文芸的な、余りに文芸的な 芥川龍之介より抜粋してみた。絵や暑、写真が理解のために以下に大切かを力説している。以下、気になる文の抜粋と関係のある絵がある場合はwikipediaやwikimediaから集めてみた。
デツサンのない画は成り立たない。それと丁度同じやうに小説は「話」の上に立つものである。小説或は叙事詩が「話」の上に立つてゐる以上、誰か「話」のある小説に敬意を表せずにゐられるであらうか? 「話」のない小説を、或は「話」らしい話のない小説を最上のものとは思つてゐない。しかしかう云ふ小説も存在し得ると思ふのである。
デツサンのない画は成り立たない。カンデインスキイの「即興」などと題する数枚の画は例外である。しかしデツサンよりも色彩に生命を託した画は成り立つてゐる。
「サンタンリ村から見たマルセイユ湾」ポール・セザンヌ セザンヌの画に近い小説に興味を持つてゐるのである。
「日本の小説に最も欠けてゐるところは、此の構成する力、いろいろ入り組んだ筋を幾何学的に組み立てる才能にある」といわれるが「源氏物語」の昔からかう云ふ才能を持ち合せてゐる。
どう云ふ思想も文芸上の作品の中に盛られる以上、必ずこの詩的精神の浄火を通つて来なければならぬ。僕の言ふのはその浄火を如何に燃え立たせるかと云ふことである。それは或は半ば以上、天賦の才能によるものかも知れない。いや、精進の力などは存外効のないものであらう。しかしその浄火の熱の高低は直ちに或作品の価値の高低を定めるのである。
世界は不朽の傑作にうんざりするほど充満してゐる。が、或作家の死んだ後、三十年の月日を経ても、なほ僕等の読むに足る十篇の短篇を残したものは大家と呼んでも差支さしつかへない。たとひ五篇を残したとしても、名家の列には入るであらう。最後に三篇を残したとすれば、それでも兎角一作家である。この一作家になることさへ容易に出来るものではない。
横文字の雑誌に「短篇などは二三日のうちに書いてしまふものである」と云ふウエルズの言葉を発見した。二三日は暫く問はず、締め切り日を前に控へた以上、誰でも一日のうちに書かないものはない。しかしいつも二三日のうちに書いてしまふと断言するのはウエルズのウエルズたる所以である。従つて彼は碌ろくな短篇を書かない。
ギュスターブ・ドレによって描かれたダンテの神曲の一場面
「神曲」は一面には晩年のダンテの自己弁護である。公金費消か何かの嫌疑を受けたダンテはやはり僕等自身のやうに自己弁護を必要としたのに違ひない。
故郷を追はれたダンテも亦神経的に苦しんだのに違ひない。殊に死後には幽霊になり、彼の息子に現れたと云ふことは幾分かダンテの体質を――彼の息子に遺伝したダンテの体質を示してゐるであらう。ダンテは実際ストリントベリイのやうに地獄の底から脱け出して来た。現に「神曲」の浄罪界は病後の歓びに近いものを持つてゐる。
「ベアータ・ベアトリクス」 1863年 ダンテ・ゲィブリエル・ロセッティ
所謂「永遠の女性」は天国の外には住んでゐない。のみならずその天国は「しないことの後悔」に充ち満ちてゐる。丁度地獄は炎の中に「したことの後悔」を広げてゐるやうに。
ホイツスラアは油画の上に浮世画を模倣をしなかつたか? 「純粋であるか否かの一点に依つて芸術家の価値は極まる」僕は小説や戯曲の中にどの位純粋な芸術家の面目のあるかを見ようとするのである。大詩人を大詩人たらしめるものは雑駁であることに帰着してゐる。
ゴオガンは橙色の女の中に人間獣の一匹を表現してゐた。
ルノアルははかう云ふ点ではゴオガンよりも古典的作家に近いのかも知れない。けれども橙色の人間獣の牝は何か僕を引き寄せようとしてゐる。かう云ふ「野性の呼び声」を僕等の中に感ずるものは僕一人に限つてゐるのであらうか?
僕は僕と同時代に生まれた、あらゆる造形美術の愛好者のやうにまづあの沈痛な力に満ちたゴオグ(ゴッホ)に傾倒した一人だつた。が、いつか優美を極めたルノアルに興味を感じ出した。ルノアルは未だに僕を打たない訣ではない。しかしゴオグの糸杉や太陽はもう一度僕を誘惑するのである。何か切迫したものに言はば芸術的食慾を刺戟されるのは同じことである。何か僕等の魂の底から必死に表現を求めてゐるものに。僕はルノアルに恋々の情を持つてゐるやうに文芸上の作品にも優美なものを愛してゐる。
僕はゴオガン(ゴーギャン)の橙色の女に「野性の呼び声」を感じてゐる。しかし又ルドンの「若き仏陀」に「西洋の呼び声」を感じてゐる
「西洋」の僕に呼びかけるのはいつも造形美術の中からである。僕等の語学的素養は文芸上の作品の美を捉へる為には余りに不完全である為であらう。「木の股のあでやかなりし柳かな」僕は最も手短かにギリシアを説明するとすれば、日本にもあるギリシア陶器の幾つかを見ることを勧めるであらう。或は又ギリシア彫刻の写真を見ることを勧めるであらう。それ等の作品の美しさはギリシアの神々の美しさである。或は飽くまでも官能的な、言はば肉感的な美しさの中に何か超自然と言ふ外はない魅力を含んだ美しさである。この石に滲しみこんだ麝香か何かの匂のやうに得体の知れない美しさは詩の中にもやはりないことはない。最も直接に僕にこのギリシアを感じさせたのは前に挙げた一枚のルドンである。
不可思議な荘厳に満ちた一枚のルドンを思ひ出した。
一枚のルドンは、いや、いつかフランス美術展覧会に出てゐたモロオ(ギュスターブ・モロー)の「サロメ」さへかう云ふ点では僕に東西を切り離した大海を想はせずには措なかつた。ピカソは黒んぼの芸術に新らしい美しさを発見した。
けれども彼等の東洋的芸術に――たとへば大愚良寛の書に新らしい美しさを発見するのはいつであらう。
元来東西の古典のうち、大勢の読者を持つてゐるものは決して長いものではない。少くとも如何に長いにもせよ、事実上短いものの寄せ集めばかりである。
所謂いはゆる通俗小説とは詩的性格を持つた人々の生活を比較的に俗に書いたものであり、所謂芸術小説とは必しも詩的性格を持つてゐない人々の生活を比較的詩的に書いたものである。両者の差別は誰でも言ふやうにはつきりしてゐないのに違ひない。
最も文芸的な文芸は僕等を静かにするだけである。僕等はそれ等の作品に接した時には恍惚となるより外に仕かたはない。文芸は、或は芸術はそこに恐しい魅力を持つてゐる。若しあらゆる人生の実行的側面を主とするとすれば、どう云ふ芸術も根柢には多少僕等を去勢する力を持つてゐるとも言はれるであらう。
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