まさおレポート

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法華経 常不軽菩薩品 「カラマーゾフの兄弟」のアリョーシャと常不軽菩薩

2021-03-14 | 小説 カラマーゾフの兄弟

松岡正剛は千夜千冊1300夜で植木雅俊氏の梵漢和対照・現代語訳 法華経|上・下を取り上げ、その中で次のことを記している。卓見だ。

もしもドストエフスキー(950夜)やトーマス・マン(316夜)が常不軽菩薩のことを知っていれば、すぐに大作の中核として書きこんだはずである。そのくらい、断然に光る(なぜ日本文学はこの問題をかかえないのだろうか)。松岡正剛 千夜千冊1300夜

意識してか無意識かは不明だが実はドストエフスキーは大作の中核として常不軽菩薩を書きこんでいたのだ。

何故常不軽菩薩がそれほど光るのか。

人はどんなに立派な行いを心がけていても、人をそねむ、恨む、ねたむ、憎む、侮蔑するという感情は律しがたく、人の原罪に深く結びついていると思われるからで、自らはそれにほど遠く、それを克服している人にもお目にかかったことがない。常不軽は通常人の行い難い行為であり修行であるからこそ光るのだろう。

ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」は作者自らがカラマーゾフの兄弟の三男アリョーシャの伝記小説だと宣言している。

アリョーシャは、いったいどこが優れているのかは「たぶん、小説を読めばおのずとわかるはずです」(p9原訳)

と述べ、また、

「奇人とは『必ずしも』個々の特殊な現象とは限らぬばかりか、むしろ反対に、奇人が時として全体の核心を内にいだいており」(原訳)

と書き、アリョーシャを誰からも愛される、人をさげすんだことのない青年として描き出す。「誰からも愛される、人をさげすんだことのない青年」は当時も今も十分に奇人なのだ。奇人アリョーシャにドストエフスキーの宗教観を託していることがわかる。(ドミトリーもイワンも、さらにスメルジャコフもフョードルも奇人だが)

子供に石を投げられるがかえって子供たちをかわいがり、子供たちと未来を誓い合う場面やアリョーシャのイリューシャ追悼の言葉は法華経の常不軽菩薩を彷彿とさせる。

イリューシャ追悼の言葉

「大声で泣き叫び、父親のために許しをこうた」イリューシャが「父親の名誉のために、侮辱をはらすためにたちあがった」
「立派な少年でした。親切で勇敢な少年でした。父親の名誉とつらい侮辱を感じとって、そのために立ちあがったのです。だから、まず第一に、彼のことを一生忘れぬようにしましょう。みなさん、たとえ僕たちがどんな大切な用事で忙しくても、どんなに偉くなっても、あるいはどれほど大きな不幸におちいっても、同じように、かってみんなが心を合わせ、美しい善良な感情に結ばれて、実にすばらしいときがあったことを、そしてその感情が、あのかわいそうな少年に愛情をよせている間、ことによると僕たちを実際以上に立派な人間にしたかもしれぬことを、決して忘れてはなりません」

アリョーシャを誰からも愛される、人をさげすんだことのない青年として描き出すドストエフスキーは常不軽菩薩が、僧も世俗の人もみんなことごとく礼拝して「私は深くあなた達を敬い、あえて軽んじるようなことはしません。なぜかというと、あなた達はみんな菩薩の道を行って、まさにみ仏になることができるからです。」と言ったことは知らずに同じキャラクターを主人公に置いたのだろうか。知ってかしらずか大作の中核として書きこんでいるのだ。

常不軽菩薩は、僧も世俗の人もみんなことごとく礼拝して「私は深くあなた達を敬い、あえて軽んじるようなことはしません。なぜかというと、あなた達はみんな菩薩の道を行って、まさにみ仏になることができるからです。」と言った。

すると人々はその言葉に怒り出して、「この無智の坊主め、どこから来たって『私はあなた達を軽んじません。』われらがためにまさにみ仏になるでしょうと嘘そらごとを言うのだ。

お前みたいな坊主がそんなに言ったからといってどうしてありがたかろう」と罵られ、杖で追い払い、瓦や石をもって殴りかかってきた。菩薩はその場をにげては、遠くから大声で「私は深くあなた達を敬い、あえて軽んじません。あなた達はみんな仏になるでしょう」と叫んだというのである。

植木雅俊氏のサンスクリット原典現代語訳 法華経にもなるほどアリョーシャは常不軽菩薩だったのかと合点がいく記述がある。

その世尊が、完全なる滅度に入った後に、正しい教えが衰亡し、また正しい教えに似た教えも衰亡しつつあり、その教えが増上慢の男性出家者たちによって攻撃されている時に、サダーパリプータという名前の男性出家者の菩薩がいた。

「尊者がたよ、私は、あなたがたを軽んじません。・・・あなたがたは、正しく完全に覚った尊敬されるべき如来になるでありましょう」と。

このように語って聞かせられた四衆たちは、この菩薩に対して、そのほとんどすべてが怒り、危害を加え、嫌悪感を生じ、罵り、非難した。

そして、その偉大な人であるサダーパリブータ菩薩は、命の終わりが近づいた時、空中からの音声を通してこの法門を聞いた。

その菩薩は、それらのすべての四衆からなる増上慢の衆生たちと・・・完全なさとりに向けて教化したのだ。サンスクリット原典現代語訳 法華経下 植木雅俊 p156

この引用を踏まえて次の「原訳 カラマゾフの兄弟」を読めば常不軽菩薩とアレクセイ・カラマーゾフの奇人ぶりが重なる。

「奇人とは『必ずしも』個々の特殊な現象とは限らぬばかりか、むしろ反対に、奇人が時として全体の核心を内にいだいており」原訳 カラマゾフの兄弟

アレクセイ・カラマーゾフは誰からも愛される、人をさげすんだことのない青年として、珍しい変人として描きだされている。

さらに「小説を読めばおのずとわかるはずです」と人をさげすんだことのない青年であるゆえに彼が優れていることをこれから書き込もうとしていることがわかってくる。

アレクセイ・カラマーゾフは、いったいどこが優れているのか。・・・「小説をお読みになればおのずからわかることですよ」 「カラマーゾフの兄弟」亀山訳P9 

「たぶん、小説を読めばおのずとわかるはずです」p9原訳

この小説は作者自らアレクセイ・カラマーゾフの伝記小説だと宣言しているが常不軽菩薩にインスパイアされた小説といっても違和感は全くない。

法華経も常不軽菩薩品において常不軽菩薩という奇人を描くことで法華経の菩薩行とは何かという核心を描き出す。

「奇人とは『必ずしも』個々の特殊な現象とは限らぬばかりか、むしろ反対に、奇人が時として全体の核心を内にいだいており」原訳

常不軽菩薩にインスパイアされたと見ると読者を悩ませてきた書かれなかった第2巻の予測もつくのではないか。

やっかいなのは、伝記はひとつなのに小説がふたつあるという点である。おまけに、肝心なのはふたつ目ときている。第一の小説は・・・主人公の青春のひとコマを描いたものに過ぎない。

「だが、困ったことに、伝記は一つだが、小説は二つあるのだ。・・・これはほとんど小説でさえはなく、わが主人公の青春前記の一時期にすぎない。」原訳

これだけ重厚長大な小説が主人公の青春のひとコマを描いたものに過ぎないという。確かにこの奇人の青年が迫害を受けるというシーンはこの中に見出されない。書かれなかった二巻でさまざまな迫害を受け、結果的に「どうやら他人の事を完全に信頼しつつ、生涯をすごしたようである。」と見事な菩薩行を追える予定だったのではないかと考えるのも楽しい。

この青年は人々を愛していたし、どうやら他人の事を完全に信頼しつつ、生涯をすごしたようである。

さまざまな迫害は悪党を擁護したためではないかともストーリーも勝手に推測している。

人間とは、たとえ悪党でさえも、われわれが一概に結論づけるより、はるかにナイーブで純真なものなのだ。我々自身とて同じことである。原訳

 

実はドストエフスキーは大作の中核として常不軽菩薩を書きこんでいたのだ、それがアリョーシャだと考えたのだが、アリョーシャには常不軽菩薩ではない別のキャラクターも付け加えている。アリョーシャの暗い側面だ。これはドストエフスキー自身を投影したのだろう。

「アリョーシャは・・・ヒステリーの発作に全身をふるわせはじめた。老人をとくにうちのめしたのは、その姿が死んだ母親と異常なくらい似ていたことだった」 

作者は癲癇の持病があり、アリョーシャもヒステリーの発作を起こす。アリョーシャ母子はイワンも含めて神がかりであり、神がかりはシャーマンやジャンヌ・ダークを想起するが教会に忠実であるよりもむしろアニミズムへの傾向をもち、ローマ教会からは異端である。キリストを奇跡よりもむしろ「神がかり」を手掛かりに理解するロシアの土着的傾向が作者ドストエフスキー、ゾシマ長老、アリョーシャ親子に共通してみられる。

「ふいに静かに甘い笑いをもらした。しかし彼はそこで、ぴくりと体を震わせた。その笑いが罪深いものに思えたのだ」 P430

 アリョーシャの身障者の女性リズに対する屈折した性嗜好と自らの罪に対する鋭い感受性を暗示する。アリョーシャの子ども好きと脚萎えのリズに対する愛は通じており、作者は主人公アリョーシャにも容赦のない悪魔性、原罪の指摘を行い、常に善人の心にも入り込んでくる悪魔との戦いを描いている。

「僕はひょっとして神様を信じていないのかもしれない」 2巻p177

「さっき庵室の入り口につめかけた群衆の中に、動揺する他の人々にまじってアリョーシャの姿があったことに気づいたのだが、・・・アリョーシャは奇妙な、非常に奇妙な視線を投げた。3巻p37

 「ぼくはべつに、自分の神さまに反乱をおこしているわけじゃない、ただ「神が創った世界を認めない」だけさ」…ゆがんだ含み笑いを浮かべた。」p48

これは元来イワンの台詞であるし、ゆがんだ笑いなどはイワンの持ち味である。ゾシマ長老の遺体からの腐敗臭と奇跡の起きないことに俗物的に落胆するアリョーシャが描かれる。「神が創った世界を認めない」だけさ」では既にイワンの影響をアリョーシャは受け始めている。アリョーシャもイワンと同じ血をひき、同じ懐疑に落ち込むのだがイワンの末路は哀れであり、一方アリョーシャの行く末は「どうやら他人の事を完全に信頼しつつ生涯をすごしたようである」と作者が説明する穏やかな人生を送る。イワンとの違いは「この青年は人々を愛していた」ことだろう。

作者はアリョーシャの信仰への懐疑は許容しながら、その後回心し彼が人々を愛し、信頼して穏やかな人生を送ったと述べている。

回心の瞬間は次のように美しい言葉で記される。

「彼の頭上には、静かに輝く星たちをいっぱいに満たした天蓋が、広々と、果てしなく広がっていた。天頂から地平線にかけて、いまだいおぼろげな銀河がふたつに分かれていた。」

「微動だにしない、すがすがしい、静かな夜が大地を覆っていた。寺院の白い塔や、金色の円屋根が、サファイア色の空に輝いていた。建物のまわりの花壇では、豪奢な秋の花々が、朝までの眠りについていた。地上の静けさが、天上の静けさとひとつに溶けあおうとし、地上の神秘が、星たちの神秘と触れあっていた。…彼は、地面に倒れたときはひよわな青年だったが、立ち上がったときには、もう生涯かわらない、確固とした戦士に生まれ変わっていた。…あのとき、だれかがぼくの魂を訪ねてきたのです」と、彼はのちに、自分の言葉へのしっかりした信念をこめて、話したものだった」 3巻109

アリョーシャの懐疑は輝く星や花々からの神秘な霊感によって「もう生涯かわらない、確固とした戦士に生まれ変わっていた」イワンが理性だけの人であり崩壊するのに対し、アリョーシャのこうした情緒的、アニミズム的感覚を基礎にした信仰が彼の崩壊を救い常不軽菩薩的な一生を送ったと考えてみたい。

常不軽菩薩的な人は聖痴愚の系譜

から生まれる。


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