121『岡山の今昔』明治・大正時代の岡山(郵便と電話)
さて、1870年(明治3年)には、前島密により、国家による新式の郵便事業が建議される。
同年には、工部省(こうぶしょう)が設置される。これが指令元、関連予算の出所などとなって、鉄道の敷設や重要鉱山・炭鉱の経営、造船などを官営事業として展開していく。
「欧米に学び、欧米に追い付け」というのが、国家の目標とされる時代であったことだろう。
その流れでは、近代的な郵便や電信なども、国家の行う官営事業として行われていく。
これらのうち郵便事業については、1871年(明治4年)に郵便創業が創業する。具体的には、東京、京都、大阪間ということで郵便業務が開始される。そのまた翌年の1872年(明治5年)には、北海道の一部を除いて全国に郵便が敷かれる。1873年(明治6年)になると、全国一律の料金制度が導入される。
続いて、1875年(明治8年)には、郵便為替と郵便貯金事業を開始する。1885年(明治18年)には、逓信省が発足する。
これが、さらに1916年(大正5年)の簡易生命保険創業などというように、事業を拡大していく。結果、全国各地に大小の郵便局、電話局、電信局などの整備需要が生まれ、明治・大正・昭和から今日までの建築業・建設業の礎を築いた。
そのような流れで、岡山においても、近代的な郵便制度が整えられていった。他にも、1903年(明治36年)には、岡山に電話が開通する。
(続く)
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382に合併『岡山の今昔』岡山人(19世紀、花房端連)
花房端連(はなぶさまさつら、1824~1899)は、備中の吉備郡真備町(現在の倉敷市真備町)の岡田藩士の次男に生まれ、岡山藩士、花房義考の養子となり。
やがて藩士として頭角をあらわし、岡山藩の少参事、権参事を務める。廃藩後には新政府に召し出され、工部省鉄道寮に出仕し、鉄道権助となる。陽の当たる境遇となった訳だ。
大坂での在勤中、郷土のために働いてもらいたいとの高崎五六県令などから要請があったと伝わる。
1877年(明治9年)には、第二十二国立銀行を岡山に創立し、頭取に就任。また16年岡山紡績会社を創設する、
1889年(明治22年)には、岡山の市制施行にともない初代岡山市長となる。翌年には、辞職する。
他にも、岡山商業会議所・山陽鉄道会社・岡山積金会社などの発起人または顧問を務める。
また、広い意味での社会福祉活動にも精出していく。1896年(明治29年)
には、花房ら有志により、岡山慈恵会が組織される。1897年(明治30年)
には、河野知事らとともに発起人となり、備作恵済会と改め寄付を募り、岡山市瓦町に免囚保護院と感化院の両院を発足させる。
1900年(明治33年)には、感化院は、三門に移り三門学園と称す。1928年(昭和3年)には、岡山県に寄付する。 ちなみに、現在の 岡山県立成徳学校は、その後身である。
1900年(明治33年)には、感化院は、三門に移り三門学園と称す。1928年(昭和3年)には、岡山県に寄付する。 ちなみに、現在の 岡山県立成徳学校は、その後身である。
免囚保護院については、昭和8年に市内東古松に移り、財団法人備作恵済会古松園となり、現在に至る。多くの恵まれない人たちの保護と更生を、社会復帰を助けていく。
およそこのようにして、岡山市政、産業、社会活動における草分け的存在となったのには、「資性温厚で徳望高く」(原三正「岡山の貨幣」日本教育出版社、岡山文庫53、1973)といった人柄も寄与したのであろう。
(続く)
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およそこのようにして、岡山市政、産業、社会活動における草分け的存在となったのには、「資性温厚で徳望高く」(原三正「岡山の貨幣」日本教育出版社、岡山文庫53、1973)といった人柄も寄与したのであろう。
(続く)
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