豆腐ヨウ
カンボジアのアンコールワットを訪れた時のこと、ホテルの朝食は例によってバイキングでメニュウは中華風のお粥やビーフン野菜炒めなどが豊富にあった。その中でなにやら豆腐ヨウを少し大きく切ったようなものがあった。お粥の近くにあったのでお粥に添えて食べるといいのだろうと思い試してみることに。
一口食べてみて驚いた。豆腐ヨウそのものの味だ。しかも素晴らしい味だ。豆腐ヨウは沖縄の特産だ。紅麹と泡盛で豆腐を漬け込んで作る。それがカンボジアでローカルな食べ物として出ている。ということは豆腐ヨウのルーツはカンボジアか。
発酵食品に目がない。大きめの豆腐ヨウを5,6個もお粥と一緒に食べたらそれまでたまっていた和食への郷愁が満たされた。おかゆにこれを乗せてトゥックトレイをすこし垂らしてたべる。決して味噌汁とご飯ではないのだがそれでもなにか体が芯から満足したようだ。味噌も豆腐ヨウも共に大豆の発酵食品で、お粥はお米だ。その組み合わせがいいのだろう。
その日の午後、アンコールワットの暑くてヘビーな遺跡巡りを難なくこなせた。今思い出しても凄い急な石の階段をへばりつくようにして上った。60度の傾斜はあったと思う。ひょっとして豆腐ヨウと粥が力を与えてくれたのかも知れない。
「灰白色の、ぶよぶよしているように見えるけれど頑強に固いその気根が東西南北、天地、地上地下、いっさいがっさいおかまいなしにのたうちまわり、這いまわり、からみあって、ジャングルから行進してきている」開高健「不思議な花」より。
「それら無数の多頭の蛇は石の壁を破壊し、男根の像を倒し、塔をつらぬき、望楼を地へ落とし、テラスをひび割り、巨大な人面像をらいさながらに犯し」開高健「不思議な花」より。
「全身をらいに犯された人間の体内を無影灯の明るさで眺めたらこのような光景が見られるだろうか」開高健「不思議な花」より。
「石と木の無言の大野戦を思い出す」開高健「不思議な花」より。
4月とはいえ既に相当に暑い。遺跡はどこの場合もそうだがとにかく歩く。この地も万歩計をつけて歩いたが3万歩近く歩いたのではないか。暑さと肉体的疲労とでやっとの思いで辿り着いたアンコールワットだがその広大な内堀の前に立った瞬間来てよかったと思った。
去年の春にアンコールワットを訪れた。日本からマレーシア、ベトナムを経由しての旅でひと月ほどが経っている。600メートルもある参道を内堀の緑の水に囲まれて歩きながら、はるばるやってきたとの感慨に浸ることができた。途中でなにげなく読んだガイドブックによると1632年=寛永9年に日本人がこの地を訪れていたという。そして寺院の壁に落書きを残したとある。その時はそんな話もあるか位に記憶していたが調べてみると「落書き」の内容は
御堂を志し数千里の海上を渡り
一念を念じ世々娑婆浮世の思いを清めるために
ここに仏四体を奉るものなり
摂州津池田之住人森本儀太夫
とある。(wikipedia参照 原文は漢文)
摂州津池田とはわたしの生まれ故郷の近くである池田市のことではないか。池田の住人森本儀太夫 がどのようないきさつで長崎から御朱院船に乗り込めたかは不明だが不思議な縁を感じる。森本儀太夫自身はこの地を祇園精舎と思いこんではるばる海を渡りたどりついたという。「一念を念じ世々娑婆浮世の思いを清めるために 」生死をかえりみず苦難の旅を完行した人間の一念の強さを思い知らされる。
しかし「落書き」扱いはひどいのではないか。森本さんも許可を受けて墨で揮ごうしたに違いない。せめて「墨書跡」とでも紹介してほしいものだ。
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よくみると水どりの群れが。
トンレサップ湖の水上生活者の船。屋根にテレビのアンテナが見える。
トンレサップ湖の水上生活者の船。
はしけ。
水上家屋。
水上家屋。
水上家屋。
ワニの養殖。
浅瀬で遊ぶ少年たち。アマゾンやメコンそしてこのトンレサップ湖もお汁粉色なのだが、川の水とはこんなものだと思う人口の方が多いと開高健氏がどこかで書いていた。
これは水上生活者の子弟の通う学校。壁に日本の国旗が見える。日本のODAで建設した船上学校。
先生と生徒。右側の女性が先生。この学校に塗られたブルー、ベトナムやカンボジアに似合う。
遺跡のあるシェムリアップから近いトンレサップ湖は世界でも有数の生物多様性を誇り、淡水魚の種類は200ないし300種類以上にものぼると言うが正確に調べたことは無いという。魚は カンボジアの人々のタンパク源プラホック(発酵食品)やトゥックトレイ(魚醤)の材料となる。