まさおレポート

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彼女の首筋にはオーデコロンの匂いがした 世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド

2024-05-16 | 小説 村上春樹

「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」お気に入りの文節メモ。


おそらく街は僕が彼女と寝ることを望んでいるのだろうという気がした。彼らにとってはその方がずっと僕の心を手に入れやすくなるのだ。

セックスというのはきわめて微妙な行為であって、日曜日にデパートにでかけて魔法瓶を買ってくるのとはわけが違うのだ。

「セックスってあなたはいつも前からやるの? 向いあったまま?」
「まあね。だいたいは」
「うしろからやるときもあるんでしょ?」
「うん。そうだね」
「それ以外にもいろいろと種類があるんでしょ? 下になるのとか、座ってやるのとか、椅子を使うのとか……」
「いろんな人がいるし、いろんな場合があるからね」
「セックスのことって、私よくわからないの」と彼女は言った。「見たこともないし、やったこともないし。そういうことって誰も教えてくれなかったの」
「そういうのは教わるもんじゃなくて、自分でみつけるものなんだよ」と私は言った。「君にも恋人ができて彼と寝るようになればいろいろと自然にわかるようになるさ」
「そういうのあまり好きじゃないのよ」と彼女は言った。「私はもっと……なんていうか、圧倒的なことが好きなの。圧倒的に犯されて、それを圧倒的に受け入れたいの。いろいろととか自然にじゃなくてね」

彼女の首筋にはオーデコロンの匂いがした。夏の朝のメロン畑に立っているような匂いだった。

ウィリアム・シェイクスピアが言っているように、今年死ねば来年はもう死なないのだ。

ベッドに寝転んでツルゲーネフの『ルージン』を読んだ。本当は『春の水』を読みたかったのだが

私は泳ぎながらオルフェウスが死の国に辿りつくために渡らねばならなかった冥土の川のことを思いだした。

生きることは決して容易なことではないけれど、それは私が私自身の裁量でやりくりしていることなのだ。だからそれはそれでかまわない。『ワーロック』のヘンリー・フォンダと同じだ。

そのあいだ私はずっとベン・ジョンソンのことを考えていた。馬に乗ったベン・ジョンソンの姿だ。『アパッチ砦』や『黄色いリボン』や『幌馬車』や『リオ・グランデの砦』に出てくるベン・ジョンソンの乗馬シーンを私はできる限り頭の中に思い浮かべた。

私は彼女が公園の中のまっすぐな道を歩き去っていくうしろ姿を『第三の男』のジョセフ・コットンみたいにじっと見ていた。

『眼下の敵』にこういうシーンがあったような気がした。私が耳を澄ませているその下で、彼女の巨大な胃がクルト・ユルゲンスの乗ったUボートみたいにひっそりと消化活動を行なっているのだ。

「『僕のせいじゃない』というのは『異邦人』の主人公の口ぐせだったわね、たしか。あの人なんていう名前だったかしら、えーと」
「ムルソー」と私は言った。

「ツルゲーネフ」
「ツルゲーネフはそんなたいした作家じゃないわ。時代遅れだし」
「そうかもしれない」と私は言った。「でも好きなんだ。フローベールとトマス・ハーディーも良いけど」
「新しいものは読まないの?」
「サマセット・モームならときどき読むね」
「サマセット・モームを新しい作家だなんていう人今どきあまりいないわよ」と彼女はワインのグラスを傾けながら言った。「ジュークボックスにベニー・グッドマンのレコードが入ってないのと同じよ」『剃刀の刃』なんて三回も読んだ。

そういう匂いについての良い描写がジョン・アップダイクの小説の中に出てくる、と言った。

「どうして離婚したの?」と彼女が|訊《き》いた。
「旅行するとき電車の窓側の席に座れないから」と私は言った。
「冗談でしょ?」
「J・D・サリンジャーの小説にそういう|科《せり》|白《ふ》があったんだ。高校生のときに読んだ」

「『カラマーゾフの兄弟』を読んだことは?」と私は訊いた。
「あるわ。ずっと昔に一度だけだけど」
「もう一度読むといいよ。あの本にはいろんなことが書いてある。小説の終りの方でアリョーシャがコーリャ・クラソートキンという若い学生にこう言うんだ。ねえコーリャ、君は将来とても不幸な人間になるよ。しかしぜんたいとしては人生を祝福しなさい」
 私は二本めのビールを飲み干し、少し迷ってから三本めを開けた。
「アリョーシャにはいろんなことがわかるんだ」と私は言った。「しかしそれを読んだとき僕はかなり疑問に思った。とても不幸な人生を総体として祝福することは可能だろうかってね」

ロジャー・ウィリアムズが『枯葉』を弾いていた。

フランク・チャックスフィールド・オーケストラの『ニューヨークの秋』に変った。

まるでウィリアム・シェイクスピアの|科《せり》|白《ふ》みたいだ。世界は台所だ。

次の曲はウディー・ハーマンの『アーリー・オータム』だった。

まるでフルトヴェングラーがベルリン・フィルを指揮するのに使う象牙のタクトのような威圧感があった。

三オクターブぶんしかキイがなくて、五年も調律をしていないピアノを弾いているような気分だった。

清潔で静かなバーと、ナッツの入ったボウルと、低い音で流れるMJQの『ヴァンドーム』

ジム・モリソンが死んで十年以上になるが、ドアーズの音楽を流しながら走っているタクシーにめぐりあったことは一度もない。

デパートの拡声装置からはレーモン・ルフェーブル・オーケストラが流れ、ビヤホールではポルカがかかり、歳末の商店街ではヴェンチャーズのクリスマス・ソングが聴こえるものなのだ。

ラヴェルの「ボレロ」を聴きながら小便をするというのは何かしら不思議なものだった。永久に小便が出つづけるような気分になってしまうのだ。

ジョニー・マティスのベスト・セレクションとツビン・メータの指揮するシェーンベルクの『浄夜』とケニー・バレルの『ストーミー・サンデイ』とデューク・エリントンの『ポピュラー・エリントン』とトレヴァー・ピノックの『ブランデンブルク・コンチェルト』と『ライク・ア・ローリング・ストーン』の入ったボブ・ディラン

私はボブ・ディランのテープをデッキにつっこんで『ウォッチング・ザ・リヴァー・フロー』を聴きながら

ボブ・ディランは『激しい雨』を唄いつづけていた。

J・D・サリンジャーとジョージ・ハリソンが好きだった十七歳の女の子が何年か後に革命活動家の子供を二人産んでそのまま行方不明になるなんて誰に予測できるだろう。

ボブ・ディランは『ポジティヴ・フォース・ストリート』を|唄《うた》っていた。

「ボブ・ディランって少し聴くとすぐにわかるんです」と彼女は言った。
「ハーモニカがスティーヴィー・ワンダーより下手だから?」
「古い音楽が好きなんです。ボブ・ディラン、ビートルズ、ドアーズ、バーズ、ジミ・ヘンドリックス——そんなの」

私が適当に選んだテープにはジャッキー・マクリーンとかマイルズ・デイヴィスとかウィントン・ケリーとか、その手の音楽が入っていた。私はピツァが焼けるまで、『バッグズ・クルーヴ』とか『飾りのついた四輪馬車』とかを聴きながら一人でウィスキーを飲んだ。

スピーカーからはパット・ブーンの『アイル・ビー・ホーム』が流れていた。

彼女がパンティー・ストッキングをくるくると丸めるように脱いでいるところで曲はレイ・チャールズの『ジョージア・オン・マイ・マインド』にかわった。

そして私の手からグラスをとり、シャツのボタンをいんげんの筋をとるときのようにひとつずつゆっくりと外していった。

私はビング・クロスビーの|唄《うた》にあわせて『ダニー・ボーイ』を唄った。

ミラー・ハイライフの金色の缶は秋の太陽に染まったようにきらきらと光り輝いていた。デューク・エリントンの音楽もよく晴れた十月の朝にぴたりとあっていた。もっともデューク・エリントンの音楽なら大みそかの南極基地にだってぴたりとあうかもしれない。

『ドゥー・ナッシン・ティル・ユー・ヒア・フロム・ミー』のユニークなローレンス・ブラウンのトロンボーン・ソロにあわせて口笛を吹きながら車を運転した。それからジョニー・ホッジスが『ソフィスティケーティッド・レディー』のソロをとった。

 

「今朝老人たちが僕の部屋の前で穴を掘っていた。何を埋めるための穴かはわからないけれど、とても大きな穴だった。僕は彼らのシャベルの音で目が覚めたんだ。それはまるで、僕の頭の中に穴を掘っているようだった。雪が降ってその穴を埋めた」 ねじまき鳥の庭で穴を掘るのと重なる

「向いに『サーティーワン・アイスクリーム』があるから、それを買ってきてくれる? コーンのベースのダブルで、下がピスタチオ、上がコーヒーラム。大丈夫、覚えた?」

「デニーズ」の看板だろうが、交通標識だろうが、私の顔だろうが、べつになんだってよかったのだ。

 

まるであらゆるものを貪欲に呑み込んでいくハーポ・マルクスのコートみたいだ。

しかし戦いや憎しみや欲望がないということはつまりその逆のものがないということでもある。それは喜びであり、至福であり、愛情だ。絶望があり幻滅があり哀しみがあればこそ、そこに喜びが生まれるんだ。絶望のない至福なんてものはどこにもない。それが俺の言う自然ということさ。

「あなたは川の中に落ちた雨粒を選りわけようとしているのよ」
「いいかい、心というのは雨粒とは違う。それは空から降ってくるものじゃないし、他のものと見わけがつかないものじゃないんだ。もし君に僕を信じることができるんなら、僕を信じてくれ。僕は必ずそれをみつける。ここには何もかもがあるし、何もかもがない。そして僕は僕の求めているものをきっとみつけだすことができる」

「もうひとつの問題はこういうことだ」と彼らは言った。「人は自らの意識の核を明確に知るべきだろうか?」
「わかりません」と私は答えた。

あんたは剛胆ですかな、それとも|臆病《おくびょう》ですかな?」
「わかりませんね」と私は正直に言った。「あるときには剛胆になれるし、あるときには臆病です。ひとくちじゃ言えません」
「思考システムというのはまさにそういうものなのです。ひとくちでは言えん。その状況や対象によってあんたは剛胆さと臆病さというふたつの極のあいだのどれかのポイントを自然にほとんど瞬間的に選びとっておるのです。そういう細密なプログラムがあんたの中にできておるのですな。しかしそのプログラムの細かい内訳や内容についてはあんたは殆んど何も知らん。知る必要がないからです。それを知らんでも、あんたはあんた自身として機能していくことができる。これはまさにブラックボックスですな。つまり我々の頭の中には人跡未踏の巨大な象の墓場のごときものが埋まっておるわけですな。大宇宙をべつにすればこれは人類最後の|未知の大地《テラ・インコグニタ》と呼ぶべきでしょう。→ビッグデータ

フロイトやユングが様々な推論を発表したが、あれはあくまでそれについて語ることができるだけの術語を発明したにすぎんです。便利にはなったが、それで人間のスポンタニアティーが確立したかというと、そんなことはない。私の目から見れば心理科学にスコラ哲学的色彩を賦与したというにすぎんですな」

フロイトやユングが様々な推論を発表したが、あれはあくまでそれについて語ることができるだけの術語を発明したにすぎんです。便利にはなったが、それで人間のスポンタニアティーが確立したかというと、そんなことはない。私の目から見れば心理科学にスコラ哲学的色彩を賦与したというにすぎんですな」

まあそうかもしれない、と私は思った。誰かが私の体をしっかりと抱きしめてくれるわけではないのだ。私も誰かの体をしっかりと抱きしめるわけではない。そんな風に私は年をとりつづけているのだ。海底の岩にはりついたなまこのように、私はひとりぼっちで年をとりつづけるのだ。

「しかしあなたの言う救済というのはどういう意味なんですか?」
「死によって彼らは救われておるのかもしれんということさ。獣たちはたしかに死ぬが、春になればまた生きかえるんだ。新しい子供としてな」

私がその音についていちばんおぞましく思ったことは、それが我々二人を拒否するというよりは手招きしているように感じられたことだった。彼らは我々が近づいていることを知っていて、その喜びに邪悪な心を震わせているのだ。

ちびは私の顔もろくに見ず、あいさつもしなかった。

 

それは口笛というよりは、空気の裂けめの不揃いな線を歯を掃除するためのフロス糸でこすっているような音に聴こえた。曲名はわからないというか、メロディーそのものがないのだ。

 

バーに行く前にまず洋服を作る必要がある。ダーク・ブルーのツイードのスーツにしよう、と私は決めた。品の良いブルーだ。ボタンが三つで、ナチュラル・ショルダーで、脇のしぼりこまれていない昔ながらのスタイルのスーツ。一九六〇年代のはじめにジョージ・ペパードが着ていたようなやつだ。シャツはブルー。しっくりとした色あいの、少しさらしたようなかんじのブルー。生地は厚めのオックスフォード綿で、襟はできるだけありきたりのレギュラー・カラー。ネクタイは二色のストライプがいい。赤と緑。赤は沈んだ赤で、緑は青なのか緑なのかよくわからない、嵐の海のような緑だ。

 

暗号の中でもっとも信頼性の高いのはブック・トゥー・ブック・システム——つまり暗号を送りあう二人が同じ版の同じ本を持っておってそのページ数と行で単語を決めるシステム——ですが、これだって本がみつかってしまえばおしまいです。だいいちいつもその本を手もとに置いておかなきゃならんです。

 

「被験者に何かの物体を見せ、その視覚によって生じる脳の電気的反応を分析し、それを数字に置きかえ、それからまたドットに置きかえます。最初はごく単純な図形しか浮かびあがってこないが、何度も補整し、細部をつけ加えていくうちに、それは被験者が見たとおりの映像をコンピューター・スクリーンに描きだす。口で言うほど簡単な作業ではないし、とてつもない手間と時間がかかるですが、簡単に言っちまえばそうなります。そして何度も何度もそれをかさねていくうちに、コンピューターはパターンをのみこんで脳の電気的反応から自動的に映像を映し出すようになってくるわけです。コンピューターというのは実に可愛いものですな。こちらが一貫した指示を出す限り、必ず一貫した仕事をやるですよ。
 次にいよいよそのパターンをのみこんだコンピューターの中に、今度はブラックボックスを入れてみるわけです。すると実に見事に意識の核のありようが映像化されるという次第ですな。しかしもちろんその映像は極めて断片的で混沌としており、そのままではとても意味をなさない。そこで編集作業が必要になってくる。そう、まさに映画の編集作業ですな。イメージの集積を切ったり貼ったり、あるものをとりのぞいたり、いろいろと組みあわせたりするわけです。そして筋をとおしたひとつのストーリーに組みかえる」
「ストーリー?」
「それほど不思議なことではないですな」と博士は言った。「優れた音楽家は意識を音に置きかえることができるし、画家は色や形に置きかえる。そして小説家はストーリーに置きかえます。それと同じ理屈ですよ。もちろん転換をするわけですから、真に正確なトレースではないですが、意識のおおかたのありようを理解するには実に便利です。いくら正確でも混沌としたイメージの羅列を眺めていたのではなかなか全容をつかみきれませんですからな。

エントロピーは常に増大する。この街はそれをいったいどこに排出しているんだろう?→パラレルワールド カクミチオ

つまりあんたはもともと複数の思考システムを使いわけておったのです。もちろん無意識にですな。無意識に、自分でもわからんうちに、自己のアイデンティティーをふたとおり使いわけておったんです。先刻の私の比喩を使うならズボンの右ポケットの時計と左ポケットの時計をです。もともとの自前のジャンクションができておって、それであんたは精神的な免疫が既にできとったということになります。これが私の立てた仮説です」

 

「これはある意味ではまさにタイム・パラドックスなのですよ」と博士は言った。「あんたは記憶を作りだすことによって、あんたの個人的なパラレル・ワールドを作りだしておるんです」

結局のところ組織《システム》は国家をまきこんだ私企業にすぎないのよ。私企業の目的は営利の追求よ。営利の追求のためにはなんだってやるわ。『組織《システム》』は情報所有権の保護を表向きの看板にしているけれど、そんなのは口先だけのことよ。祖父はもし自分がこのまま研究をつづけたら事態はもっとひどいことになるだろうと予測したの。脳を好き放題に改造し改変する技術がどんどん進んでいったら、世界の状況や人間存在はむちゃくちゃになってしまうだろうってね。そこには抑制と歯止めがなくちゃいけないのよ。でも『組織《システム》』にも『工場《ファクトリー》』にもそれはないわ。だから祖父はプロジェクトを降りたの。

僕の場合は簡単に説明すれば情報戦争にまきこまれちまっているんだ。要するにコンピューターが自我を持ちはじめるまでのつなぎさ。まにあわせなんだ」

「たぶん私がチェスに凝るのと原理的には同じようなものだろう。意味もないし、どこにも辿りつかない。しかしそんなことはどうでもいいのさ。誰も意味なんて必要としないし、どこかに辿りつきたいと思っているわけではないからね。我々はここでみんなそれぞれに純粋な穴を掘りつづけているんだ。目的のない行為、進歩のない努力、どこにも辿りつかない歩行、素晴しいとは思わんかね。誰も傷つかないし、誰も傷つけない。誰も追い越さないし、誰にも追い抜かれない。勝利もなく、敗北もない」

まずオードヴルに小海老のサラダ苺ソースかけと生ガキ、イタリア風レバームース、イカの墨煮、なすのチーズ揚げ、わかさぎのマリネをとり、パスタに私はタリアテルカサリンカを、彼女はバジリコ・スパゲティーを選んだ。

マカロニの魚ソースあえ

「アーモンドをあしらった蒸し焼き

「それにほうれん草のサラダとマッシュルーム・リゾット」
「私は温野菜とトマト・リゾット」
「デザートには葡萄のシャーベットとレモン・スフレとエスプレッソ・コーヒー」

「バター・ソースの作り方にコツがあるんだ」と私は言った。「エシャロットを細かく切って良いバターに混ぜて、丁寧に焼くんだ。焼くときに手を抜くと良い味がつかない」

「ベイリーフとオレガノがあればもっとうまくできたよ」

なにしろ今回の出来事に関しては僕の主体性というものはそもそもの最初から無視されてるんだ。あしかの水球チームに一人だけ人間がまじったみたいなものさ」→笑い

 

「バスの中でヘアー・スプレイを使っている若い男に注意したら、相手が鉄の花瓶で殴りかかってきたの」
「どうして若い男が鉄の花瓶なんか持っていたんだろう?」
「わからないわ」と彼女は言った。「見当もつかないわ」
 私にも見当がつかなかった。
「それにしてもバスの中で殴り殺されるなんてひどい死に方だと思わない?」→ひどい死に方 クロニクル バットで殴られシャベルでも

「台風が去った次の朝に海岸に行くと、浜辺にいろんなものが落ちていた。波で打ちあげられたんだ。想像もつかないようなものが、いっぱい見つかる。瓶やら下駄やら帽子やら眼鏡ケースから椅子・机に至るまでなんだって落ちているんだ。どうしてそんなものが浜辺に打ちあげられるのか、僕には見当もつかない。でもそういうのを探すのがとても好きで、台風が来るのが楽しみだった。たぶんどこかの浜に捨てられていたものが波でさらわれて、それがまた打ちあげられるんだろうね」

「海から打ちあげられたものはどんなものでも不思議に浄化されているんだ。使いようのないがらくたばかりだけれど、みんな清潔なんだ。汚なくて触ることのできないようなものは何ひとつとしてない。

海というのは特殊なものなんだ。僕は自分のこれまでの生活を振りかえるとき、いつもそんな浜辺のがらくたのことを思いだす。僕の生活というのはいつもそんな具合だった。がらくたを集めて自分なりに清潔にして別の場所に放りだす——しかし使いみちはない。そこで朽ちはてるだけだ」


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