まさおレポート

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イタリア紀行 8 ジャルディーニ・ナクソス&タオルミナ 映画『太陽がいっぱい』

2024-08-27 | 紀行 イタリア・スペイン 

タオルミナとジャルディーニ・ナクソスは地理的に近接しており、歴史的にも密接に関連している。ジャルディーニ・ナクソスが最初のギリシャ植民地として発展し、後にタオルミナがその影響を受けて発展した。タオルミナはその後、古代ローマ時代や中世を通じて重要な都市として栄えた。


ボローニャのボルゴ・パニガーレ空港からカターニアのフォンタナロッサ空港に着陸体制に入る前にエトナ山が姿を見せる。活火山で標高は3,326m富士に高さも姿も似ている。エトナ山が姿を現すと窓際にせりよって写真を撮る。その威厳ある姿はシチリアの守護者のよう。

エトナ山のふもとに広がるジャルディーニ・ナクソスの町はシチリアの他の観光地とは一線を画する歴史と神話の場所だ。ジャルディーニ・ナクソスはギリシャのナクソスから名付けられた。

テセウスに裏切られたアリアドネが、ディオニュソスと新たな愛を見つけたこの地で、私はナクソス神話が物語ではなく現実とどのように交錯するかを感じ取った。街を歩いていると、どこかに神々の足跡が残っている気さえする。


アリアドネは、クレタ島の王ミノスの娘。アテナイの英雄テセウスがクレタ島にやってきた際に、彼に恋を。テセウスはミノタウロス(半人半牛の怪物)を倒すためにクレタ島に来ていた。アリアドネはテセウスが迷宮の中でミノタウロスを討ち、無事に脱出するために、「アリアドネの糸」として知られる糸玉を与えた。この糸を使ってテセウスは迷宮から無事に脱出し、ミノタウロスを倒すことができた。

テセウスはアリアドネと共にクレタ島を離れるがナクソス島に立ち寄り、アリアドネを置き去りにする。アリアドネが絶望しているとき、ギリシャの酒神ディオニュソス(ローマ神話ではバッカス)が彼女を見つけアリアドネに魅了され、彼女を妻として迎え入れた。


海辺

写真に映る豪華客船が静かに海上を漂う姿は、ジャルディーニ・ナクソスの近くタオルミーナの美しい景観と相まって、映画『太陽がいっぱい』を思い起こさせる。この映画でアラン・ドロンが演じたトム・リプリーは、イタリアの風光明媚な場所で数々のドラマを繰り広げたが、その背後にあるエレガントな不気味さが印象に残る。

1960年、わたしが13歳の歳中1の時に公開された映画『太陽がいっぱい』は、フランスの俳優アラン・ドロンが主演し、ルネ・クレマンが監督を務めた。中1だから見れるわけがないが看板や映画雑誌などで記憶に残っている。

映画の舞台となったイスキア島も美しいが、フィリップが保養のために出かける設定のタオルミナの風景は、さらに幻想的な雰囲気を漂わせる。

(アラン・ドロンはこの紀行を書いている8日前、2024年8月18日に88で亡くなった。)

タオルミナは、その美しさから、映画や文学の舞台として選ばれてきた。

D.H.ローレンスは、1920年代にタオルミーナに滞在し、その経験を元にして彼の作品『The Lost Girl』や『The Rainbow』に影響を与えたと言う。

夕暮れのタオルミーナの湾は一つの夢のようだ。太陽が山の向こうに沈み、空を淡い紫から金色へと染め上げる時、魂がこの風景に宿る。光と影の戯れは、まるでこの瞬間の美しさを永遠に閉じ込めようとする。光が波間に反射し、淡いピンク色の波紋が広がる様は力強く、しかし同時に繊細だ。

この夕暮れの瞬間を無数の淡い色彩の調和としてタオルミーナの湾に包み込む。空と海、山々のシルエットが溶け合い移ろいゆく儚さを永遠の煌めきに留める。

夕暮れが深まり、タオルミーナの湾に一層濃くなる闇が訪れる。光が徐々にその勢いを失い、空が夕焼けから夜の帳へと変わりゆくその瞬間、世界は静かに沈黙を守る。

暗闇の中に残る微かな光は自然の無慈悲さと同時にその美しさを強調する。岩陰が濃い影となり、湾に漂う小舟たちは、闇に溶け込み存在感を薄めていく。自然の厳粛さと時の流れの必然性を感じさせる。

最後の光が水面に映り込み、淡い金色の輝きが波間に揺れる。その光はその消失の美しさを受け入れる。この闇が訪れるとき世界はその息を止め、訪れる朝を待つ。

タオルミナという名を聞くだけで、心の奥底に眠る官能性が目覚める。南国の香りに包まれたこの地は、古くから芸術家や詩人を魅了してやまない。甘美な空気が肌にまとわりつき、まるで時が止まったかのような静けさの中で、人生の豊穣さを味わうことができる場所だ。

写真に映る一人の釣り人はこの地が持つ魅力を映し出している。穏やかな海に向かって釣り糸を垂れる。日常の喧騒から逃れるために存在するこの場所でその瞬間を楽しむために彼はここにいる。

日々の暮らしが持つ煩わしさを忘れさせるこの土地の空気には、贅沢で放埒な官能性が漂っている。美しい景色に身を委ねることで、わたしは自身の中にある欲望や官能性に気づく。人間が本来持っている自然との一体感、その中で感じる生の実感をこの地は思い出させてくれる。

この羽を持つ女性の像を前にして、心の奥底で何かが囁いている。だがその囁きが何を伝えようとしているのかを言葉にするのは難しい。像が持つ深い意味が掴みきれないもどかしさを思える。この不全感は心に引っかかって18年の間そのままになっている。それは、美しさや感動という以上の何かが、この像に隠されているからなのか。

タオルミーナの海辺に立つこのスケルトン風の彫刻は抽象的でありそれゆえ見る人次第では様々な感情を呼び起こす。翼を広げたその形を自由や解放、超越を読み取るかもしれない。わたしはこの彫刻を見つめながら、自分自身の内面をも見つめることになる。だが、その内面には、まだ言葉にすることのできない感情が渦巻いている。

この彫刻が引き起こす「気になる存在感」は、わたしたちが普段は目を背けている感情や思考を顕在化している。日常の中で意識しないままに封じ込めている何か希望や夢あるいは霊的な何者かがこの彫刻を通じて表面に現れるのだろう。

この写真が私の心に引っかかるのは、それが大理石でできた彫像ではなく骨ばった鋳物でできているからかもしれない。これは死者の骨なのだ、そして次の世に飛び出そうとしているのだ。やっと「気になる存在感」の正体を見つけた。

タオルミナの夜の闇はすべてを飲み込むように湾を覆い尽くす。古代ギリシャの詩人たちが夢見た場所であり、歴史に繰り広げられた悲劇と栄光が大地に刻み込まれている。そして夜の闇に隠されている。

かつてタオルミナを訪れたゲーテはこの場所で生命の儚さと美しさを見つめた。彼の魂に刻まれたこの光景は今宵この湾の上に浮かぶムーンリバーとなって蘇る。月の光は湾を照らし二千年の歴史を語りかける。丘の古代ギリシャ劇場跡からは夜の静寂の中でかつての栄光の声が風に乗って聞こえてくる。

歴史の中で、タオルミナは何度も征服され、何度も再生してきた。ギリシャ人、ローマ人、アラブ人、ノルマン人、そしてスペイン人の文化がこの地に栄光の痕跡を残し、今もこの街の夜に息づいている。時の流れを超えたこの地にムーンリバーが現れ、それは闇に抗う光となって現れている。かつて多くの人が感じたようにわたしもまたこの闇と光の対話に引き込まれる。月の光が静かに湾を横切り、その光が水面に映る瞬間、すべてを超越した何かが魂の深奥に触れる。


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