まさおレポート

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紀野一義の研究59 証道歌最終回

2022-02-04 | 紀野一義 仏教研究含む

紀野一義の講演(youtube)メモです。


言葉より沈黙の方がよく伝わる。

言葉は沈黙からきて沈黙に帰る。

騒音は水のように流れてしまう。

人間は目を見るとわかりますね。それよりわかるのは沈黙、さらに沈黙のうしろにほとけがいるのがわかる。


ある僧が「お前は何宗のものか」と問われると魔訶般若波羅蜜だと答える。日本の「わたしは念仏者だ」とこたえる僧にに通じるものがある。何宗とかは関係ない、ただほとけに促されて生きているものという自覚が大事だ。


善悪は実は天もしらない。何が是であり何が非であるかはしらない。

あいてとわたしのあいだに区別をたてない、善と悪とのあいだにも区別をたてない、美しい醜いのあいだにも区別をたてない。

真も妄もするな。いいこともするな、悪いこともするな。これは真か妄かはお前の判断でやるな。ただほとけに押されてやれということ。是と非を超えた世界がある。


樵が山から炭を売りに行った。ある経が聞えてきた。その経はなんの経だと聞くと金剛般若経だと。樵は母に有り金すべてのお金をわたしてこれで暮らしてくれと言い僧門に入る。

僧門では米つきをさせられる。あるとき師から「何か書いて出せ」と言われる。樵は読めないので小僧に読ませてそれで口頭で小僧に書かせた。

樵は名だたる学僧を差し置いて印可を得ることになった。お経を学問として学ぶのと信心は別なんですね。

空について学説が一杯ある。20の空門というのがある。空空、外空、内空とか云々。20もへったくれもないですね。こんな議論をいくらやっても空はわからない。


 

人間が立派になる法は二つある。

積み上げ方式 一つのやりかた。

跳躍方式はあっというまに仏になる。

日蓮上人の手紙は読めば読むほど面白い。原稿用紙3000枚ほど書いてあとはばっさばっさと切ってまとめたものを上梓した。

積み上げ方式と跳躍方式の併用ですね。


悟った後の方がこわいですね。煩悩の火が消されていくと最後は死がある。釈迦は35歳で悟り、80歳まで45年間説いてまわった。


以下証道歌9よりのメモです。

最近の日本人は絶対的な世界を見なくなった。仏教にも抵抗を覚える人が多い。人間中心主義、ヒューマニズム。みんなおんなじ。人間平等主義。

先生はいつまでたっても先生、あいつも人間だからという考えはわたしにはない。間違いだと思う。人間にはあきらかに差がある。

罪は許されるかどうか、これはほとけの判断になる。


ほとけに修行させてもらっている これが本来の修行だろう。これを忘れて修行している人はなんにもならん。

ここにきて話を聞くのはこようと思ったからだが皆さんを動かしているものがほとけではないか。


提婆はキリストのユダのようだが法華経提婆品だけが師であると書いている。提婆は善知識、逆縁の善知識。ああはなりたくない、そう思うのも善知識。

提婆は厳しい戒律を迫る。雨が降ろうが外で寝なさい、家の中で寝てはいけない、金持ちの家に招かれてはいかん、だめだだめだと10か条を出して釈迦に引退を迫る。釈迦は断る。

提婆は教団を作り釈迦の弟子が何百人も提婆について行った。弟子が取り戻しに行く。提婆は新教団で朝から晩まで説教してくたびれ寝てしまった。そのすきに弟子が説得して連れ帰った。

提婆が起きると誰もいなかった。こんどは提婆が山の上から石を転がして釈迦を殺そうとした。釈迦の足に当たって血が出た。

最期は提婆は南無仏といって救われたということになっている。


舎利弗はあんまり頭が良すぎたもので大乗では馬鹿扱いされる。

女性は五障ありで梵天王、帝釈天、魔王、転輪聖王、仏陀になることができない。

日蓮上人は女性の成仏できるのはは法華経だけだといった。本来は女人成仏の女人は女を言わんとしたのではない、人間があっというまに仏になることを指している。女が男にならないと仏にならんなんて馬鹿なことはない。男も変わらなければ成仏できない。男とか女にこだわっていてはいつまでたってもほとけになれない。


足し算

学者はいなけりゃこまりますがいすぎてもだめですね。こんな学説がある、あんな学説があると足し算だから。親が子供に馬鹿にされるのは足し算のせいですね。

引き算

ある時期がきたら引き算をしていく。プラスマイナスゼロではいさようならとなる。引き算をしすぎても人生にマイナスはありませんね。


坊さんの欲。

管長が死んだときにぞろぞろ坊さんが名乗りをあげますね。血脈を遺言されたとか。お坊さんに徹するとそんな名乗りは上げませんね。本来はそんなものにはならないと断る。


自分の救済しか考えていないものは一生懸命努力はするが道心というものがない。慈悲心というものがない。道心とはいかされているという感謝の念。

聡明にして知恵をもたない。いかされている感謝の念がない。


お経のことばの解釈ばかりして何を言おうとしているのがわからない。例えば色即是空をいくら勉強しても空とは何ぞや、生かされているのは空から始まるということがわからなければなんにもならない。


みるものきくものすべて法華経とならねば。

死ぬと朝比奈老師に導師 奥さんがカソリック 導師のあとで「カソリックなんかは」「いわない方がいいとおもいます」「そうかそうか 親切にありがとう」「またやっちゃった」朝比奈老師はカソリックも仏教だと思ってる。 


三好達治

冬の日

冬の日 しづかに泪なみだをながしぬ
泪をながせば
山のかたちさへ冴え冴えと澄み
空はさ青に
小さき雲の流れたり
音もなく
人はみなたつきのかたにいそしむを
われが上にも
よきいとなみのあれかしと
かくは願ひ
わが泪ひとりぬぐはれぬ
今は世に
おしなべて
いちじるしきものなく――


生まれてきたときに業をもっている。業はなかなか落とせない、引き算で落とす。日蓮上人は立派な人だったので自分の業をわかっていたらしい。前世で法華経の行者を迫害したらしい、この世で仇をなしている人を激しく攻撃する。殺されかけたり流罪されたり15年苦しんで、佐渡から帰って来た時にこれで業は償えると書いている。

わたしたちはそうはいかない。

正しいことをしていてもも苦しむときは業が償われている。

それがどうしても納得いかないとなれば引き算は完了しない。


欲界、色界、無色界の世界にあって欲を忘れたことをするとすれば仏知見に従っていることになる。

日蓮上人は自らを悪いもの、似非ものであるけれど法華経は素晴らしいので自分はすばらしいと。

親鸞上人は自らを凡愚といっている。


けちなひとほど立派な人が来てくれる。素晴らしい人をつかまえなければいけない。


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