まさおレポート

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「1」を求める旅 - 存在、時間の果てに

2024-12-09 | 紀野一義 仏教研究含む

 

 

途方もないことを考えている、ひょっとして妄想ではという自覚はかすかにある。思索というほど大それたものではなくとも素人の考えることは考えれば考えるほどその無謀さに気づかされる。それでも、不思議な力に引かれるようにして言葉を探ることをやめられない。

 

 

 

岡潔が「1 がわからないのだ」と言ったことが、ずっと心に残っている。1とは何か。それがわかれば、2以降は自然に展開するという。だが、その「1」が、どこから、どのようにして生まれるのか。

 

数学では、「1」は自然数の出発点であり、すべての数を生み出す母体だ。集合論では、「空集合」から「1」を定義する方法がある。それでも、「空」がなぜ存在するのかという問いには答えられない。結局、「1」を出発点とするしかない。そうすることでしか数列は始まらない。だが、「1」が何かを問うた瞬間、世界そのものが底を抜けるような感覚がある。

 

物理学では、この問いは「なぜ何かが存在するのか?」という形を取る。ビッグバンの瞬間に宇宙は生まれ、エントロピーが爆発的に増大した。しかし、エントロピーがただ無限に拡大するだけなら、時間という概念は生まれなかっただろう。すべては一瞬で広がり、無秩序の中に消え去ったに違いない。

 

だが、そうはならなかった。無秩序の広がりを抑えるものがあった。それが重力だ。エネルギーは宇宙全体に散らばる一方で、重力がエントロピーの増大を抑え、銀河や星が形成された。エントロピーが広がる一方で、秩序が生まれる。このせめぎ合いの中で、宇宙には時間という流れが生まれた。

 

無秩序が拡大しつつも、秩序が崩壊を抑える。その動的な均衡の中に、時間は形成される。時間とはただの拡大でも縮小でもない。両者の相互作用の中に「今」という瞬間が現れる。それが、時間の出発点であり、「1」の生成でもあるのだろう。

 

道元の「而今(にこん)」が思い浮かぶ。彼にとって「今」は単なる時間の断片ではなかった。過去も未来も、すべては「今、この瞬間」に包含される。時間は流れるものではなく、「今」という瞬間が連続的に立ち現れる過程だ。彼の思索の核心には、「1」が生まれるその瞬間への洞察があるように思う。

 

「1」がわからなければ、2以降はわからない。「今」がわからなければ、過去も未来も意味を失う。すべては、この瞬間が現れるかどうかにかかっている。存在とは何か、時間とは何か、その問いの答えは、もしかすると「今」という瞬間の中に隠されているのかもしれないのでは。

 

岡潔が求めた「1」は、ただの数ではなかったように思う。それは「存在そのもの」を示す問いだったのではないだろうか。「1」がわからなければ、すべてが霧散し、意味を失う。だが、「1」がわかれば、世界は広がる。「1」は思索の出発点であり、存在の核心そのものだ。

 

この問いを追うことの無謀さは重々承知している。考えれば考えるほど、答えにたどり着くよりも、むしろ問いそのものの深みへと引き込まれる。それでも、考え続けるしかない。言葉を尽くすことに意味があるとは思えないが、それでも言葉を手放すことができない。

 

考える行為そのものが、すでに答えに近づくための営為なのかもしれない。もしかすると、追い求めること自体が真理への道なのだろう。問いの果てに何かがあるかどうかはわからない。だが、問い続けることでしか見つけられないものがあることを信じたい。これを信じなければ虚しい世界になる。

 

「探すことをやめたとき、人は見つけるのだ。しかし、見つけるために探さなければならない。」

(ヘルマン・ヘッセ『シッダールタ』)

 

思索の旅は、終わりの見えない航海だ。それでも、探し求めることでしか得られない何かがあるはずだ。言葉が尽きても、問いは尽きない。存在の謎は、答えを超えて、その問いかけの中に永遠に響き続けるのだろう。

 

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