夢の中で松下電器の社内でシステムの相談を受けている。社内のデスクにはかつての上司が座っている。どうも出向か転職をしたらしい。大勢の見たことのある顔がそこで働いている。かつての同僚の顔もリアルに見える。課長か部長として責任者の立場にあるらしい。なぜ私がそこに呼ばれて、なぜシステムの相談に乗っているのかわからないが、パナショップの受発注システムを大々的に手直ししたいという相談を松下電器の責任者から受けている。
夢をみている年代の遡り方は熟睡度に比例するようだ。深い眠りほど見る夢は年代をさかのぼる傾向があるように思う。もちろん個人的な傾向だが。
夢は何かのメッセージであるのか、単なる記憶の再整理なのか。記憶の再整理ならばなにも古い夢を見る必要はないようにも思うのだが。何かのメッセージと受け止めるにも、経験的に夢の内容とその後の現実とはあまりにも関係がなさすぎる。
前述の夢もそのパーツパーツは確かに経験したことで、松下電器の仕事に従事したことなどは事実なのだが、記憶の断片が結びついてなにかストーリーらしいものを形成しているようにも見えるものは経験したものではない。いわば夢の創作にあたる。しかしそれもストーリーと呼べるほどの確たる仕上がりを見せていない。ストーリーの種子のようなもの程度の仕上がり具合だ。
別の人生を脳の深部では生き続けていると考えてみる。この非現実の人生はもぐりこんだプレートのように脳の中である種のストレスを引き起こす。現実の生と非現実の生のストーリーのギャップが地層のプレートのずれのように歪を蓄え、一定量になると夢になって噴出すると考えてみる。いわばドリームテクトニクス仮説を思いついた。
してみればこのストレスを溜め続けるプレートの噴出である夢は何らかの対応、はけ口を求めていると考えてもよさそうだ。別のストーリーつまりあったかもしれない人生を物語ってみる欲望と言うのはこんなところから生まれたのかもしれない。物語の誕生と結びつけてみました。