紀野一義の講演(youtube)メモです。
雪山はヒマラヤだが涅槃、仏の譬喩として使われる。
岡潔は自然数の1についてそれが証明されたら、わかったらノーベル賞ものだと。いまだに納得がいかないですけどね。
命の底に仏性 天才的な絵、音楽など。醍醐を自分の中に収めて持っている。我々は常にそれを持っている。
秋月龍珉に「紀野さんはどんな風に話をするのか」と尋ねられて、わたしは少しの話(仏性)しかしないと答えた。
融通念仏宗良忍は一人一切人 一切人一人 一行一切行 一切行一行と。
一行とは自分の真理 題目を唱えること、念仏を唱えること。
一人とはただ一人ほとけを信じること、それから多くの人を愛することになる。最初の一人はほとけで。
水月観音 視線の先に月はない。わたしの思いでは月を見ていると間違いではないか。
月を指す指につかまってはいけないのだ。水月なんかには本当の月はない。
日蓮上人のことを海の思想家と呼んでいます。親鸞上人と道元上人は山の思想家というべきか。
しかしひとりの人が手紙を書いてきた。親鸞上人を山の思想家は納得だが越後の海岸を見て海から大きな影響を受けている。海を見ていなかったら愛欲の広海はでてこない。それもなるほど。
弘法大使は中国に渡る前においてきぼりをされていた。そのときに日本中を遍歴されて特に土佐の海から大きな影響を受けている。
水月の月は水が無いところでは役に立たない。水に映った月などみていない。
まったく違う考え方も大事にしなければいけない。
お念仏の信者は日蓮上人をもっと大事にしなければいけない。お題目の信者は親鸞上人をもっと大事にしなければいけない。
松下幸之助は朝と晩にけじめをつける。人間にはけじめということが大切だ。朝は仏壇に手を合わせる。夜はお休みの前にも。自分の売った製品が役に立っているかどうかを執念深く考える。外国にまでも気を使って役に立っているだろうかと考える。
人間は80歳くらいになれば淋しい、淋しくないはずはない。粟粒みたいな人生だから。一日一日が大切になる。一日一日いいことをするのが最高ですがいいことでなくてもよい。なにかを決めてやることが淋しさを振り払うためには大事だ。
正月三日の講演に来て、水の中に月はないなんて変な話を聞いた。それで一日が充足している、それを繰り返す、淋しさを振り払うためにはそれしかない。
天台の十界互具と一念三千は非常に大事な考えであり西洋人にはない考えですね。
地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天の六道輪廻と声聞、縁覚、菩薩、仏、で十界がある。
ほとけの中にも地獄や畜生がある。もしそれがないとすればほとけは地獄の衆生を救うことができない。
十一面観音の真後ろにある顔が暴悪大笑面です。
地獄に徹すればほとけになれる道もある。「これでいいのだろうか」の一点があるから脱出でき仏になる。
適当にやっていても月給だけはくれる。それでいいと思っている人はそれで終わる。現代の六道輪廻だ。
いつまでたっても悟れない人は「これでいいのだろうか」と考えない人であり、地獄にいても声聞、縁覚に抜けていくことができる。この一点が大事。
勉強したら悟れるというわけにはいかない。しかし心によって得られるというもの間違い。刹那に滅却して悟るという世界がある。一句一偈でも悟ることができる。
お経で変わったのではない、一句一偈で変わったという話はこの世にはたくさんある。
そんなものはあるわけがない。
鈴木大拙は「日本的霊性」で一句一偈でわが霊格を表現するものではないという。一句一偈は表現に過ぎない。しかし大事な点は一句一偈を否定しているのではない。トリガーになることとわが霊格を表現するものとは違うということを言っている。
いずれにせよ何かにこだわったら本来のさとりは死んでしまう。つかまえたと思ったらだめでこだわらんようにせよ。
われわれはろくでもない人間だが仏性はある、仏性を求れば得られない。なぜならば求めると言うことは自己とは別のもを追いかけることであり本来ほとけと我は一つのものだから追いかけても得られない。
捕まえても捕まえたと思わない。不可得でありながらつかまえる。
このようなもの あのようなもの、それは違う。あれとも違うとしか表現できない。だから如という。
信心が決定した時にほぼ往生する。死ぬときに完全に往生する。
おかしい時に笑わない人間、悲しい時に泣かない人間は外れている。誰からも好かれない。一緒にご飯食べても楽しくない。こういう人にさとりなんてないですよ。
げらげらとみんなで笑う、泣く、そんなときに考えてみる。自己に 変化が起きることが大事。本願力が動かしているかどうかが大事。
泣いて泣いてそのうち笑い出す。頭がおかしくなったわけではない。本願力が動かしている。
あるときは強くなりあるときは弱くなることが大事だ。