まさおレポート

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マチュピチュ紀行2007年 太陽の神殿

2020-01-02 | 紀行 マチュピチュ・ボリビア・ペルー

2007年3月に訪れたマチュピチュの紀行です。すでに13年が経っているが記憶は鮮明だ。つまりそれだけ印象が深かったということだろう。


インカの謎の都市で金銀が眠るとされる「ビルカバンバ」を探していた1911年、アメリカの歴史学者ハイラム・ビンガムが、「非常に高い山の頂にあり、成功な技術で建造された建物がそびえたつ」という数行の文にヒントを得て、草に覆われた段々畑をよじ登り発見した。

しかしマチュピチュは、探していた謎の都市「ビルカバンバ」ではなかったらしい。その謎の都市は、マチュピチュの西約80kmにあるエスプリトゥパンパというのが定説になっている。

 

出発の朝、大きなトランク2台はホテルに預かってもらい、機内持ち込み用キャリーとリュックだけ持って、いざクスコのサン・ペドロ駅へ。

 バスの中から朝日を浴びるクスコの街並みを眺める。丘の上からなだらかに展開する。 

 朝日が昇り切った瞬間のクスコの街。放射状にのびた雲と街のシルエットの対比に見とれる。

 

こちらがマチュピチュ行きの列車。オリエント・エクスプレスが運営しているせいかスタッフがロングコート着ている。

 

我々の乗る列車はビスタドームで天井に窓がついている。ちなみに特別列車の「ハイラム・ビンガム・トレインは次の駅ボロイから出る。ブランチとカクテルディナー、ロッジでのアフタヌーンティー、マチュピチュ入場券、マチュピチュまでのバスチケット往復がセットになって495USドル。そしてバックパッカークラスは往復68USドルと格安になる。(2007年当時)

 

クスコの市街がよく見える丘を、何度もスイッチバックしながら行く。(スイッチバックとは険しい斜面を登坂・降坂するため、鋭角的に進行方向を転換するジグザグに敷かれた鉄道のこと)

 ウルバンバ渓谷にそって流れる川の下流、クスコから1000メートル下約2500メートルの高地にマチュピチュがある。 ウルバンバ川は急斜面を下るため流れが非常に激しく、濁流になる。列車のなかでもその激流の音が響き続ける。

 

車窓から見える風景が面白くてすべてを撮りたくなるので忙しい。

 

山間の村と背後の高山。

 

クスコから約3時間半後に、マチュピチュ村のアグアス・カリエンテス駅に到着した。標高は2000mとクスコ3500mに比べて約1400m低い。従って呼吸が非常に楽になる。駅に到着すると、案内役がきてツアーに参加する。各ホテルのスタッフが駅前まで荷物の受け取りにきている。

 

マチュピチュの村アリエスカリエンテスとウルバンバ川。ここから山頂へ450m上る。民宿風のホテルが多い。

 

 いよいよバスで出発するが直後に突然バスがストップする。数百トンクラスの巨石が雨で緩んで落石している。こんなものが直撃したらバスでもひとたまりもない。落石もすでになかば成形されていた。さすがインカの民だ、石の加工技術の手際が良い。

ここで注目してほしいのが落石と雨で、この地は雨期になると地盤が緩む。しかしマチュピチュ遺跡は崩壊していない。後で述べる独特の地盤形成技術があったのだ。

 

マチュピチュ遺跡入り口に到着する。マチュピチュの入場券1人40ドル(ちなみにスペインでガウディ建築のアパート50ドル)バス代は片道6ドル。

 

下に見える川沿いがマチュピチュの村で遺跡まで約400mの標高差だ。

 

 ようやくたどり着いたマチュピチュ遺跡を望む。急斜面に石組で土台を築いている。地震対策と土砂崩れの対策が周到に施されている。平らな部分にも5度の角度を持たせ、下部に大きめの石、徐々に石は小さくなり上部には谷の砂を盛るなどの水はけの工夫がしてある。だから雨期でも急斜面が崩壊しないのだ。

下部の大きめの石、徐々に小さな石を敷き詰めるがこれらの石は石切り場で出た半端な石を利用している。

農地は高低差3mの段々畑は40段。それが、階段3000段でつながっている。作物はトウモロコシやジャガイモ、トマト、コカが栽培された。高地の岩から沁み出る湧き水を利用して石の狭いが見事に成形された水路で居住地に引き込まれている。遺跡内には16カ所の水くみ場がある。

下の谷から良質な土を、また海岸部からの海鳥の糞を施して作物を収穫した。運搬には馬や牛がいないのでリャマやアルパカを利用した。棚田のように見える石組で頂上の広場を支えているのがわかる。 

マチュピチュは2、3メートルの高さごとに築かれた石組と総計3000段ある急な石段で足場をキープする。 

 

 この人はマチュピチュの名物ガイド。これから2時間このグループツアーに入って、一通り回る。このガイドは身振り手振りを交えて演劇のような説明でしかも聞きやすい英語だしマチュピチュに関する本までだしてる。今までの各国ガイドの中で一番説明が上手だ。

 

さらに登る。

 

居住区を見下ろす。

 

 岩にはりつくように建てられた民家。簡単な粗い石で組まれているので庶民の家だとされる。 

 石組を横からみると棚の高さは5メートルほどある。この棚で年間2000mmの雨を受けトウモロコシ、ジャガイモや、とうもろこし、キヌア、コカの葉などを栽培した。王族がこの地にやってくるときは最大2000人ほどの住民や周囲の人々集まったという。その食料をこの棚田でまかなったということか。

 

 粗い石で造られた民家の破風部分。精緻に組まれた石組とのあまりの違いに驚く。丸いでっぱりは強い風に耐えるために重くした屋根をロープで結わえるために用いられる。

  民家の一群が見える。この上に植物で屋根を葺いた。

 

 奇妙な形をした岩を取り除くのではなくうまく取り込んで石組を形成していることがわかる。自然な岩と成形された石の融合がマチュピチュの石組の特徴だという。 

花崗岩の 石切り場で持ち主の識別にオレンジのマークをつけられたリャマ。かつてはインカの荷役運搬の主役だった。

ここで ヴィクーニャから金色の糸が紡がれ
  恋びとたちや墓や母親たちを飾り
  王や祈祷帥や戦士たちを飾った ネルーダ

 三つの窓のある神殿。民家の粗い石組とはうって変わってきれいに整形された石。石にも縦と横の方向があり、縦横をうまく組み合わせている。民家と同じ職人が行ったものとはとても思えない。

神聖な広場に面し、主神殿の隣にある。台形の窓が3つあり両端には閉じられた窓が2つある。

マチュ・ピチュの発見者ハイラム・ビンガムがその3つの窓を見て「3つの窓の神殿」と名付けた。

3つの窓は夏至の日の出の位置を完璧に示している。

 

太陽の神殿は半円形を描く建造物。床の中央にはくぼみがあり、大きな窓が2つ。一方の窓からは冬至の朝、もう一方の窓からは夏至の朝に日が差してくぼみを正確に長方形の光が直射する。このことからマチュピチュは太陽神をあがめ、農耕に必要な暦を司っていたと言われる。

  

太陽の神殿 庶民の家の石組みとは雲泥の差。四隅のでっぱりは何だろう。なにかをつなぎとめるようだ。

 最も高所に巨大な一枚岩がある。インティワタナと呼ばれインカの公用語ケチュア語で「インティ」が「太陽」、「ワタナ」が「結ぶ、つなぐ」という意味で、合わせて「太陽をつなぎとめる場所」という意味になる。神官が、太陽が消えないようにつなぎ留めておくための祈りを行ったと伝えら、日時計の役目をする。巨石の磁力のために磁石が南北をささないことを示している。

マチュ・ピチュの都市遺跡の中で最も高い位置に置かれた花崗岩で、その高さは1.8mあり上に35㎝ほど突き出ている。石柱の四つの角は、東西南北を示しており、対角線上を冬至の太陽が通過する。

太陽暦を決める日時計と言われ又生贄の儀式が行われた場所であるとも。いかにもマチュ・ピチュのパワースポットにふさわしい。

石のなかの石よ では人間はどこにいたのか
  大気のなかの大気よ では人間はどこにいたのか
  時間のなかの時間よ では人間はどこにいたのか ネルーダ「第十一の歌」

 

降りるのも怖いほどの急斜面だ。

 

雨期は天気が変わりやすい。雨が降ってきた。

 

どうやって石組を完成させていったのだろう。そのプロセスにとても興味がある。石の成形にはとても時間と労力がかかっている。石のブロックを正確に切り出すためには鉄分を含んだとても硬い隕石のようなものを使う。その硬い石で花崗岩の凸凹を叩いて平らにしていく。そしてエッジはシャープな鋭角を研ぎだす。試みに現代の石工が同じものを作成したら1つ作るのに1週間ほどかかったという。 

広いスペース。王のもろもろの儀式が行われた。


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