まさおレポート

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作成途上めも

2024-05-27 | AIの先にあるもの
人類が単一のデータ処理システムだとしたら、このシステムはいったい何を出力するのだろう?データ至上主義者なら、その出力とは、「すべてのモノのインターネット」と呼ばれる、新しい、さらに効率的なデータ処理システムの創造だと言うだろう。この任務が達成されたなら、ホモ・サピエンスは消滅する。
 

人類が究極的に高度なデータ処理システムを作り上げ、それが完成すると人類自体が不要になり消滅するという恐ろしい考えを提示している。


情報の自由は人間に与えられるのではない。情報に与えられるのだ。しかもこの新しい価値は、人間に与えられている従来の表現の自由を侵害するかもしれない。「情報の自由は人間に与えられるのではない。情報に与えられるのだ。」

情報の自由を重視する新しい価値観が生まれ、人間の表現の自由が制限される可能性がある。情報が自由であることが優先される結果、人間が自分の意見や情報の流れをコントロールする権利が侵害されるかもしれない懸念を示している。

 

宗教とイデオロギーはつねに、この世での存在以上のものを神聖視し、死に対して寛容だった。

キリスト教とイスラム教とヒンドゥー教は、私たちの人生の意味はあの世でどのような運命を迎えるかで決まると断言していた。現代の科学と文化は死が生の意味の源泉であると見なすことは断じてない。

人間至上主義という宗教は、人間性を崇拝し、キリスト教とイスラム教で神が、仏教と道教で自然の摂理がそれぞれ演じた役割を、人間性が果たすものと考える。

今日は、神の存在を信じないことはたやすい。仮に私が神を信じていたら、そうするのは私の選択だ。どちらにしても、権威の本当の源泉は私自身の感情だ。

 

 

「人間至上主義」は、ヒューマニズムと似ていますが、いくつかの重要な違いもあります。それぞれの概念をもう少し詳しく見てみましょう。

ヒューマニズムとは

ヒューマニズム(Humanism)は、人間の価値、尊厳、可能性を重視する思想です。以下のような特徴があります:

  • 人間中心主義: 人間の理性、倫理、創造性を強調し、科学や教育を通じて人類の幸福を追求する。
  • 世俗主義: 宗教的な権威よりも人間自身の判断や経験を重視する。
  • 人権と自由: 個人の自由と権利を尊重し、全ての人々の平等を追求する。

人間至上主義との違い

一方、文章で述べられている「人間至上主義」は、特定の宗教的役割を人間性が果たすものと見なす点で、ヒューマニズムと重なる部分がありますが、以下の点で異なることが示唆されています:

  • 人間性の神格化: ヒューマニズムが人間の価値を重視するのに対し、人間至上主義は人間性自体を崇拝の対象とするようなニュアンスがあります。これは、従来の宗教が神や自然の摂理に与えていた役割を人間性が担うという考え方です。
  • 宗教との対比: 人間至上主義は、特にキリスト教、イスラム教、仏教、道教といった従来の宗教の役割を人間性が果たすものと見なし、これらの宗教と直接的に対立する立場を取るようです。

ヒューマニズムと人間至上主義は、いずれも人間の価値を重視する思想ですが、人間至上主義はより極端に人間性を崇拝する点で異なる。ヒューマニズムが人間の理性と倫理を重視し、宗教的権威からの解放を目指す一方、人間至上主義は人間性自体を神格化するような立場を取ります。「人間至上主義」は、従来の宗教的価値観を置き換え、権威の源泉を個人の感情に見出す点で、ヒューマニズムよりもさらに人間を中心に据えた思想といえる

「カラマーゾフの兄弟」のイワン・カラマーゾフの立場と、先に述べた「人間至上主義」についての懸念は、いくつかの点で共通しています。イワンの立場は、特に無神論と道徳に関する彼の哲学が中心となっています。以下にそれを詳しく説明します。

イワン・カラマーゾフの立場

  1. 無神論と道徳

    • イワン・カラマーゾフは無神論者であり、神の存在を否定しています。彼の有名な言葉「もし神がいなければ、すべてが許される」は、神が存在しないならば、人間には絶対的な道徳律がないことを示唆しています。
  2. 人間の自由と責任

    • イワンは、人間が神から解放されて完全な自由を持つべきだと考えています。しかし、その自由は同時に人間に大きな責任をもたらし、倫理や道徳の基準を自ら定めなければならないという課題を含んでいます。
  3. 存在の虚無感

    • イワンはまた、神の不在がもたらす虚無感や道徳的混乱についても考えています。神を信じないことで、人生の目的や意味を見失い、存在の空虚さに悩むことになります。

人間至上主義との共通点

  1. 権威の源泉の内面化

    • 「人間至上主義」においても、権威の源泉が外部の神ではなく、個人の感情にあるとされています。これは、イワンの考えと同様に、道徳や倫理の基準が人間の内面に基づくという立場です。
  2. 宗教の否定

    • 人間至上主義は従来の宗教的価値観を否定し、人間性を中心に据えます。イワンも同様に、神の存在を否定し、宗教的道徳律を超越しようとします。
  3. リスクと懸念

    • 両者ともに、神を否定することがもたらす道徳的混乱や無秩序のリスクを含んでいます。人間至上主義が人類の未来に破滅をもたらす可能性を懸念する点は、イワンが神の不在が道徳的虚無をもたらす可能性を懸念する点と重なります。
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宗教とイデオロギーはつねに、この世での存在以上のものを神聖視し、死に対して寛容だった。

キリスト教とイスラム教とヒンドゥー教は、私たちの人生の意味はあの世でどのような運命を迎えるかで決まると断言していた。現代の科学と文化は死が生の意味の源泉であると見なすことは断じてない。

人間至上主義という宗教は、人間性を崇拝し、キリスト教とイスラム教で神が、仏教と道教で自然の摂理がそれぞれ演じた役割を、人間性が果たすものと考える。

今日は、神の存在を信じないことはたやすい。仮に私が神を信じていたら、そうするのは私の選択だ。どちらにしても、権威の本当の源泉は私自身の感情だ。

 

 

 


「私は戦うことを選びます」。ティール。

社会経済的な平等は流行後れ。 人間は二三〇〇年までに死に打ち勝つと考える専門家も

老年学者のオーブリー・デグレイと発明家 レイ・カーツワイル

カーツワイルは二〇一二年に、グーグルのエンジニアリング部門ディレクターに任命され、グーグルはその一年後、「死を解決すること」を使命として表明するキャリコという子会社を設 立した。グーグルは二〇〇九年にも、やはり不死の実現を心から信じるル・マリスを、投資ファンドのグーグル・ ベンチャーズのCEOとして採用した。

グーグ ル・ベンチャーズは二〇億ドルのポートフォリオの三六パーセントを生命科学のスタートアップ企業に投資している。

世界人権宣言にはいかなる人間にも生命に対 する権利がある、と書いてあるだけだ。死を免れえない私たちとは違い、 彼らの人生には有効期限はない。

爆弾で体を木っ扇散期にされたり、トラックにひかれたりしないかぎり、彼らはいつまでも生きていられる。彼らは史上最も不安な人々となるだろう。

私たちは、日々、命の危険を冒している。どのみちいつか命が終わることを承知しているからだ。だから私たちはヒマラヤ山に登りに行く、無限の人生をそんなことに賭けるのは馬鹿げている。

子育てに費やした年月ははるか昔の思い出と化し、長い人生におけるかなり小さなエピソードにすぎなくなる。

人々はこれまでよりもずっと長いキャリアを通るので、 たとえ九〇歳になっても、自分や生活や働き方を何度となく一新しなければならない。

グーグルのキャリコは今より有利な新しい位置から、死への攻撃を始められるはずだ。

 

一九〇〇年には、世界の平均寿命は四○年にすぎなかったが飢饉や疫病や職争を免れた人は、優に七 ○代、八〇代まで生きられた。ガリレイは七七歲、アイザック・ニュートンは八四歳、ミケランジェロは八八歳の高齢まで生きている。

現代の医学はこれまで私たちの自然な寿命を一年たりとも延ばしてはいない。

 

近代に入るまで、ほとんどの文化では、人間は何らかの宇宙の構想の中で役割を担っていると信じられていた。現代の文化は、宇宙の構想をこのように信じることを拒む。人生には意味もない。
だから、何でも好きなことができる。私たちを束縛するものは、自らの無知以外、何一つない

世界は決まった大きさのパイであるという伝統的な見方は、世界には原材料とエネルギーという二種類の資源しかないことを前提としている。だがじつは、資源には三種類ある。原材料とエネルギーと知識だ。

人類は同時に二つのレースで走り続ける羽目になっていた。環境を保護するというのはじつに素晴らしい考えだが、家賃が払えない人々は、氷が解けることよりも借金のほうをよほど心配する。

世界の法と秩序にとって最大の脅威は、神の存在を信じ、すべてを網羅する神の構想を信じ続けている人にほかならない。神を恐れるシリアのほうが、非宗教的なオランダよりもはるかに暴力的な場所だ。

人間至上主義という宗教は、人間性を崇拝し、キリスト教とイスラム教で神が、仏教と道教で自然の摂理がそれぞれ演じた役割を、人間性が果たすものと考える。

今日は、神の存在を信じないことはたやすい。仮に私が神を信じていたら、そうするのは私の選択だ。どちらにしても、権威の本当の源泉は私自身の感情だ。

 

知識=経験x感性

中世ヨーロッパでは、知識=聖書x論理、科学では、知識=観察に基づくデータx数字

人間至上主義の人生における最高の目的は知識をめいっぱい深めることだ。人生に頂点は一つしかない。人間的なものをすべて味わい尽くしたときだ

人間至上主義は三つの主要な宗派に分かれた。正統派の人間至上主義では政治でも経済でも芸術でも、個人の自由意志は国益や宗教の教義よりもはるかに大きな重みを持つべきだ(自由主義)

自由主義は社会主義的な人間至上主義と、ナチスを最も有名な提唱者とする進化論的な人間至上主義に。自由主義の政治では有権者がいちばんよく知っており、自由主義の経済では顧客がつねに正しいのに対して、社会主義の政治では党がいちばんよく知っており、社会主義の経済では職種別組合がつねに正しい。

進化論的な人間至上主義は近代以降の文化の形成で重要な役割を演じたし、二十一世紀を形作る上で、なおさら大きな役割を果たす可能性が高い。

SF映画はたいてい、人間の知能と肩を並べたりそれを超えたりするためには、コンピューターは意識を発達させなければならないと決めてかかっている。だが、現実の科学はそれとは大違いだ。知能と意識ではどちらのほうが本当に重要なのか?

もし人間にタクシーだけでなくあらゆる乗り物の運転を禁じ、コンピューターアルゴリズムに交通を独占させたなら、すべての乗り物を単一のネットワークに接続し、それによって自動車事故が起こる可能性を大幅に減らせるだろう。

やがてテクノロジーが途方もない豊かさをもたらし、そうした無用の大衆がたとえまったく努力をしなくても、おそらく食べ物や支援を受けられるようになるだろう。

だが、彼らには何をやらせて満足させておけばいいのか?人は何かをする必要がある。することがないと、頭がおかしくなる。彼らは一日中、何をすればいいのか?薬物とコンピューターゲームというのが一つの答えかもしれない


ある企業が人工のスーパーインテリジェンスの第1号を設計し、円周率の計算のような無害の試験を行う。ところが、誰も事態を把握しないうちに、そのAIが地球を乗っ取って、人類を皆殺しにし、銀河の果てまで征服に乗り出して、基地の宇宙全体を巨大なスーパーコンピューターに変え、そのコンピューターがかつてないほど高い精度を追い求めて際限なく円周率を計算し続ける。なにしろそれが、自分の創造主によって与えられた神聖な使命なのだから。

遺伝子技術が日常生活に組み込まれ、人々が自分のDNAと次第に緊密な関係を育むにつれ、単一の自己というものはなおいっそう曖昧になる

国民保健サービスの本部で誰かがそのデータを、他の何千もの医師から流れてくる報告と合わせて分析し、インフルエンザが流行しかけていると結論する。それまでには、たっぷり時間がかかる
グーグルなら、もの数分でやってのけられる。ロンドンの住民がメールやグーグルの検索エンジンに打ち込む単語をモニターし、それを病気の症状のデータベースと照合するだけでいい

もし自分に代わって投票する権限をグーグルに与えていたら、そんな事態(選挙活動で有権者を洗脳するような候補者を選んでしまうという愚行)は避けられただろう

この展開に恐れをなしている人もたしかにいるが、無数の人がそれを望んで受け容れているというのが現実だ。すでに今日、大勢の人が自分のプライバシーや個人性を放棄し、生活の多くをオンラインで送り、あらゆる行動を記録し、たとえ数分でもネットへの接続が遮断されればヒステリーを起こす

匂いを嗅いだり、注意を払ったり、夢を見たりする能力が衰えたせいで、私たちの人生は貧しく味気ないものになったのだろうか?そうかもしれない。だが、たとえそうだとしても、経済と政治の制度にとってはは十分価値があった。
私たちは首尾良く体や脳をアップグレードすることができるかもしれないが、その過程で心を失いかねない。テクノ人間至上主義は人間をダウングレードすることになるかもしれない

最も興味深い新興宗教はデータ至上主義で、この宗教は神も人間も崇めることはなく、データを崇拝する。

チャールズ・ダーウィンが種の起源を出版して以来の150年間に、生命科学では生き物を生化学的アルゴリズムと考えるようになった。それとともに、アラン・チューリングがチューリングマシンの発想を形にしてからの80年間に、コンピューター科学者はしだいに高性能の電子工学的アルゴリズムを設計できるようになった。
データ主義はこれら二つをまとめ、まったく同じ数学的法則が生化学的アルゴリズムにも電子工学的アルゴリズムにも当てはまることを指摘する。

自由市場資本主義と国家統制下にある共産主義は、競合するイデオロギーでも倫理上の教義でも政治制度でもないことになる。本質的には、競合するデータ処理システムなのだ。資本主義が分散処理を利用するのに対して、共産主義は集中処理に依存する

NSA(国家安全保障局)は私たちの会話や文書をすべて監視しているかもしれないが、この国の外交政策が繰り返し失敗していることから判断すると、ワシントンにいる人は集めた膨大なデータをどうすればよいのかわかっていない。

人類が単一のデータ処理システムだとしたら、このシステムはいったい何を出力するのだろう?データ至上主義者なら、その出力とは、「すべてのモノのインターネット」と呼ばれる、新しい、さらに効率的なデータ処理システムの創造だと言うだろう。この任務が達成されたなら、ホモ・サピエンスは消滅する。


情報の自由は人間に与えられるのではない。情報に与えられるのだ。しかもこの新しい価値は、人間に与えられている従来の表現の自由を侵害するかもしれない。

 


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