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まさおレポート

村上春樹「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」と唯識

村上春樹の「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」は面白い、ビッグデータとAIの機械学習、究極の暗号化、セキュリティーやハッカーの時代を40年近く先取りしている。いつもの村上趣味も存分に散りばめられ、音楽、小説、セックス、ユーモアそしてメタファで十分に楽しませてもらえる、ところで面白く読み終わって一体この物語は何を目指したものだろうか、読み終わってすぐには答えがみつからない。面白ければいいのだが多分作者もそれだけでは不本意だろう。

この作品にはユーモアの裏に深いペシミズムが伺える。

深いペシミズム

海底の岩にはりついたなまこのように、私はひとりぼっちで年をとりつづけるのだ。

「そしてまたその子供たちが成長して、同じように苦しんで死んでいくのですね? どうして彼らはそんなに苦しまなくちゃならないんですか?」

「要するにそれがあんたの意識の核なのです。あんたの意識が描いておるものは世界の終りなのです。どうしてあんたがそんなものを意識の底に秘めておったのかはしらん。しかしとにかく、そうなのです。あんたの意識の中では世界は終っておる。逆に言えばあんたの意識は世界の終りの中に生きておるのです。その世界には今のこの世界に存在しておるはずのものがあらかた欠落しております。そこには時間もなければ空間の広がりもなく生も死もなく、正確な意味での価値観や自我もありません。

私は自分がとても不十分で不適切な人生を送ってきたような気がした。私はユーゴスラビアの田舎で羊飼いとして生まれ、毎晩北斗七星を眺めながら暮すことだってできたんじゃないかとふと思った。

私の人生の輝きの九十三パーセントが前半の三十五年間で使い果されてしまっていたとしても、それでもかまわない。私はその七パーセントを大事に抱えたままこの世界のなりたち方をどこまでも眺めていきたいのだ。何故かはわからないけれど、そうすることが私に与えられたひとつの責任であるように私には思えた。私はたしかにある時点から私自身の人生や生き方をねじまげるようにして生きてきた。そうするにはそうするなりの理由があったのだ。他の誰に理解してもらえないにせよ、私はそうしないわけにはいかなかったのだ。

しかしというか当然というか、主人公の私と「僕」はペシミズムから無意識のうちに脱却を試みている。過剰な欲望つまり影を捨てて日々の平凡な楽しみつまり音楽、小説、セックス、ユーモアがペシミズムからの脱却の強力な武器になる。例えば新しい手つかずの太陽とともに目覚めることの心地良さが。

「たぶん私がチェスに凝るのと原理的には同じようなものだろう。意味もないし、どこにも辿りつかない。しかしそんなことはどうでもいいのさ。誰も意味なんて必要としないし、どこかに辿りつきたいと思っているわけではないからね。我々はここでみんなそれぞれに純粋な穴を掘りつづけているんだ。目的のない行為、進歩のない努力、どこにも辿りつかない歩行、素晴しいとは思わんかね。誰も傷つかないし、誰も傷つけない。誰も追い越さないし、誰にも追い抜かれない。勝利もなく、敗北もない」

「しかし心を捨てれば安らぎがやってくる。これまでに君が味わったことのないほどの深い安らぎだ。そのことだけは忘れんようにしなさい」

新しい手つかずの太陽とともに目覚めることの心地良さは何ものにもかえがたい。

僕は影を捨てた。人は影なしでは生きていけないし、影は人なしでは存在しないものだよ。それなのに俺たちはふたつにわかれたまま存在し生きている。

だが当然にもろもろの欲望もそう簡単には去ってくれない、迷いもある。影はその欲望のメタファだが次のように責める。

君は俺にこの街には戦いも憎しみも欲望もないと言った。それはそれで立派だ。俺だって元気があれば拍手したいくらいのもんさ。しかし戦いや憎しみや欲望がないということはつまりその逆のものがないということでもある。それは喜びであり、至福であり、愛情だ。絶望があり幻滅があり哀しみがあればこそ、そこに喜びが生まれるんだ。絶望のない至福なんてものはどこにもない。それが俺の言う自然ということさ。

影を捨てることは意識の核を固定することと重なっている、この意識の固定化を老博士が私に施す。

「そうです。あんたは今、別の世界に移行する準備をしておるのです。だからあんたが今見ておる世界もそれにあわせて少しずつ変化しておる。認識というものはそういうものです。認識ひとつで世界は変化するものなのです。世界はたしかにここにこうして実在しておる。しかし現象的なレベルで見れば、世界とは無限の可能性のひとつにすぎんです。細かく言えばあんたが足を右に出すか左に出すかで世界は変ってしまう。記憶が変化することによって世界が変ってしまっても不思議はない」

「これはある意味ではまさにタイム・パラドックスなのですよ」と博士は言った。「あんたは記憶を作りだすことによって、あんたの個人的なパラレル・ワールドを作りだしておるんです」

そこで私はひとつの仮説を立てた。ある瞬間に人間にその時点におけるブラックボックスを固定してしまったらどうかとね。
そして私は発見した。人間は時間を拡大して不死に至るのではなく、時間を分解して不死に至るのだということをですよ」

「意識の底の方には本人に感知できない核のようなものがある。僕の場合のそれはひとつの街なんだ。街には川が一本流れていて、まわりは高い煉瓦の壁に囲まれている。街の住人はその外に出ることはできない。出ることができるのは一角獣だけなんだ。一角獣は住人たちの自我やエゴを吸いとり紙みたいに吸いとって街の外にはこびだしちゃうんだ。だから街には自我もなくエゴもない。僕はそんな街に住んでいる——ということさ。僕は実際に自分の目で見たわけじゃないからそれ以上のことはわからないけどね」

影を捨てることは意識の核を固定することであり、それは時間を分解して不死に至るのだとまで言う。

それでも「僕」は影を捨てることに迷いに迷う。

「僕自身にね」と僕は答えた。「心というのはそういうものなんだ。心がなければどこにも辿りつけない」

「でも愛というものがなければ、世界は存在しないのと同じよ」と太った娘は言った。「愛がなければ、そんな世界は窓の外をとおりすぎていく風と同じよ。手を触れることもできなければ、匂いをかぐこともできないのよ。どれだけ沢山の女の子をお金で買っても、どれだけ沢山のゆきずりの女の子と寝ても、そんなのは本当のことじゃないわ。誰もしっかりとあなたの体を抱きしめてはくれないわ」

「人は自らの意識の核を明確に知るべきだろうか?」
「わかりません」と私は答えた。
「我々にもわからない」と彼らは言った。「これはいわば科学を超えた問題だな。ロス・アラモスで原爆を開発した科学者たちがぶちあたったのと同種の問題だ」

 僕には心を捨てることはできないのだ、と僕は思った。それがどのように重く、時には暗いものであれ、あるときにはそれは鳥のように風の中を舞い、永遠を見わたすこともできるのだ。この小さな手風琴の響きの中にさえ、僕は僕の心をもぐりこませることができるのだ。

影を捨てることは単に自我を捨て去るという単純なことでもないようだ。「私の心はばらばらになって、いろんな獣の中に吸いこまれ、その断片は他の人の心の断片と一緒に見わけがつかないくらい複雑に絡みあっているのよ」つまり自我は輪廻とともに離散し、かけらとなって散らばる。しかし自我の総量は変わらない。そんなことを言っているように読める。

「いいえ、それはできないわ。私の心はひとつにまとまって吸いこまれているわけじゃないのよ。私の心はばらばらになって、いろんな獣の中に吸いこまれ、その断片は他の人の心の断片と一緒に見わけがつかないくらい複雑に絡みあっているのよ。あなたにはそのうちのどれが私の思いでどれが他の人の思いか選りわけることはできないはずよ。だってあなたはこれまでずっと古い夢を読んできたけれど、どれが私の夢か言いあてることはできないでしょ? 古い夢とはそういうものなの。誰にもそれをときほぐすことはできないの。混沌は混沌のままで消えていくのよ」

「僕」は最終的に決断する。

「僕には君の言うことを信じることができる。たぶん川はそこに通じているんだろう。我々があとに残してきた世界にね。僕も今では少しずつその世界のことを思いだせる。空気や音や光や、そういうものをね。唄がそんなものを僕に思いださせてくれたんだ」

「僕は自分の勝手に作りだした人々や世界をあとに放りだして行ってしまうわけにはいかないんだ。君には悪いと思うよ。本当に悪いと思うし、君と別れるのはつらい。でも僕は自分がやったことの責任を果さなくちゃならないんだ。ここは僕自身の世界なんだ。壁は僕自身を囲む壁で、川は僕自身の中を流れる川で、煙は僕自身を焼く煙なんだ」

絶望的に見える壁の中で生きる決意を読み取ってもそのあまりの諦観に、なにかの間違いではなかろうかとの思いを捨てきれない。しかしやはりそうなのだと思う。深いペシミズムからの脱却は永遠の壁に囲まれた場所であり、宝探しの宝は永遠の壁に囲まれた場所だった、なんと凄まじいペシミズムからの脱却かと思う。初期仏教の涅槃のようでもある。

それにつけてもこの物語はどこか唯識の薫りがする、意識の核といい、壁に囲まれた場所といい阿頼耶識を思い浮かべてしまう、意識の核が少しづつ変化するところなどは熏習という言葉を思い浮かべる。熏習は輪廻の主体であり輪廻では深いペシミズムから脱却できない。「僕」はもう熏習はゴメンだと壁の中にとどまることにする、そこに至る物語なのだとの読み方をしてみた。

そういえば村上春樹の祖父は浄土真宗の僧侶で、父は教師だがパートで僧侶もやったという環境で育っている、そして想像を付け加えるならば村上春樹自身はそうした仏教系の概念を出すのはベタすぎて文学のスタイルとしても嫌っている、結果としてこのような近未来SFと彼の言うところの地下2階を描く物語になったのではないか。

カラマゾフの兄弟の欠点は欠点に見えないと書いてあったが、イワンを思い浮かべた。イワンも凄まじいペシミズムで狂う。村上春樹はイワンに共鳴したに違いないとふと思った。

 

 

村上春樹「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」と価値の序列

村上春樹「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」とぺシミズム

村上春樹「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」はAIを連想させる

今日の笑い 「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」村上春樹より

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