CCR、この曲の反戦的な意味合いを全く考えもせずに聞いていた。
それでもまったくかまわないと思っている。でもこの曲について記したことをきっかけにわが越し方を踏まえてベトナム戦争を少し振り返ってみることも必要かなと。
結論からいうとドミノ理論による共産主義の脅威を防ごうとのベトナム戦争の意図は今でも理解できる。しかし結果的に世界はドミノ理論通りにならなかった。政治は結果主義だからベトナム戦争は失敗だったといえるのか。
当時の誰もがそうは思わなかった。今後の反省に生かすしかない。でも現実の中国の脅威からドミノ理論は生きている。
ベトナム戦争の反省は正確に行うべきで、間違った反省が中国共産党との争いに足を引っ張ることがないようにすることが、ベトナム戦争の唯一の教訓だろう。
間違った反省をそのままほおっておくと現在の対中国に対する悪影響がある。
ではベトナム戦争はどうあるべきだったのか。
1 北の侵攻を見て見ぬふりをし、更に近隣諸国へドミノの伝搬があるようなら、つまりドミノ理論が正しければ、そのときに徹底的に参戦する。
2 先進国への影響はないのだから静観する。
3 歴史のままのベトナム戦争を肯定する。つまり兆しがあれば敢然と参戦し、影響と負担があまりに課題であればさっさと身を引く。つまりやるだけのことをやる。
やはり3しか方法はなかったのではないか。
そんなことを「君は雨をみたか」を聞きながら思った。
雨がベトナム戦争でふりそそいだナパーム弾の暗喩だと知った。
ベトナム戦争が終わり50年近くになる。わたしは体験的に何か知見を広げただろうか。
1975年まで新聞に「xx陥落」の文字が一面に踊り戦闘が報じられた。ジョンソン大統領が撤退を宣言して南北の代理戦争は北ベトナムが勝利しようやく停戦した。当時は「ああ、終わったんだ。」目の前の仕事と生活でそれ以上に深く考えることはなかった。所詮他国の出来事として時間と共に記憶はいつしか流れ去っていった。今にして振り返って思うにこれほどの大事件は数えるほどしかなかったというのに。
ハリウッドで作られたベトナム戦争を題材にした映画をいくつか見た。
地獄の黙示録 (1979年)
プラトーン (1986年)
フルメタル・ジャケット (1987年)
7月4日に生まれて (1989年)
フォー・ザ・ボーイズ (1991年)
いずれも面白かったがドミノ理論の本質を抉り出すことからは程遠い映画だ。期待するのが無理筋だろう。
2006年にはベトナムを旅して回った。北ベトナム兵士の息子にガイドをしてもらった。熱心な仏教徒でまじめでいい奴だった。
ベトナム戦争を撮影した「安全への逃避」沢田 教一の写真を戦争証跡博物館で見た。拷問の島コンソン島の「トラの檻」を忠実に復元した牢獄を見て悲惨さが身に染みた。
1965年にベトナム中部の村で戦闘から逃げて川を渡る母子を写し1966年にピューリッツァー賞をとった『安全への逃避』を大きなパネルでみた。週刊誌などでお目にかかっていたものだ。撮影はUPI通信社のカメラマンでベトナム戦争の報道写真家沢田教一だ。(沢田は4年後にカンボジア内戦を取材中、ポル・ポト派に撃たれて死去)
アメリカ国民はベトナム戦争の実態とアメリカ軍の苦戦を知りそれが反戦運動のうねりを生み出し停戦にまで至った。
外交政策ではケネディ政権から引き継いだベトナム戦争への軍事介入を拡大させ、国内に激しい反戦運動と世論の分裂をもたらした大統領のジョンソン記念公園を訪れた。
職場では米国からのパトリオット達は業務に用いる対のケーブルをサイアミーケーブルなどと深い意味も意識せずに使っていた。
ベトナム戦争で使われた最も有名な兵器は、枯葉剤で不純物としてダイオキシンを含んでいた。散布された枯葉剤は人体にも大きなダメージを与えグエン・ベトとグエン・ドクの双子の兄弟が、下半身がつながった状態で1981年に生まれた。
バリであるとき隣同士の部屋になったベトナム戦争帰りの退役兵と話をした。気が合って話をした。アレックスと名乗った。ビラのレストランでテーブルに乗ってバカ騒ぎするフランス人をクールに眺めていた。アレックスはごく少ししか食べなかった。節約のためか、あるいはストイックなところからきているのか。今からベトナムに旅すると静かに言って旅立っていった。深い憂愁を秘めた男だった。