まさおレポート

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宮沢賢治 「銀河鉄道の夜」と大乗思想 向かいのステーションには来世行きの列車が待っている

2022-12-15 | 小説 音楽

この銀河鉄道は始点も終点もない列車だ。無始無終運行を続けて人を乗せ(誕生)ある駅で人を下ろす(死)。

向かいのステーションには来世行きの列車が待っている。

今では仏教として常識になっているこの考えも元法華経で初めてこのような思想が説かれた。


2018/3/22

宮沢賢治は法華経に染まった、法華経は他者への憐憫と救済を説く、賢治はジョバンニに変身して菩薩行を銀河鉄道で行じる。大筋ではこのように読んだがまだまだ一筋縄の解釈を許さないところもある。今回はとりあえずこの程度の理解でおさめ、繰り返し読んで深めていくしかない。

宮沢賢治は天文学にも深い関心があってそれが法華経への傾倒と相まって銀河鉄道に結びつく。バリで毎夕のように南十字星を眺めていた、夕方にはヨダカのなく声を聞いた、そんな時に自然と宮沢賢治の作品を思い浮かべていたが実はまともに読んだことがなかった。

 「ぼくはおっかさんが、ほんとうに幸になるなら、どんなことでもする。けれども、いったいどんなことが、おっかさんのいちばんの幸なんだろう。」カムパネルラは、なんだか、泣きだしたいのを、一生けん命こらえているようでした。

「ぼくわからない。けれども、誰だって、ほんとうにいいことをしたら、いちばん幸なんだねえ。だから、おっかさんは、ぼくをゆるして下さると思う。」カムパネルラは、なにかほんとうに決心しているように見えました。

カムパネルラはザネリを川から助けるが自らは溺れ死ぬ。死後の会話でほんとうにいいことをしたら、いちばん幸なんだねと自分で納得している。カムパネルラは暗黒星雲に吸い込まれたように銀河鉄道からいなくなってしまう。つまりザネリを救済することによって自らは解脱したことを暗示する。

「これは三次空間の方からお持ちになったのですか。」車掌がたずねました。

三次空間とはこの世のこと。 

「おや、こいつは大したもんですぜ。こいつはもう、ほんとうの天上へさえ行ける切符だ。天上どこじゃない、どこでも勝手にあるける通行券です。こいつをお持ちになれぁ、なるほど、こんな不完全な幻想第四次の銀河鉄道なんか、どこまででも行ける筈でさあ、あなた方大したもんですね。」

こんな不完全な幻想第四次の銀河鉄道と言う意味は? 死後の世界は不完全で、どこかに収まらなければならない。それは天国か現世に輪廻することか暗黒星雲のようなまったき解脱の世界か。天国はやや寂しそうに描かれている。ジョバンニは現世に輪廻する、カンパネルラは完全な解脱の世界に行ってしまう、果たして何が最上かを問うている。ジョバンニは大乗の菩薩を暗示している、カンパネルラは小乗の解脱者を暗示している。

どこでも行けるチケットは曼荼羅本尊のことだと紀野一義、正木晃など 複数の人が書いたり話たりしている。しかし国柱会の曼荼羅を暗示しているとストレートに結びつけてはおかしな理解になる。

ここで宮沢賢治が国柱会に傾倒していたことを思い出そう。妹トシが25歳でなくなった折の葬儀が宮沢家の一階で浄土真宗のもと執り行われているあいだ、27歳の宮沢賢治はニ階で国柱会の曼荼羅つまり日蓮宗の本尊を掲げて一心に祈っていたと書くように半端な傾倒ではなかったようだ。(紀野一義の著書)

宮沢賢治は国柱会のプロパガンダと見えないように童話化してこの物語を作ったのだろうか。どうもそうは思えない、いやそうではないと断言してもいいだろう。宮沢賢治のファンが彼が国柱会に傾倒していた事実に触れたがらないという気持ちはよく分かる。それは国柱会が現代ではほとんどの層がピントこないが創価学会に置き換えるとよく理解できるし、そう大きな違いはないだろう。(特に戸田城聖の時代の創価学会がそれに近いのではないか)

宮沢賢治の熱くピュアな思いをエバンジェリストとして銀河鉄道の夜を始めとする童話に盛り込んだと思われるのがファンとしてはピュアを汚されるようで不快なで耐えられないのだと思う、そしてそれに賛同する。プロパガンダが根底にある童話なんか読めるものではないが、しかし宮沢賢治の童話はそうはなっていない。

宮沢賢治はいくつかの理由により国柱会にはのめり込んだが、又ある理由によりそのなかに友達はいなかった。国柱会にのめり込んだ理由は浄土真宗の他力でなく法華経の自力、浄土真宗の一人の解脱でなく法華経の救済、キリスト教の一神教よりは草木一切成仏の法華経だと正木晃は講演で述べている。その結論として浄土真宗から法華経信仰に内発的に転向した。

そして宮沢賢治本来と国柱会という2つの円の共通項はある時期に深く共鳴し交わったが、多くの部分で宮沢賢治独自の世界を持っていた、だから国柱会には友達がいなかったのだろうというのがその理由だろう、そして童話がそうしたプロパガンダから離れた純粋なものだとの確信も抱ける。宮沢賢治の心のうちの信仰は組織化で汚されない、もっとピュアなものがあったので国柱会のエバンジェリストにはならずに童話の形にして表現したのだ。

いいたいことはこうだ、国柱会に触発されて法華経に親しんだのは事実であるが何もそれに根底から影響されたわけではない、実は本来宮沢賢治が持っていた資質、あるいは心の位と言ってもいいが高いレベルに有り、それに内発されて法華経に近づいたが、実は国柱会の法華経からは抜け出ている、それは次の文章に現れている。

「もうじきサウザンクロスです。おりる支度したくをして下さい。」
「ここでおりなけぁいけないのです。」青年はきちっと口を結んで男の子を見おろしながら云いました。
「厭だい。僕もう少し汽車へ乗ってから行くんだい。」
 ジョバンニがこらえ兼ねて云いました。
「僕たちと一緒いっしょに乗って行こう。僕たちどこまでだって行ける切符きっぷ持ってるんだ。」
「だけどあたしたちもうここで降りなけぁいけないのよ。ここ天上へ行くとこなんだから。」女の子がさびしそうに云いました。
天上へなんか行かなくたっていいじゃないか。ぼくたちここで天上よりももっといいとこをこさえなけぁいけないって僕の先生が云ったよ。
「だっておっ母さんも行ってらっしゃるしそれに神さまが仰しゃるんだわ。」
「そんな神さまうその神さまだい。」
「あなたの神さまうその神さまよ。」
「そうじゃないよ。」
「あなたの神さまってどんな神さまですか。」青年は笑いながら云いました。
「ぼくほんとうはよく知りません、けれどもそんなんでなしにほんとうのたった一人の神さまです。」
ほんとうの神さまはもちろんたった一人です。」
「ああ、そんなんでなしにたったひとりのほんとうのほんとうの神さまです。

この子供同士の神様問答がこの文章のクライマックスだと思うが、「だけどあたしたちもうここで降りなけぁいけないのよ。ここ天上へ行くとこなんだから。」女の子がさびしそうに云いました。

とキリスト教に融和的でも有るがちょっぴり批判を加えている、国柱会の戦闘的排他主義ではないところに注目したい。「天上へなんか行かなくたっていいじゃないか。ぼくたちここで天上よりももっといいとこをこさえなけぁいけないって僕の先生が云ったよ。」と大乗的な立場の考えを述べさせている。厭離穢土、欣求浄土の浄土真宗に対する法華経の現世安穏・後生善処の立場を明確に述べているところだが、決してプロパガンダからきている文章ではないので読者の胸を打つ。

ジョバンニはなんだかわけもわからずににわかにとなりの鳥捕りが気の毒でたまらなくなりました。もうその見ず知らずの鳥捕りのために、ジョバンニの持っているものでも食べるものでもなんでもやってしまいたい、もうこの人のほんとうの幸になるなら自分があの光る天の川の河原に立って百年つづけて立って鳥をとってやってもいいというような気がして、どうしてももう黙っていられなくなりました。

自分があの光る天の川の河原に立って百年つづけて立って鳥をとってやってもいいと述べるジョバンニは救済の憐憫に溢れている。自分だけが天国や解脱することを望まないのだ。

「わたしたちはもうなんにもかなしいことないのです。わたしたちはこんないいとこを旅して、じき神さまのとこへ行きます。そこならもうほんとうに明るくて匂がよくて立派な人たちでいっぱいです。

「ああそうです。ただいちばんのさいわいに至るためにいろいろのかなしみもみんなおぼしめしです。」

じつにそのすきとおった奇麗な風は、ばらの匂でいっぱいでした

宮沢賢治のキリスト教観であり天国観だろう。ここだけ読めば100%賛美している、実際そうなのだろうが宮沢賢治には次の思いも離れない、いや次の思いのほうが重い。

「そうよ。だけどいい虫だわ、お父さん斯う云ったのよ。むかしのバルドラの野原に一ぴきの蝎がいて小さな虫やなんか殺してたべて生きていたんですって。するとある日いたちに見附かって食べられそうになったんですって。さそりは一生けん命遁げて遁げたけどとうとういたちに押おさえられそうになったわ、そのときいきなり前に井戸があってその中に落ちてしまったわ、もうどうしてもあがられないでさそりは溺はじめたのよ。そのときさそりは斯う云ってお祈いのりしたというの、
 ああ、わたしはいままでいくつのものの命をとったかわからない、そしてその私がこんどいたちにとられようとしたときはあんなに一生けん命にげた。それでもとうとうこんなになってしまった。ああなんにもあてにならない。どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちに呉れてやらなかったろう。そしたらいたちも一日生きのびたろうに。どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸のために私のからだをおつかい下さい。って云ったというの。そしたらいつか蝎はじぶんのからだがまっ赤なうつくしい火になって燃えてよるのやみを照らしているのを見たって。いまでも燃えてるってお父さん仰おっしゃったわ。ほんとうにあの火それだわ。」

この子は法華経の捨身飼虎を思わせる思いを述べるが宮沢賢治の思いそのままだろう、そしてこれがあるゆえに浄土真宗を捨て、キリスト教にも100%馴染めず消去法で法華経に帰依したのだろう。

ここで正木晃はキリスト者の内村鑑三が尊敬する日本人として日蓮を挙げている理由はバイブルと法華経にダイレクトに向き合う、つまり帰依することと両者は一神教的だからとも述べている。宮沢賢治は内村鑑三と裏返しの形でおそらく浄土真宗よりもキリスト教に共感を感じていたのではないかと読み取れる。

「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸さいわいのためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない。
「うん。僕だってそうだ。」カムパネルラの眼にはきれいな涙がうかんでいました。
けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。」ジョバンニが云いました。
僕わからない。」カムパネルラがぼんやり云いました。

カムパネルラが「僕わからない。」と言った理由はよくわからない、どんな解釈が成り立つのだろうか。

「僕もうあんな大きな暗やみの中だってこわくない。きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行こう。」

「カムパネルラ、僕たち一緒に行こうねえ。」ジョバンニが斯う云いながらふりかえって見ましたらそのいままでカムパネルラの座っていた席にもうカムパネルラの形は見えずただ黒いびろうどばかりひかっていました。

カムパネルラはジョバンニを置いて一人解脱してしまったのかあるいは輪廻に旅立ったか。次の文章からは憐憫と救済の体現者としてカムパネルラが解脱したことを示唆しているようだ。

「ジョバンニ、カムパネルラが川へはいったよ。」
「どうして、いつ。」
「ザネリがね、舟の上から烏うりのあかりを水の流れる方へ押してやろうとしたんだ。そのとき舟がゆれたもんだから水へ落っこったろう。するとカムパネルラがすぐ飛びこんだんだ。そしてザネリを舟の方へ押してよこした。ザネリはカトウにつかまった。けれどもあとカムパネルラが見えないんだ。」

ここでようやく次のカムパネルラの言葉が理解できることになる。

「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。」ジョバンニが云いました。

「僕わからない。」カムパネルラがぼんやり云いました。

「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。」と頭であれこれ考えるジョバンニも素晴らしいが「僕わからない。」といいながら無意識で他者を救済するカムパネルラも上品(じょうぼん)だといいたかったのではないか。

上品(じょうぼん) 浄土に往生する仕方を上中下の三つにわけたときの、上位の往生。転じて、上等なこと。最高級。

 

その他メモ

雨ニモマケズ 常不軽菩薩がモデル

日本の仏教は寺請け制度と世襲で堕落した。これらこそ小乗仏教である。

宮沢賢治は1927年当時のバリの本を蔵書にもっていたと井上ひさしが伝える。

宮沢賢治「銀河鉄道の夜」とバリ


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