藤原定家 光源氏 薫大将 坐禪箴の共通項は何かという謎解きに紀野一義が挑む。
・白栲の袖のわかれに露おちて 身にしむ色の秋かぜぞ吹く 色のない世界に一点の色あり。
・正法眼蔵 坐禪箴 佛祖の光明に照臨せらるるといふは、この坐禪を功夫參究するなり。おろかなるともがらは、佛光明をあやまりて、日月の光明のごとく、珠火の光耀のごとくあらんずるとおもふ。日月の光耀は、わづかに六道輪廻の業相なり、さらに佛光明に比すべからず。佛光明といふは、一句を受持聽聞し、一法を保任護持し、坐禪を單傳するなり。光明にてらさるるにおよばざれば、この保任なし、この信受なきなり。 佛光明といふは一点きらりと自ら光ことだと紀野一義は云う。
・光源氏は自ら光った。
・薫大将は自ら薫香を放った。それに対して匂いの宮は匂い袋を下げて歩いた。
道元の正法眼蔵は読み進めるのが困難だ。紀野一義もやはり手強い、さっぱりわからんと唸りながらもこの鉱脈をイメージを武器に掘り進める。読み進める。そして全てがわからなくても何処かイメージで突破できる箇所を見出しとそこに楔を打ち込む。
そのイメージの似通った和歌であろうが源氏物語であろうが引き寄せて説明に使う。それが法華経などを読む極意だと気付かされる。訓詁注釈を学者のように読むことに意義を見出さない、今日生きる縁となるように氏は読み進む。
氏の声を通して聴くと苦痛に満ちた古文読解が実に楽しい時間に変わる不思議をいつも感じてしまう。