追記 遠藤周作は私が・棄てた・女の中黒をどんな意図をもって振ったのだろう。今ならわかる気がする。主語、動詞、目的語を重く重く受け止めていたのだ。この中黒にドーンと大太鼓を打ちたかったのだ。主語、動詞、目的語を丁寧に描くことでみつの聖性を浮き彫りにして描きたかったのだと。
2019-04-02 初稿
遠藤周作は好んで聖痴愚を描く。「おバカさん」のガストン、「私が・棄てた・女」の森田ミツ、「深い河」の大津がそれにあたる。それにしても遠藤周作は私が・棄てた・女の中黒をどんな意図をもって振ったのだろう。読んで以来四半世紀が立つがいまだに理解できていない。
ドストエフスキーも「カラマゾフの兄弟」でユーロディヴィを描いている。スメルジャコフの母リザヴェータが該当するがアリョーシャもその母も神がかりでどこかその匂いを感じさせる。聖痴愚と神がかりは近い。するとバリ島のケチャダンスで神がかりになって踊る男は聖痴愚と近いところにいる。
村上春樹の「海辺のカフカ」ではナカタさんがそのものズバリ聖痴愚にあたり、高松の図書館の職員大島さんは聖痴愚ではないが男装でゲイという入り組んだ性同一障害で、作者の狙いは聖痴愚と同じところにある。ハードボイルドワンダーランドの老学者もそれに近い。
映画「道」のジェルソミーナは粗野で暴力を振るう旅芸人ザンパノを救済するためにこの世に現れた聖痴愚として描かれる。
「ユーロディヴィ」(聖痴愚、佯狂者)とは、ロシアで見られる、 社会通念やルールから凡そ逸脱して常軌を逸した言動を見せる「神がかり的な奇人」に対する崇拝を指す。ロシアでは頭のいい人ほどバカな振りをするという伝統がある。中世ロシアの東方正教世界で、己を空しくして、愚者として神に仕える苦行者を指す。「嵐輝行者」とも言うがそれにしても嵐に輝く行者とは。
常不軽菩薩も聖痴愚とみなせる。ドストエフスキーが常不軽菩薩を知ったならどう描いたかと問う文章をどこかで読んだことがある。
宮沢賢治は常不軽菩薩のように生きたい、デクノボーのように生きたいと手帳に書いて常に持ち歩い「雨にも負けず」に結実したことは知られている。
常不軽菩薩は出家・在家を問わず「我深く汝等を敬う、敢て軽慢ず。所以は何ん、汝等皆菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べしと」と礼拝したが、四衆は悪口罵詈し、杖や枝、瓦石をもって彼を迫害した。wiki
ドンキホーテもそのなかに連なる。
2017-03-02 17:06:02初稿