「僕はどんなに手を尽くしてもその運命から逃れることはっできない、と父は言った。その予言は時限装置みたいに僕の遺伝子の中に埋めこまれていて、なにをしようとそれを変更することはできないんだって。僕は父を殺し、母と姉と交わる」p427
大島さんは言う。「君のお父さんの作品をこれまで何度か実際に見たことがある。才能のある優れた彫刻家だった。オリジナルで、挑戦的で、おもねるところがなく、力強い。彼の造っているものはまちがいなく本物だった」
「そうかもしれない。でもね、大島さん、そういうものをひっぱりだしてきたあとの残りかすを、毒のようなものを、父はまわりにまきちらし、ぶっつけなくちゃならなかったんだ。父は自分のまわりにいる人間をすべて汚して、損なっていた。父が求めてそうしていたのかどうか、僕は知らない。ただそうしないわけにはいかなかったということなのかもしれない。もともとそういうふうにつくられていたということなのかもしれない。
でもどっちにしても父はそういう意味では、とくべつななにかと結びついていたんじゃないかと思うんだ。僕の言いたいことはわかる?」
「わかると思う」と大島さんは言う。「そのなにかはおそらく、善とか悪とかという峻別を超えたものだったんだろう。力の源泉と言えばいいのかもしれない」p429
「とにかくそれが君がはるばる四国まで逃げてきた理由なんだね。お父さんの呪いから逃れることが」と大島さんは言う。p432
そしてもうひとつ大事な事実―――僕はその<幽霊>に心をひかれている。僕は今そこにいる佐伯さんにではなく、今そこにはいない15歳の佐伯さんに心をひかれている。p472
「・・・怪奇なる世界というのは、つまりは我々自身の心の闇のことだ。19世紀にフロイトやユングが出てきて、僕らの深層意識に分析の光をあてる以前には、そのふたつの闇の相関性は人々にとっていちいち考えるまでもない自明の事実であり、メタファーですらなかった。いや、もっとさかのぼれば、それは相関性ですらなかった。エジソンが電灯を発明するまでは、世界の大部分は文字通り深い漆黒の闇に包まれていた。そしてその外なる物理的な闇と、内なる魂の闇は境界線なくひとつに混じり合い、まさに直結していたんだ―――こんな具合に」
大島さんは両方の手のひらをぴたりとひいとつにあわせる。「紫式部の生きていた時代にあっては、生き霊というのは怪奇現象であると同時に、すぐそこにあるごく自然な心の状態だった。そのふたつの種類の闇をべつべつに分けて考えることは、当時の人々にはたぶん不可能だったろうね。しかし僕らの今いる世界はそうではなくなってしまった。外の世界の闇はほとんどそのまま残っている。僕らが自我や意識と名づけているものは、氷山と同じように、その大部分を闇の領域に沈めている。そのような乖離が、ある場合には僕らの中に深い矛盾と混乱を生みだすことになる」p476
『海辺のカフカ』
あなたが世界の縁にいるとき
私は死んだ火口にいて
ドアのかげに立っているのは
文字をなくした言葉。
眠るとかげを月が照らし
空から小さな魚が降り
窓の外には心をかためた
兵士たちがいる
(リフレイン)
海辺の椅子にカフカは座り
世界を動かす振り子を想う。
心の輪が閉じるとき
とこにも行けないスフィンクスの
影がナイフとなって
あなたの夢を貫く。
溺れた少女の指は
入り口の石を探し求める。
青い衣の裾をあげて
海辺のカフカを見る。p480
佐伯さんは『海辺のカフカ』の歌詞をこの部屋の中で書いたのだろう。レコードを何度も聴いているうちに、僕はだんだんそう確信するようになる。そして海辺のカフカとは、壁にかかった油絵の中に描かれている少年のことなのだ。p484
「あなたを見ていると、ずっと昔に15歳だった男の子のことを思いだすわ」
「その人は僕に似ている?」
「あなたのほうが背は高いし、体つきもがっしりしている。でも似ているかもしれない。
彼は同年代の子どもたちとは話があわなくて、いつもひとりで部屋にこもって、本を読んだり音楽を聴いたりしていた。
むずかしい話をするときには、あなたと同じように眉のあいだにしわが寄った。あなたもよく本を読むということだけれど」下巻p45
「ホシノちゃん」とその老人は呼んだ。よくとおるきんきんとした声だった。少し訛がある。
星野青年は呆然としてその男の顔を見ていた。「あんたは―――」
「そうだ。サンダース大佐だ」
「そっくりだ」と青年は感心して言った。
「そっくりではない。わしがカーネル・サンダースだ」下巻67ページ
「ねえ田村くん、悪いとは思うんだけど、そのことについてはイエスともノオとも言えない。少なくとも今は。私は疲れているし、風も強いし」p89
「『純粋な現在とは、未来を喰っていく過去の捉えがたい進行である。実を言えば、あらゆる知覚とはすでに記憶なのだ』」
青年は顔をあげ、口を半分あけて、女の顔を見た。「それ、何?」
「アンリ・ベルグソン」と彼女は亀頭に唇をつけ、精液の残りを舐めてとりながら言った。
知覚を語ろうとしても記憶しか参照できないので「知覚が記憶である」ことになってしまうのではないかと思う。文章にする時には、すでに「現在」は失われてしまうのだ。下巻p96
「『<私>は関連の内容であるのと同時に、関連することそのものでもある』」
「ふうん」
「ヘーゲルは<自己意識>というものを規定し、人間はただ単に自己と客体を離ればなれに認識するだけではなく、媒介としての客体に自己を投射することによって、行為的に、自己をより深く理解することができると考えたの。それが自己意識」
「ぜんぜんわからないな」
「それはつまり、今私があなたにやっていることだよ、ホシノちゃん。私にとっては私が自己で、ホシノちゃんが客体なんだ。ホシノちゃんにとってはもちろん逆だね。ホシノちゃんが自己で、私が客体。私たちはこうしてお互いに、自己と客体を交換し、投射しあって、自己意識を確立しているんだよ。行為的に。簡単に言えば」
「まだよくわからないけど、なんか励まされるような気がする」
「それがポイントだよ」と女は言った。
考えている時に意識は自分のことを考えたりはしないが、意識が自分は考えていると思ったときには自己を意識している。「対自」というのは、そのことをうまく表現しているのではないかと思う。「自己と客体を交換」しているのかどうかわからない。下巻p98
彼女は頬杖をつくのをやめ、僕のほうに顔を向ける。それが佐伯さんであることに僕は気づく。僕は息を呑んだまま、吐きだすことができない。そこにいるのは、現在の佐伯さんなのだ。べつの言いかたをするなら、それは現実の佐伯さんなのだ。下巻p111
「・・・私の役目は世界と世界とのあいだの相関関係の管理だ。ものごとの順番をきちんと揃えることだ。原因のあとに結果が来るようにする。意味と意味が混じり合わないようにする。現在の前に過去が来るようにする。現在のあとに未来が来るようにする。・・・」
「私は人じゃない。何度言えばわかるんだ」
「原因のあとに結果が来るようにする。意味と意味が混じり合わないようにする。現在の前に過去が来るようにする」というのはとても人間的なことであるように思える。人間が介在しないのであれば、そんなことは誰も気にしないだろう。だからカーネル・サンダース本人が「人じゃない」と言ったとしても「人である」としか解釈できない。下巻p121
「いいか、ホシノちゃん。すべての物体は移動の途中にあるんだ。地球も時間も概念も、愛も生命も信念も、正義も悪も、すべてのものごとは液状的で過渡的なものだ。ひとつの場所にひとつのフォルムで永遠に留まるものはない。宇宙そのものが巨大なクロネコ宅急便なんだ」下巻p127
「その仮説の中では、私はあなたのお母さんなのね」下巻p138
彼女は首を振る。「べつに死のうとしているわけじゃないのよ。ほんとうのところ。私はここで、死ややってくるのをただ待っているだけ。
駅のベンチに座って列車を待っているみたいに」下巻p143
「あなたはあの二つのコードをどこでみつけたんですか?」
「二つのコード?」
「『海辺のカフカ』のブリッジのコード」
彼女は僕の顔を見る。「あのコードは好き?」
僕はうなずく。
「私はあの二つのコードを、とても遠くにある古い部屋の中で見つけたの。そのときにはその部屋のドアは開いていたの」と彼女は静かに言う。
「とてもとても遠くにある部屋」下巻p145
「ねえ知ってる? ずっと前に私はこれとまったく同じことをしていたわ。まったく同じ場所で」
「知ってるよ」と君は言う。下巻p153
「ナカタは頭が悪いばかりではありません。ナカタは空っぽなのです。それが今の今よくわかりました。ナカタは本が一冊もない図書館のようなものです。昔はそうではありませんでした。ナカタの中にも本がありました。ずっと思い出せずにいたのですが、今思い出しました。はい。ナカタはかつてはみんなと同じ普通の人間だったのです。しかしあるとき何かが起こって、その結果ナカタは空っぽの入れ物みたいになってしまったのです」
「でもさ、ナカタさん。そんなこと言い出したら、俺たちはみんな多かれ少なかれ空っぽなんじゃないのかい。メシ食って、クソして、ろくでもない仕事をして安い給料をもらって、ときどおきオマンコするだけじゃないか。それ以外に何があるんだい。・・・」下巻p168
「でもさ、どうしてナカタさんがその石を扱わなくちゃならないんだろう? どうしてそれはナカタさんじゃなくちゃいけないんだろう?」、星野青年は雷鳴が一段落したときに尋ねた。
「ナカタは出入りをした人間だからです」
「出入りをした?」
「はい。ナカタは一度ここから出ていって、また戻ってきたのです。日本が大きな戦争をしておりました頃のことです。そのときに何かの拍子で蓋があいて、ナカタはここから出ていきました。そしてまた何かの拍子に、ここに戻ってきました。そのせいでナカタは普通のナカタではなくなってしまいました。影も半分しかなくなってしまいました。そのかわり、今はうまくできませんが、猫さんと話をすることもできました。おそらくは空からものを降らせることもできました」下巻p172
「ジョニー・ウォーカーさんはナカタの中に入ってきました。ナカタが望んだことではないことをナカタにさせました。ジョニー・ウォーカーさんはナカタを利用したのです。でもナカタはそれに逆らうことができませんでした。ナカタには逆らえるだけの力がありませんでした。なぜならばナカタには中身というものがないからです」下巻p174
「誰も助けてはくれない。少なくともこれまでは誰も助けてはくれなかった。だから自分の力でやっていくしかなかった。そのためには強くなることが必要です。はぐれたカラスと同じです。だから僕は自分にカフカという名前をつけた。カフカというのはチェコ語でカラスのことです」
「カフカというのはチェコ語でカラスのこと」なのだと言う。そうするとべつに不条理だとか理不尽ということではないかもしれない。下巻p192
僕が誰なのか、それは佐伯さんにもきっとわかっているはずだ、と君は言う。僕は『海辺のカフカ』です。あなたの恋人であり、あなたの息子です。カラスと呼ばれる少年です。そして僕らは二人とも自由にはなれない。僕らは大きな渦の中にいる。ときには時間の外側にいる。僕らはどこかで雷に打たれたんです。音もなく姿も見えない雷に。下巻p199
たとえば俺はこれまで中日ドラゴンズを熱心に応援してきた」。でも俺にとって中日ドラゴンズというのはいったい何なんだ? 中日ドラゴンズが読売ジャイアンツに勝つことで、俺という人間が少しでも向上するのだろうか? するわけないよな、と青年は思った。じゃあなんでそんなものを、まるで自分の分身みたいに今まで一生懸命応援してきたんだろう?下巻p209
ある日お釈迦様が彼に言った。「よう、茗荷、お前頭わるいから、経典もう覚えなくていい。そのかわりずっと玄関の土間に座ってみんなの靴を磨いてな」とか。茗荷は素直だったので、「ふざけんじゃねえや、お釈迦。てめえのケツでもなめてろ」とは言わなかった。それから10年も20年も言われたとおりみんなの靴をせっせと磨き続けた。そしてある日ぽんと悟りを開き、お釈迦様の弟子たちの中でももっともすぐれた人物の一人になった―――というような話だったと星野青年は記憶していた。下巻p212
「ピエール・フルニエは私のもっとも敬愛する音楽家の一人です。上品なワインと同じです。香りがあり、実体があり、血を温め、心臓を静かに励ましてくれます。」
フルニエの無伴奏チェロ組曲をよく聴く。下巻p216
君もその老人も、中野区野方からまっすぐ高松に向かっている。偶然の一致にしてはできすぎている。当然、そこにはなにかがあると警察は考える。たとえば君たちが共謀して今回の事件を仕組んだんじゃないかとね。下巻p226
大島さんは長いあいだ黙っている。それから口を開く。「そのとおりだ」と彼は認める。「君の言うとおりだ。僕はそう考えている」
「僕が佐伯さんに死をもたらそうとしている、ということだね」下巻p233
「いろんなことは君のせいじゃない。僕のせいでもない。予言のせいでもないし、呪いのせいでもない。DNAのせいでもないし、不条理のせいでもない。構造主義のせいでもないし、第三次産業革命のせいでもない。僕らがみんな滅び、失われていくのは、世界の仕組みそのものが滅びと喪失の上に成り立っているからだ。僕らの存在はその原理の影絵のようなものに過ぎない。風は吹く。荒れ狂う強い風があり、心地よいそよ風がある。でもすべての風はいつか失われて消えていく。風は物体ではない。それは空気の移動の総称にすぎない。君は耳を澄ます。君はそのメタファーを理解する。
仏教では「無自性―空―縁起」ということだろう。
もともと生き物は永遠にその形を留めるようには作られてはいない。
そしてその世代交代は微生物によって支えられている。
死んだ個体が分解されないとしたら子孫の身体を作るための材料は提供されない。
そのような物質が循環する仕組みというのも世界の成り立ちであるかもしれない。
とりあえず元素を構成している陽子の崩壊はないと私たちは考えている。
核融合や核分裂が起こる条件下でなければ元素も安定しているのではないかと考えている。
だが世界を捉えようとする生き物はそれ自体が不安定なのだ。
一瞬のあいだだけその形を留める生き物は「影絵」のようなものに過ぎない。
そのことに不平を言ったところで不死が与えられるわけではない。
キリスト教やイスラム教であれば気前よく不死がもらえるかもしれない。下巻p234
1週間前だったら、俺はこんな音楽を聴いても、たぶんただの一切れも理解できなかっただろう、と青年は思った。理解しようという気持ちにだってなれなかっただろう、と青年は思った。しかしふとした巡り合わせでたまたまあの小さな喫茶店に入って、座り心地のいいソファに座ってうまいコーヒーを飲み、おかげでこの音楽を自然に受け入れることができるようになった。下巻p281
「申しわけありませんんが、石さんは無口なのです」
「そうか、石は無口ときたね―――見かけからしてだいたいの想像はつくよ」と星野青年は言った。「石さんはきっと無口で、水泳がことのほか苦手なんだろう。まあいい。今更なにも考えるまい。ぐっすり眠って、明日になったらまた続きをやろう」下巻p295
君はもういろんなものに好き勝手に振りまわされたくない。混乱させられたくない。君はすでに父なるものを殺した。すでに母なるものを犯した。そしてこうして姉なるものの中に入っている。もしそこに呪いがあるのなら、それを進んで引き受けようと思う。そこにある一連のプログラムをさっさと終えてしまいたいと思う。一刻も早くその重荷を背中からおろして、そのあとは誰かの思惑の中に巻きこまれた誰かとしてではなく、まったくの君自身として生きていく。それが君の望んでいることだ。下巻p311
「じゃあひとつ訊きたいんだけどさ、音楽には人を変えてしまう力ってのがあると思う? つまり、あるときにある音楽を聴いて、おかげで自分の中にある何かが、がらっと大きく変わっちまう、みたいな」
大島さんはうなずいた。「もちろん」と彼は言った。「そういうことはあります。何かを経験し、それによって僕らの中で何かが起こります。化学作用のようなものですね。そしてそのあと僕らは自分自身を点検し、そこにあるすべての目盛りが一段階上にあがっていることを知ります。自分の世界がひとまわり広がっていることに。僕にもそういう経験はあります。たまにしかありませんが、たまにはあります。恋と同じです」
星野さんにはそんな大がかりな恋をした経験はなかったが、とりあえずうなずいた。「そういうのはきっと大事なことなんだろうね?」と彼は言った。「つまりこの俺たちの人生において」
「はい。僕はそう考えています」と大島さんは答えた。「そういうものがまったくないとしたら、僕らの人生はおそらく無味乾燥なものです。ベルリオーズは言っています。もしあなたが『ハムレット』を読まないまま人生を終えてしまうなら、あなたは炭坑の奥で一生を送ったようなものだって」
「一段階上にあがっている」とか「ひとまわり広がっている」かはわからないが、「それまでとは違う」というのは確かなことだろう。音楽が「人間を向上させる」ものであるかは私にはわからない。知らない作曲家の知らない曲の魅力がわかるようになって何かしら変わったのだと思う。そしていろいろな作曲家のいろいろな魅力がわかるということは何もわからないよりは良いことなのだろう。きっと人生においては大事なことなのだろう。だが実態としては「大公トリオ」を知らない人の方が知っている人よりもずっと多いだろう。そして知らない人は趣味というのは相対的なものであって、知らないことで非難される謂われはないと主張することだろう。あるいはクラシックなんて聴いている暇はないのだと主張することだろう。それぞれに忙しい人生というのは相対化した趣味が世俗化していくという道をたどる。そんなふうにして音楽も小説も映画も最大公約数化されて行く。誰かを「一段階上にひきあげる」音楽があるとすればリスナーの都合など考慮しない一方的圧倒的な音楽だろう。ベートーヴェンというのはそういう作曲家だろう。相対的ではなく一方的なのだ。下巻p330
「もし思い違いでなければ、たぶん私は、あなたがいらっしゃるのを待っていたのだと思います」と彼女は言った。下巻p353
「むずかしい問題です。思い出のことは、ナカタにはまだよくわかりません。ナカタには現在のことしかよくわからないのです」
「私はどうやらその逆のようです」と佐伯さんは言った。下巻p355
「だから私はそのような侵入や流出を防ぐために入り口の石を開きました。どうやってそんなことができたのか、今となってはよく思い出せません。でも彼を失わないために、外なるものに私たちの世界を損なわせないために、何があろうと石を開かなくてはならないと私は心を決めたのです。それが何を意味するのか、そのときの私には理解できていませんでした。そして言うまでもなく、私は報いを受けました」下巻p360
「ナカタさん」
「なんでありましょう?」
「ずいぶん昔からあなたを知っているような気がするんです」と佐伯さんは行った。「あなたはあの絵の中にいませんでしたか? 海辺の背景にいる人として。白いズボンをたくしあげて、足を海につけている人として」下巻p363
どうして彼女は僕を愛してくれなかったのだろう。
僕には母に愛されるだけの資格がなかったのだろうか?下巻p373
「あのままでいれば、どうせ兵隊として外地につれていかれたんだ」とがっしりしたほうが言う。「そして人を殺したり、人に殺されたりしなくちゃならなかった。俺たちはそんなところに行きたくはなかった。俺はもともと百姓で、この人は大学を出たばかりだった。どっちにしても人なんて殺したくなかったし、殺されるのはもっと嫌だった。あたりまえの話だけどな」下巻p383
「今はこの入り口はたまたま開いている」と背の高いほうが僕に説明する。下巻p385
「俺は思うんだけど、その中でもいちばん不思議なのは、なんといってもおじさん自身だ。そう、ナカタさんだよ。なぜおじさんが不思議かってえとだね、おじさんは俺という人間を変えちまったからだ。・・・」下巻p395
電気はどこからやって来るんですか?
二人は顔を見あわせる。
「小さな風力発電所だけど、森の奥のほうで電気をつくっている。そこでは風はいつも吹いている」と背の高いほうが説明する。下巻p417
台所ではひとりの少女が食事をつくっている。背中を向けて鍋の上にかがみこみ、スプーンで味見をしていたが、僕がドアを開けると顔を上げ、こちらを振りむく。甲村図書館で毎夜僕の部屋を訪れ、壁の絵を見つめていた少女だ。そう、15歳のときの佐伯さんだ。下巻p425
「君の名前は?」と僕はべつの質問をする。
彼女は小さく首を振る。「名前はないの。私たちはここでは名前をもたないの」下巻p428
「よう、猫くん。今日はいい天気だな」
「そうだね、ホシノちゃん」と猫は返事をかえした。
「参ったなあ」と青年は言った。そして首を振った。下巻p445
「こいつはね、善とか悪とか、情とか憎しみとか、そういう世俗の基準を超えたところにある笛なんだ。それをこしらえるのが長いあいだ私の天職だった。・・」下巻p449
「記憶はここではそんなに重要な問題じゃない」下巻p463
「私があなたに求めていることはたったひとつ」と佐伯さんは言う。そして顔をあげ、僕の目をまっすぐに見る。
「あなたに私のことを覚えていてほしいの。あなたさえ私のことを覚えていてくれれば、ほかのすべての人に忘れられたってかまわない」下巻p467
「ねえ、田村くん。あなたにお願いがあるの。あの絵を持っていって」
「図書館の僕のいた部屋にかかっていた、あの海辺の絵のことですか?」
佐伯さんはうなずく。「そう。『海辺のカフカ』。あの絵をあなたに持っていってほしいの。どこでもかまわない。これからあなたが行くところに」下巻p468
お母さん、と君は言う、僕はあなたをゆるします。そして君の心の中で、凍っていたなにかが音をたてる。下巻p471
「名前はあるの?」
「名前くらいある」
「どんな名前?」
「トロ」と猫は言いにくそうに言った。下巻p482
懐中電灯の光は白く細長い物体を照らし出した。物体は死んだナカタさんの口から、もぞもぞと身をくねらせながら出てくるところだった。そのかたちはウリを思わせた。下巻p494
いったん入り口を閉めてしまうと、その白いものを片づけるのは思ったよりずっと簡単だった。もう行き場は塞がれてしまったのだ。白いものにもそのことはわかっていた。下巻p500