◻️93『岡山の今昔』解放令~四民平等の告諭(1871)と水平社運動

2021-09-30 22:52:04 | Weblog
93『岡山の今昔』解放令~四民平等の告諭(1871)と運動

 まずは、1871年10月12日(明治4年8月28日)には、太政官布告ということで、等の称や身分の廃止などの旨を記す。それには、こうある。
 「等ノ稱被廢候條、自今身分職業共平民同様タルヘキ事。
辛未(かのとひつじ)八月、太政官
 ノ稱被廢候條 一般平民ニ編入シ身分職業共都テ同一ニ相成候様可取扱 尤地祖其外除◻️ノ仕来モ有之候ハ丶引直方見込取調大蔵省ヘ可伺出事。
辛未八月 太政官」
(ただし、本文中の◻️は「溢」の旧字の傍に「蜀」)

 ここに、「・等の称、廃せられ候条、自今、身分・職業とも平民同様たるべきこと」というのであるから、従来用いていた「」「」等の身分の名称が廃止となったので、これ以後は、かかる範疇での、いずれの身分や職業も平民と同様とすべきである、ということになるという。
 このあと、具体的な廃止の手順などが簡単に書かれ、各府県へよろしく通達するように、となっている。


 次に移ろう。それから約2か月が経っての「四民平等に関する告諭」(1871年12月26日(明治4年11月15日)付け)を紹介しよう。こちらは、かなりの復古調の文言にて、こうある。

 「夫れ天地の間草木生し禽獣居り、虫魚育す。日月之を照し、雨露之を瀑し、生生育育運行流通して更に息む時なし。人天地の正気を稟け其の間に生し霊昭不昧の良知を具足す。故に之を万物の霊と言う。

 夫草木禽獣虫魚人物生育處を五大州と言う。五大州中に区々の国を別つ文字を知り、義理を明らかにし、人情を弁へ風俗美にして知識技能を研究し勉強刻苦心を同うしか殲せ。(中略)

 老少男女の差別なく人々報国の志を懐く之を名けて文明開化の国と言う。(中略)

 古へは士農工商を別ちて文字を知り、義理を明にせし者を士と言う。今や士農工商の別なく、万物の霊たる人間に教を設け義理を明かにして、風俗を正し知識技能を研究し勉強刻苦心を同うし、力を戮せ。
 人々をして国に報るの誠を懐き開化の域に進ましむるにあり。(中略)

 真に其子を愛するなら学校に入れ、人間の道を学はしめ、刻苦勉強して開化安楽の境に至らしむ可し。是天地無用に報ひ、朝旨に答ふる所以なり。」(出所は、池田藩市政提要を元資料とした、岡山平野研究会「藩政資料抜粋一」1959)
 
 これにあるのは、要は、「万物の霊たる人間に教を設け義理を明かにして、風俗を正し知識技能を研究し勉強刻苦心を同うし、力を戮せ。人々をして国に報るの誠を懐き開化の域に進ましむるにあり」とあるように、これからは「朝旨に答ふる」べく、分け隔てのない、「臣民」(この文面にはないが)の立場で一生懸命がんばりなさい、というのであろう。 
 このように、上の方から諭す体裁をとっているのは、天皇並びに朝廷は旧体制下にも増して雲の上の存在であり、その意を体しての政府の指示、命令には率先して従うように、という論理構成に他ならない。


 ちなみに、明治時代となっての族籍別での人口構成は、どういう構成だったのだろうか。これを1873年(明治6年)ということでいうと、次の通りとされる(平野義太郎「日本資本主義社会の機構」)。
 すなわち、総人口は、3329万8286人。このうち華族が2829人、旧士族が154万8568人、それに旧足軽以下が34万3881人であり、これらを合わせての総人口にしめる割合は5.7%であった。

 次に、平民を見ると3110万6514人で、総人口の大部分、93.41%を占めていた。なお、1872年に、「旧足軽」については、その一部を士族、残りを平民に編入して廃止された。
 それから、僧尼(そうに)が6万6995人、旧神官が7万9499人、最後に、不詳(推計)としてちょうど15万人を充てている。 

 さらに、1922年(大正11年)3月3日には、京都の岡崎公会堂(現在の京都市美術館別館=左京区岡崎最勝寺町)において全国創立大会が開催され、全国の被差別から約3千人が結集する。
 そうして全国が創立された翌年の1923年(大正12年)には、岡山市内の被差別が中心となって岡山県を創立する、そこに全県下から仲間が結集して、この運動を担っていく決意を固め、世間にアピールする。


(続く)


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

◻️121『岡山の今昔』明治・大正時代の岡山(郵便と電話)

2021-09-30 22:26:58 | Weblog

121『岡山の今昔』明治・大正時代の岡山(郵便と電話)

 さて、1870年(明治3年)には、前島密により、国家による新式の郵便事業が建議される。
 同年には、工部省(こうぶしょう)が設置される。これが指令元、関連予算の出所などとなって、鉄道の敷設や重要鉱山・炭鉱の経営、造船などを官営事業として展開していく。
 「欧米に学び、欧米に追い付け」というのが、国家の目標とされる時代であったことだろう。

 その流れでは、近代的な郵便や電信なども、国家の行う官営事業として行われていく。
 これらのうち郵便事業については、1871年(明治4年)に郵便創業が創業する。具体的には、東京、京都、大阪間ということで郵便業務が開始される。そのまた翌年の1872年(明治5年)には、北海道の一部を除いて全国に郵便が敷かれる。1873年(明治6年)になると、全国一律の料金制度が導入される。

 そんな中でも、岡山の郵便事業においては、交通の不便な地域で郵便物の集配をどのように行うかが当面の重要課題であったようで、次のような記録(「北条県史」から)が出されている。

 

 「明治5年1月4日、郵便取扱所を津山に置き、備前岡山へ隔日に往復する。7年12月、新線路を開くのに当たって、この中間に設け、改めて往復する。この年、東西の官道上に郵便取扱所7か所を置く。大庭郡久世村、真島郡の真島(勝山)、美甘村、新庄(しんじょう)村(以上出雲街道沿い)に置き、隔日に往復する。6年8月から東西路上の郵便往復毎日になる。脚夫の賃銭は、美甘から新庄の間は、道路嶮岨(けんそ)に属性するため、特に1里を6銭にする。平坦地の1里は3銭。」


 続いて、1875年(明治8年)には、郵便為替と郵便貯金事業を開始する。1885年(明治18年)には、逓信省が発足する。
 
 これが、さらに1916年(大正5年)の簡易生命保険創業などというように、事業を拡大していく。結果、全国各地に大小の郵便局、電話局、電信局などの整備需要が生まれ、明治・大正・昭和から今日までの建築業・建設業の礎を築いた。

 そのような流れで、岡山においても、近代的な郵便制度が整えられていった。他にも、1903年(明治36年)には、岡山に電話が開通する。


(続く)


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


◻️341『岡山の今昔』岡山人(19世紀、緒方洪庵)

2021-09-30 21:39:51 | Weblog

341『岡山の今昔』岡山人(19世紀、緒方洪庵)

 緒方洪庵(おがたこうあん、1810~1862)は、備中の足守藩の藩士の家に生まれる。大坂に出て、医学を学ぶ。洋学者の中天ゆう(なかてんゆう)が先生であったという。1830年には、江戸に出て、坪井信道(つぼいしんどう)らに蘭学を学ぶ。それにもあきたらずか、1838年には、長崎に行き、蘭学を深める。こちらは、「遊学」であったとか。

 1838年に、大坂で「適塾」を始める。1844~1864年までの適塾姓名録には、637名のうち、岡山出身のものは46名を数える。彼らは、医学を習得して故郷に帰り、そこで開業していく。

 その著書も多い。「扶氏経験遺訓」(30巻)や「病学通論」(3巻)など。社会活動は医師ならではの活躍を示す。西洋医学で発明された種痘を日本に取り入れる。幕府にはたらきかけて、種痘の普及やこれらの治療などに力を尽くす。その人脈を通じて、種痘の種を送り、全国に広まっていく。多くの命がこれで救われたのだという。

 そんな中でも、「医の世に生活するは人の為のみ、おのれがためにあらずといふことを其業の本旨とす。安逸を思はず、名利を顧みず、唯おのれをすてて人を救わんことを希ふべし」(「扶氏医戒之略」)というのは、空前絶後と見なしうるのではないか。

 1862年には、幕府に呼ばれて、江戸に出向く。医師兼西洋医学所の頭取に就任する。翌1863年に急死したのには、過労やストレスなどがかさんだのではないか。加えるに、学問の人を悩ませたのは、人付き合いの苦労が大きかったのではないか。


 かくて、江戸の勤めは、洪庵には、肉体的にも精神的にも極めてきつい毎日であったことが、子供あての次の手紙からも読み取れよう。

 

○「病弱の体質、老後の勤め、中々苦労の至(いたり)、殊(こと)に久々住みなれたる土地を放れ候事。経済においても甚(はなは)だ不勝手、実に世に謂(い)う有難迷惑なるものに、これあり候。」(文久2年6月17日、在長崎子息平三・城次郎あて)

 

○「とても蓄えの金子にては相足不申(あいたりもうさず)。身分こそ高く相成(あいなり)。有難きことには候へども、是れより大貧乏人と相成。」(文久2年9月晦日(みそか)、在長崎跡継ぎ洪哉あて)



 ちなみに、病の洪庵を看取った八重夫人の述懐には、こうある。

「昨秋より一方ならぬお勤め、今までは我がままにお暮らしなられ候御身が御殿向きの事、また医学の御用向き、何につけてもご心配の多く、世上は騒がしく、子供は大勢なり。

 ご心配ただの一日も安心と思い召さずに、こ病気もかねて胸の痛みもなく、・・・にわかに咳が出て、その時少々血が出て、また咳が出て候えば、この時はもはや口と鼻の両方に、一時に血がとんと出て、そのまま口をふさぎ、縁側のところに出て、血を吐かれ候ところ、追々出て、もはや吐く息は少しも相成らず候と相見え、・・・こと切れ申し候・・・。」(柳田昭「緒方洪庵生誕200年前夜ー病弱な洪庵が偉大な業績をあけた原動力ー」に引用される、八重夫人が洪庵の死後、名塩の妹に送った手紙から)
 

 ちなみに、洪庵は筆まめな人であって、中でも日記や「詠草」などにおいては、そのたおやかな文体とともに、慨嘆など思いの丈が読み取れるものとなっている(例えば、緒方富雄、司馬遼太郎「緒方洪庵」、海音寺潮五郎ほか著の「日本史探訪」角川書店、1972に、それらの抜粋が写真で紹介されている)。

(続く)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆