新630○○『自然と人間の歴史・日本篇』日本の領土問題(ロシアとの北方4島、同経済協力を巡って(2016~、韓国との竹島、中国との尖閣)

2021-09-02 22:56:48 | Weblog

新630○○『自然と人間の歴史・日本篇』日本の領土問題(ロシアとの北方4島、同経済協力を巡って(2016~、韓国との竹島、中国との尖閣)

 さて。現在の日本が直面している「領土問題」というのは、はたして日本及び世界のどれだけの人々が、それなりの問題意識をもって眺めているのだろうか、それに対する解答はなかなかに見あたらない。
 例えば、議論の中で国際法を持ち出す向きがあるのだが、双方が認めざるを得ないような、これといった条文なり、慣習法があるわけではあるまい。
 といっても、第二次世界大戦後の世界で起こっている領土問題の多くは、国対国のもめ事であろう。したがって、それを持ち出して自分の主張を正当化しようとする、それぞれの国の政府・人民の気持ちはわからないでもない。


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 ここでの話のそもそもは、第二次世界大戦の終盤からその戦後処理にかけて、顕在化した。その後、サンフランシスコ講話条約のおり、日本側は2島返還の主張であったのだが、その会議にはソ連が参加していなかった。そのため、合意は不成立であった。日本は、その後に4島一括返還要求に転じ、双方合意のないままに現在にいたっているのは、別項で述べておいた。

 「日ソ共同宣言」の後、すべからく、この領土問題の解決に向けた両国の足取りについては、遅々として進んでこなかった。それが、2016年12月になって、ロシアのプーチン大統領が来日しての日ロ首脳会談で、日ソ経済協力の活動(共同経済活動)に向けて協議することで合意した。それまでの交渉の仕切り直し、もしくは新たな目標設定ということであろうか、新たな出発だといえよう。

 ところが、2017年に入ってはやくも今後の見通しに修正を迫る動きが出できている。いずれも、ロシア発のもので、次のような動きである。

 2017年2月22日、ロシアのショイグ国防相が、わが国の呼称でいう北方4島と千島列島に、2017年中にロシア軍を配置する新しい師団をもうける考えを、ロシア下院での報告で発表した。また、ロシアのプーチン大統領は2017年6月1日、わが国の呼称でいう北方4島につき、「日本の主権下に入れば、これらの島に米軍の基地置かれる可能性がある」などと述べ、日米安保条約が適用される現状では日本への返還(条約でいうと2島となる)は難しいとの認識を示した。

 この背景には、2017年に入り、日本の政府(自民と公明の連立)が安全保障問題でアメリカに盲従を強めている中で、ロシアが危惧を抱いていることがあろう。ロシアが、自国の安全保障にとってこの島々を確保しておくことが有益だと考えるのは、現在の世界の政治・軍事バランスの上では大方自然な流れでもあろう。それから2017年8月23日には、メドベージェフ首相が色丹島での水産加工業を対象に、ロシアの法律での経済特区(先行発展地域)を創設する決定に署名したと、現地ノーボス地通信などが伝えた。

 こうなると、話は「ぎくしゃくしてくる」のが、これまでの歴史の常(つね)であって、せっかく定めた日ソ経済協力においても、ロシア領土、ロシアの法律の影響下の前提に立っての協力を求めるロシアに対して、それを望まない日本との間で引っ張り合いが強まる、そのことで全体がうまく行かなくなっていく可能性があるだろう。

 それでは、経済協力の項目としてはどのようなものが考えられるだろうか。これについて、双方にとって利益が見込め、将来性のある道が示されるべきであろう。その一つに、LNG(液化天然ガス)の共同開発・輸入が考えられるのではないか。LNGは、マイナス摂氏162度で液体(体積は約600分の1)になり、船に積んで日本に運べる。

 おりしも、2017年1月6日、東京電力ホールディングス子会社の東電フュエル&パワーと中部電力sの共同出資会社「JERA(ジェラ)」が、米国産シェールガス由来のLNG(液化天然ガス)を国内で初めて輸入した。積載船が同日、中電上越火力発電所(新潟県上越市)に到着した。

 2015年度のLNGの国別輸入比率は豪州(22.9%)が最多で、マレーシア(18.7%)、カタール(15.8%)、ロシア(8.5%)(財務省の貿易統計)。アメリカの東海岸ないし南海岸からの輸入ルートで考えれば、先頃拡張されたパナマ運河を通って大平洋に出る輸送ルートがコスト安の要因となっている。一方、ロシアからLNGを調達する場合は、今のところ船だが、ロシアとはパイプラインで繋がりうる。そういう意味では、ロシアLNG、米国産LNGを調達する動きは加速していく可能性を秘めているのではないか。


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 韓国との間では、竹島が領土問題となっていて、現在ここを占有しているのは、韓国側である。

 こちらについては、まずは歴史学の中にも、優れた研究業績なり、提言なりが提出されていて、かなりの程度、これからの道案内人になってくれるのではないだろうか。

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 それから、現在の日本と中国との間には、尖閣の島々(中国側の表現でいうと釣魚島)の領有をめぐって意見の対立がある。そこで今、ここを領有しているのは日本ながら、中国側はこれを認めていない、いやそこは自分の国のものであると主張してゆずらない。
 思い起こせば、1970年代の日中国交回復のおり、尖閣・釣魚領有帰属の問題は、まずは国交回復が大事というコンセンサスが何かしらあったりで、双方が激突を控えたのだった。

 ところが、あれから約50年を経た今日、このことを認めない議論が日本の政論に少なからず見受けられるものの、そう言うのなら、中国側になぜあのとき、その問題を明確に日本側に示し、要求しなかったのかと聞いてみるべきだろう。なぜなら、あのときの日本も、かかる問題をあえて交渉の場に持ち出さなかった。そして、もし両者があの時激突していたなら、日中国交は暗礁に乗り上げていたのかもしれないと考えるのだが、いかがであろうか。
 近いところでは、テレビの時事ニュースなり解説を見ていると、「我が国の尖閣に中国の艦船、飛行機が何回進入した」旨の話の向きなのだが、かたや中国側は自国の海域にいて何が悪いということになっているようである。それというのも、21世紀になってから、ここを日本が国有化し、占有してしまう。当時の野田・民主党首班内閣が行ったものだが、当然のことながら、中国側は反発する。
 これには、日本の学者においても、いうなれば「寝た子を起こすようなもの」との声が上がったのは、改めて述べるまでもなかろう。それからは、日中双方が、この問題で火花を散らすように変じている。
 したがって、ここで述べておきたいのは、両者が張り合っていても解決しない、話し合う姿勢がないと、もはやこの問題は解決の方向に向かうことはない。それともう一つ、日本はアメリカとの安全保障条約をかざしてアメリカに、この問題で有事が発生したら助力してほしいと頼んで、アメリカ側もこれに理解を示している。
 だが、そのことを額面通りに受け取る識者(何かしら関心のある人のうち)は、そう多くはあるまい。というのも、もはや経済力(購買力の比較でいうと、2014年に逆転、為替でも差はそれほどない、政治家や政治学者などではいざしらず、経済を勉強している者の中では、現下の状況は当然の成り行きであろう)はほぼ互角の上、軍事バランスも2018年頃を境にほぼ拮抗してきている。なお、後段については、日米の軍事専門家の間でも今や共通の認識なのではないだろうか。
 ついては、幾ら安全保障で日米に取り決めがあっても、米中がこの問題で激突する(小競り合いではなく)ことは、可能性としては少ないだろう。少なくとも、それを避けるため最大限の注意をはらうのが、この二つの大国にとっては、その時の他の何物にも増して最重要となるのであろう。
 このことをなぜ今いうのかといえば、それは1941年10~12月に遡ろう。その前の10月、近衛文麿(このえあやまろ)内閣を追い落として首相となる直前の東条英機(とうじようひでき、当時は陸軍大臣)は、支那などは日本の「心臓である」として、対米英戦争への最終飛躍を促した。それまでアメリカの力を知ることでは、人後に落ちなかったであろう山本五十六(やまもといそろく)は、それをどのように受け止めたのであろうか、けれども軍人の常として、その後の天皇(大元帥・政府・議会の大号令に従う。
 

(続く)


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61○○『自然と人間の歴史・日本篇』聖徳太子とその政策をめぐって(諸説の紹介など)

2021-09-02 20:36:29 | Weblog
61○○『自然と人間の歴史・日本篇』聖徳太子とその政策をめぐって(諸説の紹介など)

 聖徳太子(諡(おくりな)、以下「太子」と言おう)はといえば、人々の脳裡に何が浮かんでくるのだろう。数十年前までは、大方の子供たちは、教科書で「お決まり」のストーリーを学んでいたのでは、ないだろうか。それが20世紀後半からはかなり変わってきているようである。

 一番は、その頃はまだ日本というのではなくて、倭国であって、日本中心の独立した政治ということではなかったようだ。二番目は、冠位十二階の制度や憲法十七条を制定したり、仏教寺院の建設などを含め文化面でも斬新な政治を打ち出したという、その経緯を含めて、太子という人物像がはっきりしなくなっている。そうした中には、実在性を否定する有力学説さえもが提出されており、歴史の専門家(考古学者を含めて)の誰もが納得できるには、かなり隔たりができているようである。

 そこでまず、太子の生涯を簡単に振り返ってみよう。史料として、720年(養老4年)に成立した「日本書紀」などによると、一説には、聖徳太子(諡(おくりな)、以下「太子」と言おう)は、大兄皇子(おおえのみこ)こと橘豊日尊(たちばなのとよひのみこと)を父、その橘豊日尊の異母妹にあたる穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)を母として生まれる。橘豊日尊は、のちの用明大王(ようめいだいおう、在位は585~587)である。

 また、太子の外戚ということでは、父の大兄皇子と母・穴穂部間人皇女とは、ともに大豪族にして、倭の朝廷における実力者たる蘇我稲目(そがのいなめ)の孫なのであると。

 これに関連して、太子の生年を記したものとしては、平安時代半ばになって書かれた太子伝・「上宮聖徳法王帝説(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ)」があり、それによると敏達大王(びだつだいおう)の治世3年というから、574年とされる。また、聖徳太子の没年は622年とのことであり、妃(きさき)の膳部大郎女と相前後して亡くなったとしている。

 もっというと、少し繰り返しになるが、太子の父・橘豊日尊は、欽明大王(きんめいだいおう)の子にして、稲目の娘・堅塩媛(きたしひめ)を母としている。太子の母・穴穂部間人皇女も、欽明天皇(きんめいだいおう、継体大王から数えて4代目、なお継体のあとは2代目・安閑)を父とし、堅塩媛の妹・小姉君(おあねのきみ)にして稲目の娘を母としている。
 
 とはいえ、太子は、かの継体大王以来の第一順位の直系とは認められない、というのが、当時からの大方の見方であったのだろう。すなわち、敏達大王と王女広姫(ひろひめ)との間には押坂彦人大兄皇子(おしさかひこひとおおえおうじ)がいて、こちらの方がより大王家の直系だというのは、はっきりしていよう。そうであれば、幾ら太子が女帝の推古大王(用明大王の妃にして、そのことゆえに同王の次の王を引き継ぐことができた女性)の下で善政を行い、ゆくゆくは彼女の権威を引き継ごうとしても、やや無理があったのだと目されているようである(例えば、山本博文「歴史をつかむ技法」新潮社新書類、2013)。
 
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 ここでのまとめとして、前記と重なる記述が相当あろうが、次に太子を巡りどのような政治・社会の動きがあったかを、簡単に振り返っておこう。
 587年には、用明大王が死去し、これに乗じて蘇我馬子らが物部氏を滅ぼす、これには太子も仲間に入っていて、従軍する。用明大王のあとは、より蘇我氏の息のかかっていたであろう、蘇我稲目(そがのいなめ)こ孫にして、欽明大王と稲目の娘・小姉君の間にできた崇峻が大王となる。592年には、蘇我馬子らが崇峻大王を暗殺し、新たに豊満宮にて即位した推古大王の治世となり、翌593年には、太子が皇太子となる。この年、四天王寺の建立を開始する。595年には、高句麗の僧侶・慧慈(けいじ)が来日すると、太子は彼を師として学ぶ。600年には、遣隋使を派遣する。603年には、推古大王が、小墾田宮へ遷都。この年冠位十二階を、翌604年には十七条憲法を制定する。その翌年の605年には、宮を斑鳩(いけるが)にうつす。606年、太子は推古大王に勝鬘経と法華経を講説したという。607年には、斑鳩寺(法隆寺)を建立し、遣隋使に小野妹子(おののいもこ)らを派遣する。
 しかしながら、それらの政策は時の実力者たる馬子共々成したものであろうし、またそれらを記した「日本書記」などには粉飾などが相当あるようで、どこまでを太子が中心になって行ったものか、史実なのか、研究者の見方は割れている。
 太子が皇太子のまま亡くなったあとは、下り坂と言おうか、643年には、太子の息子の山背大兄王皇子を蘇我馬子が攻め殺し、一族は滅亡してしまう

 そして現在、太子の墓と目されてきるのが叡福寺北古墳(宮内庁による治定、えいふくじきたこふん、現在の大阪府南河内郡太子町にあり、磯長谷古墳群を構成する古墳の一つ)という直径約50メートルの円墳で、本人とその母、妃が葬られたとされる。



(続く)

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