埴谷雄高の『死霊』7章《最後の審判》イエスと釈迦を弾劾。
イエスの弟子が「神」にそむいたことを「原罪」と呼んでいることについて。
「生がまさに単一の生としてこの大地と火と水のなかにあり得たはじめから数えればかなりあとのことだが、
やがて複数の生のかたちをとったときについに生じたところの食われるものの悲哀と食うものの悲哀を越えて、
さらに食わざるを得ない生の生たる悲哀の唯一無二の深く怖ろしい奥深い内部の芯にこそ、まさに原罪はあったのだ。」
「日々の生物殺し」という矛盾に満ちた世界を作ったことに無自覚なまま、自分たちだけの愛を説いたことが批判されている。
「カラマーゾフの兄弟」不条理なこの世を作った神を非難するイワンを想起させる。
釈迦に対しては、生きとし生けるものを殺してはならぬと述べながら、その中に、他を食わずに、ひたすら食われるだけの草木を含めなかったことを批判している。
生きていくうえで理想主義の現実主義という言葉で妥協するしかなさそうだが、深いところではどう解釈すればよいのだろう。
無明遺伝子の改変しかないのだろうか。