にいじまじょう)が来高し、その後彼とも親交を保つ。
 1882年(明治15年)には、高梁キリスト教会設立の中心となり、この年の 4月26日金森通倫によって福西志計子ら14人と共に洗礼を受け本格的に信仰の道に入る。

(続く)


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◻️476『岡山の今昔』岡山人((20世紀、川﨑祐宣)

2021-09-16 20:25:25 | Weblog
476『岡山の今昔』岡山人((20世紀、川﨑祐宣)

 川﨑祐宣(かわさきすけのぶ、1904~1996)は、鹿児島県横川町の生まれ。生家では、教育熱心だったようである。高等学校在学中、叔父である医師・永田安愛の献身的な姿に影響を受けたと伝わる。そのうちに、医師の道を志す。
 1939年(昭和14年)、「外科川崎病院」を開院。病院には「年中無休・昼夜診療」の看板が掲げられ、受付窓口には「医療費にお困りの方は、ご遠慮なくお申し出ください」という立て看板が置かれていた。
 この病院は、戦争により全焼したものの、1946年には再建することができた。1950年(昭和25年)、財団法人川崎病院を設立し、理事長兼病院長に就任する。当時は、なにしろ医師不足、本人は忙しく診療に当たっていたという。診察と患者の治療に当たるうちに、ある思いが浮かんできたらしい。

 「障害者のケアを県内のどこでもしていない。この人たちのために、私の手で専門の施設がつくれないだろうか」と。 

 伝わるところでは、川﨑は友人で医師でもある、三木行治岡山県知事に、胸中をうちあける。すると三木は、更井良夫(牧師・岡山博愛会理事長)を紹介する。

 1954年(昭和29年)、川﨑は「旭川荘設立趣意書」によって旭川荘の創設を正式に発表する。1957年(昭和32年)には、旭川荘が発足する。

 その翌年には、肢体不自由児施設「旭川療育園」、知的障害者施設「旭川学園」、乳児を対象とした「旭川乳児院」の三施設が開設する。旭川荘は、やがてそこに参加した医師や職員たちの努力によって、日本における医療福祉施設のさきがけとなっていく。

 さらに、良医の育成の必要性を痛感したとされ、当時としては、革命的な私学の大学を開設しようと企てる。並々ならぬ決意を抱いた。当時の文部省には、「倉敷という場所で、大学が運営できるはずはない。教員を集めることができるのか。資金はどうするのか」などと言われ、それでも諦めない川崎は、毎週のように霞が関に通っていたようである。

 そして迎えた1970年(昭和45年)に、川崎医科大学を設立する。1991年には、川崎医療福祉大学を開学する。良医と医療技術者の育成の必要性を痛感してからの歩みは、まさに一筋の大いなる道にして、その学窓からは多くの医療専門家を輩出していく。

(続く)


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◻️570『岡山の今昔』岡山人((20~21世紀、江草安彦)

2021-09-16 20:24:03 | Weblog
570『岡山の今昔』岡山人((20~21世紀、江草安彦)
 
 江草安彦(えぐさやすひこ、1926~2015)は、医師、社会福祉家、それに教育家でもある。
 笠岡町(現在の笠岡市)の生まれ。やがて、医学を志す。戦後の1950年(昭和25年)に、岡山医科大学付属医学専門部(現在の岡山大学医学部)を卒業する。翌年には、同部小児科学教室で働く。
 そのうちに、ある構想を抱く。障害をおった人々を医療でもって支えようというのだ。1951年(昭和26年)には、仲間とともに、中国四国地方初の重症心身障害児施設、旭川荘を開設する。
 そんな医療やの実践を通して、障害者療育の実践研究を積み重ねる。それらとともに、医療と福祉の一体化の推進を考えていく。社会がかれらに寄り添っていく道を考え続けていたのであろうか。

 1987年(昭和62年)には、重度障害者雇用事業所(有限会社・トモニー)の設立に参画する。
 やがて、その経験を基礎に、医学教育への福祉学の導入と福祉教育への医学の導入を探るべく、新しい学問分野である「医療福祉学」の体系化を進める。これなどは、前人未到の道というべきか。
 保健福祉人材の育成さらには国際交流に及ぶ広範な領域で優れた功績をあげる。1991年には、川崎医療福祉大学の学長になる。2007年からは、学校法人旭川荘の理事長を務める。誠に、世の中にいう「花も実もある」とは、江草の人生のような博愛精神とその実践に代表されるものなのかもしれない。

(続く)

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◻️5『岡山の今昔』岡山の地質と水

2021-09-16 09:55:34 | Weblog

5『岡山の今昔』岡山の地質と水

 岡山の地層としては、何があるのだろうか。結論からいうと、実に様々なのだが、その中でも、やはり石灰岩が挙げられる。これは、生物の化石が海底にたまったものが石灰化し、地層化していった。それが地層変動により地表近くに出てきて、今日私たちの目に触れるものとなっている。
 岡山では、「三群帯」と呼ばれる、新潟県から佐賀県に至る長い帯状に石灰岩を含む地質構造が見られて、日本でも最も純度の高い石灰質を含むことで知られる。この帯に属する石灰岩の大規模な鉱床としては、山口県の秋吉台と並んで新見市の草間台地があり、これらは美しい「カルスト台地」「カルスト地形」を形成していることでも有名だ。

 ここにカルスト台地とは、石灰岩からなる台地をいう。主成分の炭酸カルシウムが雨水や地下水に溶解されやすくなっているため、鍾乳洞などのカルスト地形を形成する。
 付随して地下水は、カルシウム溶出のため、硬度が高くなる。なお、水中のカルシウムとマグネシウムの合計量を示す尺度にして、工業上は1リットル当たり100ミリグラム以下が軟水、同200ミリグラム以上が硬水、中間領域は通常硬水と呼ばれる。参考のため、一概に言えないものの、日本では軟水が主流であり、飲用ができるのが普通のようである。

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 これとは別に、岡山は、山間部を中心に水にまつわる情報ご数多く寄せられる土地柄でもある。その一つ、県内随一クラスの名水ところ「塩釜の冷泉」(真庭市八束(やつか))を紹介しよう。

 「中国山地の蒜山(ひるぜん)三座の一つ、標高1112メートルの中蒜山(なかひるぜん)中腹に湧く水が、20坪ほどの青く透んだ池を形成しています。湧出量(ゆうしゅつりょう)は日に2万6000トン、常温11度で、清水にしか育たないヒルゼンノリと呼ばれる藻(も)の生息地としても知られます。池は、山頂に向けて楕円(だえん)が2つ連なるひょうたん形で、湧出口から流れ出る小川が、水汲み場になっています。(中略)地元では、水道、灌漑(かんがい)のほか、マスの養殖にも使用しています。」(カルチャーブックス編集部編「日本列島百名水」講談社、1997)
 


(続く)


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