いずれも稀代の仏教伝道者で尊敬するお二方だがどこが異なるかをシリーズで追求する試みをこのブログで行って行きたい。今回は救いについて。
佐々木閑氏は仏教に例えば観音による救いや阿弥陀の救いなどということは一切釈迦は説いていない、だからそういう救いはないので仏教に求めても無駄だという。つまり現世利益はないと諸法無我の立場から断言する。多くの動画で一体何回繰り返されたことだろう。
紀野一義氏は死ぬ時には母親や父親などが迎えにきてくれるから何にも怖いことはないよ、安心して逝きなさいと話す。
これほど大きな違いをみせる両氏だが佐々木閑氏の釈迦は救いなどということは説いていない、一切の煩悩を離れて再び輪廻しないことのみが仏教だという。つまり大乗仏教は仏教ではない、別の宗教であると言いたいのかな。そしてそれぞれ好きな宗教を選べば良いと述べる。
それぞれ好きな宗教を選べば良いというのは、氏は決して突き放しているのではない。少なくとも釈迦仏教という病院ではその種の患者は扱っておりませんと言っている。大乗仏教という病院に行きなさいと言っているのだ。佐々木閑氏は阿含経などの初期仏教のみを学者的信念で釈迦仏教であると言い、大乗を批判するのではなく歴史的に新たに生まれた新仏教だと言いたいのだろう。正直に文献に忠実に述べているところに好感を持つ。
紀野一義氏は法華宗の寺の息子で生涯法華経を中心とした仏教伝導家として生きた。氏は仏教による救いを91歳で亡くなるまで説いて生きた。阿含などの初期経典の話などをしたことはない。鎌倉の祖師たち道元、日蓮、親鸞の系譜を引き継いだ。氏はキリスト教でも良いしお母さん信仰でも良いと大変なことを言う。好きなものをよく選んで一生貫けば良いと。
全く異なるように見える二方の論だが、わたしには佐々木閑氏の話を聞いていると氏に対する信頼感は膨れていくのだが、同時に紀野一義氏への理解と信頼が一層増してくるという不思議な感覚を得ている。(これはこれでゆっくりと考えて行きたいのだが乱暴を承知でわかりやすく例えればカソリックとプロテスタントの違いか。)