2005年の秋も深まった頃、私は新橋の烏森通りから少し入った小振りなふぐ料理屋[ふぐ一」の一室で総務省の鶴本課長と酒を呑んでいた。4年勤めたソフトバンクを退職するのでその送別会に二人だけの宴を自腹を切ってはってくれたのだ。この役人は身辺と金にみぎれいな人で信頼しており、気の置けない間柄と言っていい。席は一応個室ではあるのだがものすごく狭い部屋だ。周りから顔が見えないだけが取り柄の部屋と言っていい。私の席の横には新橋駅ビルの前の古書市で買ったハードカバーが3冊おいてある。文藝春秋社が随分前に出版した「世界の都市」シリーズで自宅の書棚に欠けている都市の分を買いそろえたのだ。
「これからどうするのですか」
「世界の行ってみたい都市を回ってみようと思っています。東南アジアから始めてヨーロッパ、アフリカを巡り最後は南米に行ければと思っていますが。世界遺産巡りが中心になりますかね。」
ふぐ刺しを食べ終わるころには通信業界の動向に話が移っていった。光ファイバーの開放と接続の問題や電柱共同利用の話など、当時問題になっている諸々の話題で時間が過ぎていったが、ふとした拍子にNTT労働組合の委員長を辞職した津田さんが話題に上がった。ネットで見た記事で彼がNTT労連委員長を辞めたことは知っていたが唐突な感がし、そのあたりの詳しい事情を全く知らなかったので気になっていたのだ。
「そういえば津田さんは組合の委員長を辞めたのですね。いさぎよい辞め方で、すがすがしいですね」と出されたばかりのふぐの唐揚げを口にしながら当時の素直な感想を述べた。
「委員長を辞めてからはどこかの大学に通われているみたいですよ。気楽に」彼の応える口ぶりにはどことなく津田さんの辞職に対する不満の気配が漂っていた。「もう少し、やることをやってから辞めてほしかったが」とも付け加えた。何か事情を知ってそうな気配はあったが彼もなんでもしゃべれる立場ではない。私は遠慮してその先の質問を差し控えた。
私がNTTに在職していた当時は全電通と呼ばれ、27万人の組合員を擁する日本最大規模の単一労働組合として、日本の労働運動や社会党を通じて政界に大きな力をもって存在していた。歴代の委員長は及川・山岸と続いてきており、かれらは労組のトップを退いた後も参議院議員や政治評論家として発言力を持ち続けた。当然津田さんもそういう道を選ぶのだろうと漠然と思っていたが、一切そういう関わりを切って勉学の道を選んだという。それ故、勝手に「すがすがしい人生観だ」と思いこんでいたのだが、どうもそうではないらしい。
「津田さんと個人的に知り合いなのですか。」と鶴本課長が訪ねる。
「いいえ、個人的に知り合いという訳ではありません。昔NTTデータがデータ通信本部、デ本と呼ばれていた頃、17森ビルに本部があり、そこには全電通データ通信本部分会がありました。彼は確かその分会の分会長か書記長をしていましたね。オルグと称する組合活動が3月に一度くらいあり、そこで彼はよく挨拶や現状報告などをしていたので、年齢が近いこともあり印象に残っているだけです。」すでに日本酒は相当飲んでおり、ビールに再び戻っていた。
私自身は組合活動にはほとんど興味を持たなかったが、その頃の一年先輩の同僚に組合活動に熱心な男、梶本さんがいて彼を通じてたまに組合幹部の動向が耳に入ってきた。その後彼との音信も途絶え、全電通の中央の消息も遠のいていった。私も転職し、組合の事は長い間、頭の片隅にも上ってこなかった。ある日何かのニュースで津田さんが全電通の委員長になっていることを知った。デ本分会のころから既に30年は優に経っている。その年月と当時の17森ビル地下食堂でのオルグの様子などの記憶を呼び覚まし、時の移ろいに軽い感慨を覚えた。
やがてふぐ雑炊が出てきた頃には話題はお互いの家庭のことなどに移っていた。すっかりいい気分になって帰途につく頃には鶴本課長がいった「もう少し、やることをやってから辞めてほしかったが」の言葉もどこかにいってしまっていた。帰途の小田急線は相変わらず通勤帰りやほろ酔いの人々でぎっしりだった。つり革に捕まりながら、「もうこれからは通勤地獄ともおさらばできるな」などと思っていた。
それから1年後の2006年も押し迫ってきた頃私は約1年のアジアやヨーロッパ、モロッコ漫遊を経てバリ島のスミニアックにビラを借りて長期逗留をしていた。このビラはスミニアック通りからほんの少し路地を入ったところにある。通りは車とバイクの往来が激しくて、夜も遅くまで人通りが絶えない。すぐそばには日本料理店「漁師」があり、手頃な値段で刺身が食べられるし、2,3分で巨大スーパー「ビンタン」にも行ける。ほんの少し通りから外れているだけでそのビラは静謐が保たれている。12月になるというのにブーゲンビリアは鮮やかな花を咲かせている。マンゴーがたわわになり、椰子の木の上には底抜けの青空に白い雲が浮かぶ。眼前にはプールが陽光をきらめかせている。
「オッホー オッホー オッホー」とひっきりなしに甲高い大きな声が聞こえてくる。又ビラの隣室の住人が赤ん坊をあやしている。普通の大きさの声ならほほえましいのだがとにかく野太く大きな声なのだ。
「なんとかならないものかな」と連れ合いに言う。彼女もかなりいらいらしているが、なにせ子連れにはちょっと文句を言いにくい。
隣室には生後1年にも満たない子供ずれのフランス人一家が祖父母、カップル、孫と大世帯で滞在している。子連れのカップルの旦那は入れ墨にピアスで、奥さんも極端に愛想が悪い。しかしこの点を除けば快適なビラだ。
プールサイドでパソコンを置きネットで調べ物をしているとビラのオーナーのエリックがやってきた。
「どうだ、株は儲かるのか」「まあまあだね」
「私の知り合いは株で失敗して大損をした。私は怖くてできないが、おまえは大丈夫か」「過去のデータを分析して、うまくいきそうなパターンを見つけたので、そのデータを根拠に取引している」「私はパソコンが使えないのでだめだね。こんど米国に留学している息子がここに帰ってくる。是非息子にそのノウハウを教えてやってくれ」「オーケー、教えてあげるよ」
朝方はネットで株式の取引を眺め、取引をして午後は泳ぎ、散歩に出かけるという生活をしばらく続けていた。そのうち私が開発したソフトによる株の取引は、半年ばかりの結果を集計してみると損得なしつまり現状のままではそんなに有能ではないということが分かった。つまり未完成だということで、労多くして益いまだ少なし、しばらくお休みにすることにした。
そうなると朝方の時間はもてあますことになる。ソフトバンク時代の通信政策にからむ話を整理して書いてみようと思いたった。
「バリのネットは遅いね。これで日本より通信費用が高いのだからな。」
「それでもネットができるだけありがたいと思わなきゃ」と連れ合いが言う。
「だってエンターキーやクリックを押してから画面がでるまでは結構いらいらでストレスがたまるよ」
それでもバリの太陽の下、木陰でネットができるのはやはり気持ちの良いことだ。贅沢をいえた義理ではないねと自分に言い聞かしながら、検索を続けていると、例の津田委員長をキーワードにした検索で以下の記事が飛び込んできた。
2000.12.15 読売新聞(朝刊)
情報労連6千人分の年金共済3百億を無断解約 運用失敗 回収滞る 東邦生命と覚書 戻ったのは85億 のみ
情報産業労働組合連合会(情報労連、津田淳二郎委員長、約二十七万人)傘下のNTT労組組合員らが加入する年金共済の保険料約六千人分、約三百億円が加入者に無断で解約され、商品先物取引などに投資されていたことが十四日、読売新聞社の調べでわかった。解約金は五年間、大手投資会社で運用し、積立先の東邦生命保険(昨年六月破たん、GEエジソン生命に事業譲渡)に戻される約束だったが、解約から七年たった現在も大半の回収が滞っている。情報労連側は、別の金融機関から三百億円近くの融資を受けて一時的に積み立ての穴埋めをしている。
そうか彼の突然とも思える辞任はこのことと関係があるのかもしれないな。
津田さんの辞任の事実を知った2004年時点では全く別のストーリーが頭の中に浮かんだ。私と同じ職場に元NTTの平山さんがいる。昼食時にソフトバンクの社員食堂で焼き魚定食を食べながらその事実を語った。汐留の新築ビルに移ってきて26階には立派な社員食堂ができた。ここの焼き魚が好きで毎日のように食べている。
「平山さん、津田さんが情報労連の委員長を辞めたことは知っている。」
「いや、全く知らないよ。彼が委員長になったことは知っていたけど」
「ネットで見ると今は違う人が委員長になっているよ」
「どうして辞めたのかな」
「それはきっとNTTリストラの責任を感じての上のことだろうね」
「そうかもしれないね」と平山さんは答えた。
NTT労働組合は2001年に組合員11万名を対象とし、子会社移籍と賃金30%カットを柱とする大リストラ計画を受け入れていた。今までの全電通をある程度見てきた私にはこれは相当な決断に思われた。さぞ組合員の突き上げはきつかっただろう。全電通時代以来でもっともつらい仕事を引き受けたのだろうと心中ひそかに推測し同情にちかいものを感じていた。
「他の企業ではとうの昔に実行してきたことだと思うよ。だぶついた社員の給料は他社への接続料金に上乗せさせられているんやからな」と平山さんはもっともな意見を述べた。この意見は新電電が発足した1990年頃から言われ続けている。当時のNTT社長宮津さんもある会合で「団塊の世代の退職がすすめばNTTは身軽になる。それまではなんとしてでも彼らの飯を食わせねば」などと講演で話すのを聞いたことがある。
2000年12月15日付けの読売新聞記事ではさらに次のような詳細が書かれていた。
1.組合員6000名の共済年金預かり金300億円を年利5%の保証で5年間の期限で東邦生命に先物取引や商品ファンドでの運用を委託した。これは情報労連生命共済理事長の独断行為だとある。
2.これがなぜか先物取引会社、東京ゼネラルに運用を一任し、その運用に失敗して300億円は85億円に目減りした。
3.東邦生命は金利の逆ざや現象で経営破綻し、それをきっかけに情報労連共済は預け金引き上げを要求し、資金回収ができないことを知った。情報労連=NTT労働組合は300億円を借り受け手当した。
情報労連生命共済理事長の独断行為として片付けられ、問題はリクルート事件のように大きくはならなかった。この事件の発端は山岸元委員長にまで遡り、当時の理事長が無断で山岸氏の印鑑をついたというのだ。これも一般企業の感覚からはにわかには信じられない。山岸氏には特におとがめなしのようであった。
ランチをしながらビラの女主人ピピと私の連れ合い二人に、ネットで読んだばかりの記事の話をした。もとよりピピに日本の労働組合の事情が分かるはずもないが、まあ食事時の話題提供だ。
「一番いけないのはヤマギシよね」とピピは言った。
「だって、彼は無断で印鑑を使われたのだよ」と私は少し反論してみる。
「私にも似たような経験があるわ。印鑑ではないけど、信頼していたマネージャにビラのお金をごまかされていたの。お客の数を少なくして差額を自分のポケットに入れていたのを気づいた時は既に遅かった。200万円ほど被害を被ったわ」
「それで警察には行かなかったの」と連れ合いがピピに聞いた。
「お金が返ってくるわけでもないし、そんなことをしても無駄よ。家族にお金が必要だったのだと泣いて謝られて、首にしてそれで終わりよ。」
彼女は自分の身を山岸氏に置き比べてみて、「ヤマギシ氏に非がある」と判断した。ヤマギシ氏はこの場合ピピなのだが、管理し切れていなかった自分が悪いと明快に判断している。200万円というこの国ではかなりな大金も失っているにもかかわらず。私はなるほど岡目八目とはよく言ったものだ、こうして全く関係の無い人の方が直感的に正しい判断をしているなと思った。
プールに浮かんで空を眺めていると「それにしても、生命共済の理事長が300億円ものお金を東京ゼネラルあるいは東邦生命の重役にそそのかされたとは言え、独断で運用しようとするものかねえ。」と連れ合いが先ほどの話の続きを話し始めた。「何かで出した数十億の穴を埋めようとしたらしい。それも別に理事長の過失というわけでもなさそうな穴を」「責任感からかねえ」「単なる責任感からそんな巨額の金を東邦生命に回すのは腑に落ちないねえ。自分には一銭の得にもならないことするはずがないよ。東邦生命からさらに東京ゼネラルという先物取り扱い会社に運用を再依頼しているのも不自然だね」と私は連れ合いに感想を述べる。もうこのあたりで話に飽きたのか、連れ合いは泳いで別の日陰の方に行ったしまった。
東邦生命から5,6年も以前に「重要書類」と表面に印刷された郵便物が届いたことを思い出した。私もNTT時代に東邦生命の生命共済に加入していた。入院保険もセットでついており、長期にわたって加入していた。サラリーマン時代に合計三回ほど入院したがその都度入院保険が迅速に出て助かった記憶がある。突然の封書になんだろうと開封するとエジソン生命に譲渡する旨が記されており、入院保障などの条件も少しばかり悪くなっていた。そのときは深く考えもせず新会社に移行する書類にサインをして提出した。エジソン生命への移行を東邦生命の倒産によるものとは全く考えが及ばなかった。つまりこの移行は事件と関係があったのだと知った。
ある日の朝、ビラのオーナー・ピピがビーチに散歩に行こうと誘った。昨日ランチの時に話した日本の労働組合の話を再開した。ピピは日本の労働組合のイメージをどんな風にとらえているのか全く分からないが、とにかく昨日のランチの話に興味を持ったらしい。
「組合は会社じゃないのにどうして300億円もの大金を自由に扱えるのか。」
「それは20万人も組合員がいれば組合費だけでも相当なものだよ。私も長い間組合費を納めていたけど、確か毎月2000円程度払っていた記憶があるよ。」
2000円だとして20万人では年間50億円近い金が集まることになる。これが毎年毎年プールされていくわけだから、長い間には巨額の金をプールできる仕掛けだと説明した。いちいちルピアに換算してやらないといけないので計算が大変だ。
「マサオ、そんな大金を誰もチェックしていないのか」とピピは次の質問をしてくる。
「株式会社組織なら会計事務所のチェックも入るし、株主の目もある。もちろん不祥事はいつの時代にもあるが一応チェック機能は働くようになっている。しかし労働組合や宗教団体などは内部でチェックをするだけだからこんな問題もなかなか表面化しない。」
今回もたまたま東邦生命の破綻という事件があったので表面化した。もしも東邦生命が存続し続けていたら事件は闇から闇に葬られていたことになるだろうと説明した。ピピは日本の事情などなにも分かっていない。ただ自分のビラ経営での失敗談から興味を持っているのだろう。
私が知っている労働組合といっても全電通しか知らないのだが、その知識はいくつかの経験談をつなぎ合わせた程度の狭い範囲でしかない。従って誤解と偏見に満ちていると見えるかもしれないが、私がピピと連れ合いに、ビーチを前にして朝の光を浴びながら朝食と共に語った内容は次のようなものだった。
<経験談その1>
20代半ばのころ、職場の先輩が分会長(分会=当時の電電公社データ通信本部の組合単位)をしており、彼から声が掛かった。当時(1972年頃)個人情報保護問題がようやく世間で話題になり始めていた。個人情報保護法の成立が2003年だから議論になりだしてから成立まで30年かかったことになる。当時個人情報保護は「知られたくない権利」と理解されていた。病歴や犯罪歴など極端な例がよく引き合いに出されていたことを記憶している。
全電通でも個人情報保護の問題を議論し始めたのだろうか、データ通信本部の個人情報保護の実態と現場の意見を聞かせてくれという依頼があった。若手の社員ということで私と坂本君がJR中央線・御茶の水駅・聖橋口出口から歩いて全電通労働会館に出向くと分会長の木川さんが待っていてくれた。
東京地方本部の書記長・長谷川さんに紹介された。車で連れて行かれた先は高級料亭の一室であった。玄関を入ると御香の匂いが焚き染めてあり、和服姿の仲居さんが個室に招き入れた。書記長はなじみらしい、仲居と親しげに話をしている。20代の前半の私には高級料亭は初めてといってよい。私と坂本君は個人情報に関係する話といっても何を話していいか分からず当たり障りの無い職場のデータの取り扱いなどを話した。組合の東京地本書記長ともなると贅沢な接待費がつかえるのだと思った。
<経験談その2>
携帯電話は以前自動車電話と呼ばれており、30年ほど前は全国で数万台のオーダーでしかなかった。ショルダーフォンと呼ばれた携帯は文字通り肩掛けの大型でとても常時持ち運べるものではなかった。
その自動車電話会社の基幹システム開発を担当したことがある。大型のシステム開発で開発は困難を極めた。つまり東西でオリジナルソフトを共通にしながら東西で独自に機能を追加変更して開発をすすめるというコンセプトのまずさがあったために共同開発のメリットがデメリットになってしまった。部下の残業時間は電電公社全体(当時30万人ほどいた)の中でも目立つほど繁忙を極めた。東日本と西とで開発を分担し私は西日本の開発を担当した。東日本の課長は過労が原因と思われる病で40代の若さで亡くなり、継いだ課長も過労のせいで職務を遂行できなくなり交代となった。どのくらい繁忙を極めたかが推測していただけるだろうか。
真夜中に自宅へ緊急電話がかかり深夜のタクシーで会社に向かう。徹夜で仕事をしてへとへとになっているところへ労働組合から呼び出しがかかり、残業時間の多さや労務管理の不備を指摘される。私はその裏側にある組合と会社のおかしな関係に不信をつのらせていた。
この事件で220億円が消えてしまった。山岸元連合委員長の際に細川政権誕生の軍資金に使われたとかの噂もネットで散見される。あるいは単純にNTT労組生命共済理事長の単独犯で、先物の運用に失敗しただけの話かもしれない。津田前委員長の辞任もこの事件とは全く関係が無いのかもしれない。それにしてもピピや連れ合いになぜこんな話を熱心にしたのか。
40年前に虎ノ門の第17森ビル地下で20代前半の若者がデータ分会の先頭に立っていた。ふと彼が全電通委員長になっていることを知った。そして突然とも思える辞任と取りざたされるその背景。彼の出発点から辞任にいたる組合内部での歴史は全く知らない。ノスタルジーと巨額損失事件への関心、それに組合に対する個人的な思いがこの文章を書かせた。
注 新聞記事以外は仮名です。