まさおレポート

カラマーゾフの兄弟と小説作法4

人として離れられない俗物性と聖性の両面を描く。

子どもが領主の大切な犬に石を投げて怪我させたことが領主の怒りを買い、翌早朝、寒い中でその子の母親を含めて領民を並ばせて見学させ、その前で子供を裸にして逃げろとけしかけ、領主が猟犬に追えと命令し、犬たちが子供をずたずたにして殺す。母親はその残虐な光景をただ見ているほかはない。イワンがアリョーシャに、領主は退役将軍で農奴制度廃止も意に介せずで領民の生死を我が物としている実話として話して聞かせ、「神が創った世界を認めない」という理由の一つとしてその話をアリョーシャに聞かせる。

イワンは表面的には知的で極めてクールな男として描かれるが、こうした哀れな母娘に対する深い共感を持つ男でもある。こうした深い共感を持つからこそ、こうした残虐をあえてこの世に存在させる神に不信を抱いている。イワンは神の存在を否定しないが「神が創った世界を認めない」。もっともこの神の存在を否定しないのも頭で考えだしたもので、ボルテールの「神がいなければつくり出さねばならない」を引用するところをみると神の存在の肯定も深い信念から出たものではない。こうした神の知的理解は当時のロシアでは受け入れやすかったのか、コーリャまでその影響を受けて同じセルフをアリョーシャに吐く。(コーリャはどこでイワンの感化をうけたのだろうか。接点は無いように思うので、当時流行りのクールな考え方なのだろう)

イワンは、やがて復活の日がやってきてこの領主も子供も母親ももろともに手をつないで調和の世界を喜ぶことができるかとアリョーシャに問いかける。そしてイワンが受け入れられないのはこの大団円的ストーリーなのだと納得する。演劇やオペラではフィナーレの後に悪役もヒーロー、ヒロインも最大の笑顔で手をつないで拍手に迎えられて登場する。無垢の少年が犬を怪我させたくらいでかみ殺されて、その後にくる復活の日に一挙に「めでたしめでたし」ではたしかに感情の始末に困る。

イワンはその復活の日をこの眼でみたい。きりんもライオンもシマウマもお互いに仲良く暮らす復活の日を目で見たいとも言い、又同じ口から、その日が来ても母親であれば復讐の炎は持ち続けるほうが納得できると述べる。復活の日の存在は認めてもそのありようは認められない。父のフョードルもアリョーシャに酔って「神はいるのか、来世はあるのか」と尋ねるが、イワンは神はいるのかいないのかを超えた複雑な懐疑に陥っている。

イワンの述べる大審問官は神を棚上げしてこの世は実権を悪魔と手を組んだ教会のビューノクラートつまり大審問官が握っているという説だ。アリョーシャはイワンの後姿の右肩が下がって見えたことで、イワンは悪魔と手を組んだことを示唆する。大審問官はキリストのキスを受けて彼を火刑にせずに牢から放つが、別段大審問官は狂うわけでもない。神の非難を引き受けてでも民の生きやすい信仰を与えるという極めて強い信念と決意があるからだ。

一方、イワンはゾシマ長老に指摘されるように信念が中途半端で、しかも女と金が実は大好きときている。イワンはその中途半端さで狂い死ぬ。大審問官はローマ教会の体現者であり、作中で帝政ロシアの警察幹部が最も恐れた「信仰のある社会主義者」を体現したものであるかもしれない。信仰心の篤いリアリスト、これはドストエフスキーの理想形でもあるのだろう。大審問官は実はドストエフスキーでもある。

生まれたてのねばねばした青葉を愛するイワン、天空の星空のもとで大地に伏して聖なる感動にふるえるアリョーシャは素朴な信仰者だが、甘いものを愛する男でもあり、偽善的な愛を本当の愛と勘違いする男でもある。ミーチャはキリストと同じく贖罪のために無実の罪をかぶる、崇高でありでたらめな男である。3人ともまともではない。カテリーナもグリーシェチカも同じくまともではない。これらの「まともでない人々」が運命の波に現れてどこへともなく運ばれていく。カラマーゾフの兄弟」の登場人物は「まともでない人々」つまり聖と俗で満ち溢れている。

ゾシマ長老は死体が腐臭を発し、イリューシャは病死するが腐臭を発しない。作者はこの腐臭の在りなしで何を言いたかったのだろう。腐臭を発しないのが民衆の求める奇跡だとすると、信仰と奇跡は全く関係ないのだといいたかったのだろうか、あるいはゾシマ長老は俗に堕しており、イリューシャは無垢の少年故に腐臭を発しなかったのか。これも謎の一つだが私には後者のようにも読める。つまり完全な聖は存在しないとの主張が読み取れる。

ミーチャの宗教観に注目してみよう。ミーチャは20年前にクルミの実を分け与えられたことを忘れずにいて、老医師ヘルツェンシュトーベを訪ねて往時のお礼を言う。餓鬼子(がきんこ)の夢をみたことで、自らの罪深い人生を顧みて人類に対する普遍的な贖罪の念を強める。冤罪にもかかわらずあえて(キリストのように)罪をかぶろうとする。そんな一面をもつミーチャを初対面でみぬいていたからこそゾシマは足元に接吻した。

イワンはミーチャに対して馬鹿な放蕩野郎としか見ていない。カテリーナを挟んでの嫉妬も含まれているが結局聖性の一面しかみれない。理性のみ発達した近代人であり、ミーチャの聖性には最後まで気がついていない。

しかしミーチャの脱獄計画を練る。自己の犯した罪の意識を軽くしたいがためであり、深い人間性から発したものではないとの読み方もできるが深いところでミーチャの聖性に気が付いている。

ミーチャのカテリーナに対する許しも尋常ではない。カテリーナは裁判の土壇場で決定的な裏切りを行う。あたかもキリストを売ったユダのような女性カテリーナでさえ許す。一方ではグルーシェニカに対する狂いようや放蕩三昧は半端ではない。

俗物、半端者の代表のようなミーチャの中に聖性を見出せる。まさに歎異抄と同じものを作者はミーチャに見ている。

アリョーシャはどうか。誰からも好かれるのがアリョーシャの特質で、親父のフョードルからでさえ好かれる。ミーチャも信頼を寄せ、グルーシェニカも好意を抱く。(性的な誘惑さえ試みる)コーリャやイリューシャそのほかの子どもたちにも好かれる。例外は知的なイワンでアリョーシャの神がかり的なところを極端に嫌い、一時は絶交する。神がかりは聖性と無関係だとの認識だろう。アリョーシャを受けいれられないイワンは狂う。ここに作者の深い配慮があるとみるのだが。

アリョーシャの宗教観はゾシマの腐臭でぐらつき、イワンの大審問官に影響されてイエズス会だと口走る。悪魔は甘いものが好きだといわれながら、甘いものが好きであり作者はアリョーシャにも悪魔性つまり俗物性があることを示す。

小悪魔然としたリザベータに魅かれているが、この引かれ方はどうも一般的な引かれ方ではない。アリョーシャは兄弟三人の中で最も聖なるものに対する希求を持っているように描かれるがしかしそれは母親譲りで神がかり的ないびつなものも入り込んでいる。(母親の話を聞いたときの異常な反応でそれがわかる)つまりアリョーシャも半端者で俗物であり、カラマーゾフ的なのであり、決して完全無欠の聖性をもつ男ではない。

三人の兄弟はそれぞれに半端者でありカラマーゾフだと作者は作中で何回となく記している。カラマーゾフ三兄弟がそれぞれに俗にのた打ち回りながら聖性を求める物語と読める。それは生涯賭博癖や浪費癖に苦しんだ作者ドストエフスキーの分身だ。

アリョーシャはゾシマ長老に人的に入れ込んでおり、彼の神概念はキリスト神学に忠実であると言うよりむしろロシアの土着的信仰心が基本にあり、それが組織としてのキリスト教修道院に「たまたま」つながってキリスト教という形をとっているように感じられる。兄と別れた後に見る天上の星たちに素直な宗教的感動を覚えるアリョーシャに共感を覚える。

アリョーシャが非常に慕っているゾシマ長老も直感や予知能力に優れ、彼の説教はキリスト教をベースにしてはいるが、もっと抽象的な神と置き換えても通用する、ロシアの土着的アニミズムだ。ゾシマ長老を仏教僧に置き換えても違和感はないほどだ。そのゾシマ長老を慕うアリョーシャも直観力に優れて人の深層に潜む考えを読むことに長けている。両者ともに俗すれすれの聖性を保つ。

アリョーシャが人の心を読むことに長けているのはイワンに向かって、父を殺した犯人は「あなたじゃない」と述べるところに端的に示される。「あなたじゃない」はアリョーシャの深い慈悲と鋭い感覚を示している。

この小説は作者ドストエフスキー自らアリョーシャの伝記小説だと宣言している。アリョーシャは、いったいどこが優れているのかは「たぶん、小説を読めばおのずとわかるはずです」(p9原訳)と述べ、また、「奇人とは『必ずしも』個々の特殊な現象とは限らぬばかりか、むしろ反対に、奇人が時として全体の核心を内にいだいており」(原訳)と書き、アリョーシャを誰からも愛される、人をさげすんだことのない青年として描き出す。「誰からも愛される、人をさげすんだことのない青年」は当時も今も十分に奇人なのだ。そして作者からみて聖は奇人なのだ。

「だが、困ったことに、伝記は一つだが、小説は二つあるのだ。・・・これはほとんど小説でさえはなく、わが主人公の青春前記の一時期にすぎない。」(原訳) 未完の第二部でなにか大きな変化を予想させるかのような書き方である。ドストエフスキーの友人にあてた手紙には第二部でアリョーシャが革命家になって処刑される筋が語られているが、作者は「この青年は人々を愛していたし、どうやら他人の事を完全に信頼しつつ、生涯をすごしたようである」とも書いている。どう考えればよいのだろうか。

革命家になって処刑されるというのが当初の構想であり、しかし作品が独り歩きを始めると、「どうやら他人の事を完全に信頼しつつ、生涯をすごしたようである」と変化していったと理解してみる。アリョーシャでリアルな聖人の軌跡を描きたかったようだ。つまり次のように聖俗まざりあった男を描きたかったのだろう。

「アリョーシャは・・・ヒステリーの発作に全身をふるわせはじめた。老人をとくにうちのめしたのは、その姿が死んだ母親と異常なくらい似ていたことだった」 

作者は癲癇の持病があり、アリョーシャもヒステリーの発作を起こす。アリョーシャ母子はイワンも含めて神がかりであり、神がかりはシャーマンやジャンヌ・ダークを想起するが教会に忠実であるよりもむしろアニミズムへの傾向をもち、ローマ教会からは異端である。キリストを奇跡よりもむしろ「神がかり」を手掛かりに理解するロシアの土着的傾向が作者ドストエフスキー、ゾシマ長老、アリョーシャ親子に共通してみられる奇人ぶりだ。

「ふいに静かに甘い笑いをもらした。しかし彼はそこで、ぴくりと体を震わせた。その笑いが罪深いものに思えたのだ」 P430

 アリョーシャの身障者の女性リズに対する屈折した性嗜好と自らの罪に対する鋭い感受性を暗示する。アリョーシャの子ども好きと脚萎えのリズに対する愛は通じており、作者は主人公アリョーシャにも容赦のない悪魔性、原罪の指摘を行い、常に善人。聖人の心にも入り込んでくる悪魔、俗物性との戦いを描いている。

「僕はひょっとして神様を信じていないのかもしれない」 2巻p177

「さっき庵室の入り口につめかけた群衆の中に、動揺する他の人々にまじってアリョーシャの姿があったことに気づいたのだが、・・・アリョーシャは奇妙な、非常に奇妙な視線を投げた。3巻p37

 「ぼくはべつに、自分の神さまに反乱をおこしているわけじゃない、ただ「神が創った世界を認めない」だけさ」…ゆがんだ含み笑いを浮かべた。」p48

アリョーシャの懐疑は輝く星や花々からの神秘な霊感によって「もう生涯かわらない、確固とした戦士に生まれ変わっていた」イワンが理性だけの人であり崩壊するのに対し、アリョーシャのこうしたアニミズム的感覚を基礎にした信仰が彼の崩壊を救った。

「ドーミトリーを乗せた馬車は、街道をまっしぐらに突き進んで行った。…アリョーシャが地面につっぷし、「有頂天になって永遠に大地を愛すると誓った」のと同じ夜、ことによると同じ時間だったのかもしれない。」

時間を一にしてイワンを除いた兄弟が大地を愛する瞬間をもつ。イワンの聖と知では救いがないことを作者は示している。

「薔薇の名前」にも上記に通じる描写がある。

「いや、むしろ目の中で。太陽の光線のなかで、鏡の映像のなかで、何ごともない事象のあちこちに拡散した色彩のなかで、濡れた葉に照り返す陽射しのなかで、光として感じとられる神・・・・・・そのようにして捉えた愛のほうが、被造物のうちに、花や草や水や風のうちに神を讃えた、フランチェスカに近いのではないか?この類の愛にはいかなる裏切りも潜んでいない。それに引き換え、肉体の触れあいのうちに感じた戦慄を、至高者との対話にすり変えてしまう愛は、わたしには好きになれない・・・・・・ 」薔薇の名前 p98

「そうそう、あなたにひとつ、おかしな夢の話をしてあげるわ。わたしちょくちょく悪魔の夢を見るの。夜みたいなの。ろうそくをともしながら部屋にいると、急にいたるところに、それこそ部屋の四隅に、悪魔があらわれるの。・・・ぼくもそれとまったく同じ夢を、なんどか見たことがありましたよ。・・・二人の別の人間が同じ夢を見るなんてことが、ほんとうにあっていいの?」 4巻 p205

リズとアリョーシャの会話だがここにも聖と俗が示される。

長男ドミトリーは、冤罪のシベリア送りを原罪を償うためにという理由で納得する。この男の宗教観は、世界に不幸な子供達が存在する事が自らの罪と考える原罪意識をもつ男で、イワンの知ではなく情として対照的に自分の罪として引き受けてしまう。兄弟ともに深層に漂うのは罪の意識なのだが対処のしかたが異なる。

ゾシマ長老がドミトリーに拝跪するシーンがある。原罪意識をもつドミトリーに高貴な精神を見出すとともにその原罪意識故に凄まじい苦悩を予知して共感する複雑な思いがこの跪拝だろう。父親殺しの冤罪を甘んじて受けるのも、乱痴気騒ぎにうつつを抜かすのも、餓鬼子の夢をみるのも、この原罪意識から出ている。

もう一つはゾシマ長老がドミトリーにかつての自分、乱暴者で部下を殴ったり決闘したりする若き日のゾシマを見たのだろう。

「美の中じゃ、川の両岸がひとつにくっついちまって、ありとあらゆる矛盾が一緒くたになっている。・・・おそろしいくらいの秘密が隠されているんだ。・・・理性には恥辱と思えるものが、こころにはまぎれもなく美と映るもんなんだよ。・・・美の中じゃ悪魔と神が戦っていて、その戦場が人間の心ってことになる」 p?

グルーシェニカに対する恋情を美と表現しているのだが聖と俗のバランスが美を生むと作者は述べているのだ。

精神の高揚つまり美の瞬間での悪魔と神の相克は次の文章にも見ることが出来る。 

「おれはあのとき三秒から五秒くらい、恐ろしい憎しみを感じながら相手をにらんでいた。・・・気が狂うほどの激しい恋と、紙一重の憎しみをかんじながらだ!・・・お前にはわかるか。ある種感動の極みでも人は自殺できるってことが」

 「アリョーシャ、じつはこの二ヵ月間、おれは、自分のなかに新しい人間を感じているんだ。・・・もしあの雷みたいな一撃がなかったら、ぜったいに外に姿を現すことはなかったものさ。恐ろしいことだよ。」 p229

  「どうしておれはあのとき、あの瞬間、餓鬼の夢なんて見たんだろうな?「どうしてああも、餓鬼はみじめなんだ?」あれが、あの瞬間、このおれの予言になったんだ。餓鬼のために、おれはいくのさ。だって、だれもが、だれに対しても罪があるんだから。すべての餓鬼に対してな」 4巻 p229

カテリーナが評するドミトリーの高潔性とはこのように親子の苦しみを感じ、我が原罪と結びつける彼の人柄にある。

これはドミトリー自身が幼児期の母親の家出という子どもにとっては最大の悲哀を経験し、父フョードルが彼を下男グリゴーリーに預けっぱなしでその存在すら忘れるほど、一向に面倒を見てもらえない自らの幼児期の悲哀とが深層で重なりあってみた夢だろう。

 スメルジャコフ 

なんとも不可解な男で、一体こいつは何者だろうと考えさせるスメルジャコフだ。父親がフョードルであるらしいのでカラマーゾフの兄弟につらなる兄弟である(らしい)。イワンを父親殺しで脅しながらも最後に「誰にも迷惑をかけないように」との言葉を遺して縊死するのがさらに不可解である。作中、邪悪さの代表のように描かれていて読者もそう思い込んでいるところに、善人のように殺して奪った大金をイワンに返し、「誰にも迷惑をかけないように」と自殺するのだから。しかし決して父親殺しを自分がやったとは遺書に遺さない。

「世の中を隅っこからうかがうような人嫌いの少年に成長した。子供の頃、彼は子猫を縛り首にし、そのあとお葬式のまね事をしたものだ。そのために彼は僧衣がわりのシーツをまとい、子猫の亡骸を見おろしながら歌ったり、香炉のかわりになにかをふりまわすのだった。すべては極秘裏に行われた」

スメルジャコフは劣悪な環境のままで育つ。

「召使のスメルジャコフと仲良しになったんですね。・・・つまりパンを一切れ、柔らかそうな部分を選んで、そこに針を刺し、どこぞの番犬になげあたえたわけです。・・・ぼくに告白している間、本人はもう泣いて泣いて、ぼくにすがりついて、ぶるぶる震えていました。 」4巻 p64

「ぼくはそこで、旦那さまのテーブルに置いてあった例の鋳物の文鎮、覚えておいででしょうが、1キロ以上もありそうなやつです。あれをつかみまして、振りかぶり、後ろから後頭部のてっぺんめがけて、打ち下ろしました。」4巻p335

「じゃあ、どうして返したがる?」「もう、たくさんです……なんでもありません!」…「イワンさま!」「なんだい?」「さようなら」4巻p345

 スメルジャコフはイワンの絶望と異質の絶望に陥る。イワンの理性の崩壊とともにスメルジャコフの「代替理性」も崩壊し絶望に陥る。

「だれにも罪を着せないため、自分の意思と希望によってみずからを滅ぼす」p399

スメルジャコフでさえ最後に聖をしめして自殺した。実に驚くべき結末だ。

「イワンさま!」「なんだい?」「さようなら」の会話にそれを強く感じる。

さてフョードルはどうか。無神論であるが、どこかでそれを不安がっている。

「人間とは、たとえ悪党でさえも、われわれが一概に結論づけるより、はるかにナイーブで純真なものなのだ。我々自身とて同じことである。」 原訳

「男がだね、何かの美に、女の体や、でなきゃ女の体のある一部だっていい、いったんこれにほれ込んだら、そのためには自分の子どもだって手放してしまうし、父親だろうが母親だろうが売り渡してしまうんだ。正直者だって平気で盗みをやる。おとなしい男だって平気で人を切り殺す、忠実な男だって平気で人を裏切るんだ」

上記のように女の魅力を美と定義し俗にも聖にも属することを作者は述べる。フョードルは女の魅力に俗の方から入っていった。しかし片隅の聖もかすかに息づいており「じつは、おれはイワンが恐いんだ」 P379 

同質ゆえにイワンの気持ちがわかる。そのための怖さと読める。

 

神秘と奇跡の違いに迫る。

奇跡、神秘、権威のうち、奇跡と神秘の差がよくわからなかった、 Wikipediaで調べても下記のように差がよくわからない。

神秘とは、人間の知恵では計り知れない不思議、普通の認識や理論を超えたこと、奇跡は、神など超自然のものとされるできごと。人間の力や自然法則を超えたできごととされること。

「カラマーゾフの兄弟」では奇跡、神秘、権威が人をコントロールする三種の神器になっている。奇跡と神秘同じ意味のものを並べるはずがないので面食らってしまっていた。しかし実は奇跡と神秘をこれほど詳細に描くことで聖と俗、無明を言い表しているのだ。

「わたしは自分のこの地上での人生が、新しい、無限の、知られていない、しかし間近にせまった来世での人生とひとつに触れ合おうとしているのを感じ、その来世の予感から魂は歓喜にふるえ、知恵はかがやき、心は喜びに泣いているのだ」・・・p377

  「この地上では、多くのものがわたしたちの目から隠されているが、そのかわりに異界との、天上の至高の世界との生きたつながりという、神秘的で密やかな感覚を授かっているのだ。それに、わたしたちの思考と感情の根はここではなく、異界にあるのである。だからこそ哲学者たちも、事物の本質はこの地上では理解できないと語っているのだ」

神秘的で密やかな感覚こそが唯一の異界(あの世)をみる管であり、至高を感じる触覚であるとすでに臨終が近く、異界と聖界の境に立つゾシマ長老は述べる。しかし俗との縁も切れないことを異臭で示す。聖と俗を合わせ持つのが現実だと作者は述べているのだ。

「棺から少しずつ洩れだした腐臭は、時がたつほどにはっきりと鼻につくようになって、午後の三時近くにはそれがもうあまりに明白なものとなり、その度合いがますます激しくなっていったのである。」 3巻p18

棺から少しずつ洩れだした腐臭は奇跡を否定する。「おまえが降りなかったのは、あらためて人間を奇跡の奴隷にしたくなかったからだし、奇跡による信仰ではなく、自由な信仰を望んでいたからだ。」作者はキリストの側に立ち奇跡による信仰を否定する。しかし神秘的で密やかな感覚は最重要な感覚として肯定する。

「この地上には三つの力がある。ひとえにこの三つの力だけが、こういう非力な反逆者たちの良心を、彼らの幸せのために打ち負かし、虜にすることができるのだ。そしてこれら三つの力とは、奇跡、神秘、権威なのだ。・・・おまえはしらなかった。人間が奇跡を退けるや、ただちに神をも退けてしまう事をな。・・・そもそも人間は奇跡なしには生きることができないから、自分で勝手に新しい奇跡をこしらえ、まじない師の奇跡や、女の魔法にもすぐにひれ伏してしまう。例え、自分がどれほど反逆者であり、異端者であり、無神論者であっても。・・・おまえが降りなかったのは、あらためて人間を奇跡の奴隷にしたくなかったからだし、奇跡による信仰ではなく、自由な信仰を望んでいたからだ。・・・誓ってもいいが、人間というのは、お前が考えているよりもかよわく、卑しく創られているのだ!・・・人間をあれほど敬わなければ、人間にあれほど要求しなかっただろうし、そうすれば人間はもっと愛に近づけたはずだからな」 亀山訳p277

ドストエフスキーは別のものとして併記する。奇跡は悪魔の仕業であり、神秘はリアルではないが人々に漠然と聖なる存在に期待を抱かせる気配で似ているが全く異なる。

ところがでは悪魔が奇跡を起こしたのなら悪魔も一見神秘的になりその見分けがつかなくなる。「自分で勝手に新しい奇跡をこしらえ、まじない師の奇跡や、女の魔法にもすぐにひれ伏してしまう。」ということになる。奇跡による信仰は悪魔も神も同一視してしまう危険をはらむ。だから「おまえが降りなかったのは、あらためて人間を奇跡の奴隷にしたくなかったからだし、奇跡による信仰ではなく、自由な信仰を望んでいたからだ。」となる。

大審問官のセリフである「人間をあれほど敬わなければ、人間にあれほど要求しなかっただろうし、そうすれば人間はもっと愛に近づけたはずだからな」に対してキリストは沈黙とキスで答える。この小説で最も重要な部分だが、さてどう考えてキリストは沈黙のキスで答えたのか。

奇跡は確かに有効だが同時に悪魔をも崇拝するという副作用をも持つことになる。だから奇跡、神秘、それによってもたらされる権力をあえて使わなかったのだが、しかしそれがかえって悪魔の奇跡でさえ求めるようになってしまった。

キリストは最善を尽くしたが本来、人に無明を脱するというのは極めてのは困難だということだ。仏教でもそのことを示しているのではないか。

 

ラキーチンは俗に生きる人であり聖のかけらもない人として描かれる。イワンとの違いを強調するための人物設定か。

「人類ってのはね、たとえ霊魂の不滅なんか信じてなくたって、善のために生きる力くらい、自分で自分のなかにみつけるものさ!」

「でもな、そうとなったら、人間ってどうなる?神さまもない、来世もないとなったら?だってそうとなった暁にゃ、何もかもが許されちまうじゃないか、なにをしても許されちまうじゃないか、何をしてもいいってことになるじゃないか?・・・賢い人間はなにをしたっていいんですよ、賢い人間というのは、うまく立ち回れますからね・・・」4巻 p222

 

フェラポイント神父は俗の中に聖を求める。

「院長の部屋から出ようとしてふとみると、・・・これがなかなかでかい悪魔でな。・・・聖霊の時もあるし、精霊のときもある。・・・ツバメだったり・・・のときもあるな」 2巻p27

薔薇の名前では俗の中に聖を求める大切さを説く。

「よろしいですか、悪魔の存在を証明する唯一のもの、それはおそらく、そのような瞬間にあって、すべての人々が悪魔の仕業を知りたいと願っている熱烈さにこそあるのです」 薔薇の名前 下巻 P53

「悪魔は物質界に君臨する者ではない。悪魔は精神の倨傲だ。微笑みのない信仰、決して疑惑に取りつかれることのない真実だ。「薔薇の名前」 下巻  p350

反キリストは、ほかならぬ敬虔の念から、神もしくは真実への過多な愛からやってくるのだ。あたかも、聖者から異端者が出たり、見者から魔性の人がでるように。「薔薇の名前」 下巻  p370

パイーシー神父について述べるくだりは

「これほど性急かつ露骨に示された信者たちの大きな期待が、もはや忍耐の緒も切れ、ほとんど催促に近いものを帯びてきたのを目にして、パイーシー神父にはそれがまぎれもない罪への誘惑のように思えた。…ただし神父自身、…心のうち、いや魂の奥底でひそかに、彼ら興奮しきった連中とほぼ同じ何かを待ち受けていたのであり、そのことは自分なりに認めざるを得なかった」 3巻p12

聖人は腐臭を発しないという奇跡は俗なるものであり、期待することはあながち否定されるべきではないが、本質的なことでもないとの作者の主張が聞こえるようだ。

悪魔のセリフである

「苦しみこそが人生だからですよ。苦しみのない人生に、どんな満足があるっていうんです。何もかもが、果てしないひとつの祈りと化してしまいますよ。そりゃあ神聖だろうけど、ちょっと退屈でしょうね。」

も聖と俗の双方がなければならないという説得性をもっ。次のセリフも含蓄が深い。

「ご当人のぼくはどうなのかって?ぼくも苦しんでいるのに、やっぱり生きてはいないんです。ぼくは不定方程式のなかのXなんです。ぼくは、あらゆる終わりと始まりを失くした人生のまぼろしみたいなもので、とうとう自分の名前まで忘れてしまったくらいです。」 4巻p374

イリューシャは犬ジューチカに針の入ったパンを食べさせるという残虐な行為をし、後悔から胸の病を悪化させ重い病になる。実際は犬は針を吐きだしており生きていた。しかしコーリャは無事な犬を連れてコーリャを安心させてやろうとはなかなかしない。ここにコーリャ少年の持つ深い残虐性を見ることができる。コーリャは頭のよい子どもで社会主義者を目ざすが宗教心は無い。キリストが現代に生まれたら優れた社会主義者のリーダーになると考えている。スメルジャコフも子供時代に子猫を殺して葬式の遊びをしたが、子供も14歳くらいになると原罪を帯びて残虐行為の加害者となる。

作品の最後でアリョーシャとコーリャをはじめとする子供たちは声をあわせて未来を誓い合う。ピュアな子どもたち(アリョーシャの感性は子供なのだ)にしか未来を託せないとの作者の切なるメッセージなのであろうか、あるいは子どもの無邪気に未来を信じる姿の滑稽さを描いたのだろうか。あるいは双方を。

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