まさおレポート

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「カラマーゾフの兄弟」 その4 登場人物の宗教観

2014-06-02 | 小説 カラマーゾフの兄弟

 スメルジャコフ 

なんとも不可解な男で、一体こいつは何者だろうと考えさせるスメルジャコフだ。父親がフョードルであるらしいのでカラマーゾフの兄弟につらなる兄弟である(らしい)。イワンを父親殺しで脅しながらも最後に「誰にも迷惑をかけないように」との言葉を遺して縊死するのがさらに不可解である。作中、邪悪さの代表のように描かれていて読者もそう思い込んでいるところに、善人のように殺して奪った大金をイワンに返し、「誰にも迷惑をかけないように」と自殺するのだから。しかし決して父親殺しの嫌疑で拘留中の長男ドーミトリーではなく、自分がやったとは遺書に遺さない。

イワンと同質の宗教観を持っているようにも見えるが次の文章からはやはりイワンと根が異なるようである。

「世の中を隅っこからうかがうような人嫌いの少年に成長した。子供の頃、彼は子猫を縛り首にし、そのあとお葬式のまね事をしたものだ。そのために彼は僧衣がわりのシーツをまとい、子猫の亡骸を見おろしながら歌ったり、香炉のかわりになにかをふりまわすのだった。すべては極秘裏に行われた」

 イワンもスメルジャコフも幼児期は劣悪な環境で育つがその後イワンは親戚の家に預けられ、資質と教育にも恵まれるが神の創った世界を否定する男に成長する。一方スメルジャコフは劣悪な環境のままで育つ。知性が足りないのかと思うと下記の台詞のように神の否定を述べる。

「あなたの信仰がたとえ麦粒みたいにちっぽけでも、山に向かって海へ入れと命じたら、あなたの最初の一声で山は少しもためらわずに海にはいっていくだろうってね。・・・どんなに大声を張り上げたってなにも動いてくれやしない、そっくり元のままだってことがです。・・・そう、もしも残りのみんなが不信心ものだとわかったら、だれも許そうとはなさらないでしょうか?・・・一度は神様を疑った身でも、後悔の涙を流しさえすれば許していただけるってね。」 P350

「フョードルはたんに彼の正直さを信じきっていたばかりか、なぜか彼を愛してもいたのだった」とあり、フョードルの私生児であることを暗示する。フョードルもこの種の話が大好きであり、彼の宗教観(無神論者)にもっとも近いのがスメルジャコフだと思えてくる。この二人は神の問題でイワンのように悩まない。

葛藤に苦しむイワンの「死に至る病」は心底邪悪なスメルジャコフには無縁であり、イワンの作り上げる「神の創った世界の否定」を葛藤なしに彼の邪悪さの理論武装として心底受け入れている。スメルジャコフの邪悪は先ほどの殺した子猫の葬式といい、また次の引用箇所にも現れている。

「召使のスメルジャコフと仲良しになったんですね。・・・つまりパンを一切れ、柔らかそうな部分を選んで、そこに針を刺し、どこぞの番犬になげあたえたわけです。・・・ぼくに告白している間、本人はもう泣いて泣いて、ぼくにすがりついて、ぶるぶる震えていました。 」4巻 p64

「ぼくはそこで、旦那さまのテーブルに置いてあった例の鋳物の文鎮、覚えておいででしょうが、1キロ以上もありそうなやつです。あれをつかみまして、振りかぶり、後ろから後頭部のてっぺんめがけて、打ち下ろしました。」4巻p335

イワンに心酔するスメルジャコフはイワンの意に沿うと考えて、自身のフョードルに対する憎しみも相まってフョードルを殺害する。彼には懐疑がないので殺すことに何のためらいもない。

「じゃあ、どうして返したがる?」「もう、たくさんです……なんでもありません!」…「イワンさま!」「なんだい?」「さようなら」4巻p345

 イワンが実はスメルジャコフの考えているような無神論者ではないとようやく理解したスメルジャコフは自らの邪悪な考えのよりどころを失い、深い絶望に捉われる。スメルジャコフはイワンの絶望と異質の絶望に陥る。スメルジャコフには良心の呵責はないが、イワンがその良心にとって代わる働きをしており、イワンの理性の崩壊とともにスメルジャコフの「代替理性」も崩壊し絶望に陥る。

「だれにも罪を着せないため、自分の意思と希望によってみずからを滅ぼす」p399

スメルジャコフは絶望によって自殺した。イワンの考え方に対応した死を選んだと言える。

「だれもが、人はいずれ死ぬ身であって、復活はないことを知るので、死を神のように誇り高く、平然と受け入れることになる。・・・愛が刹那にすぎないという自覚ひとつで、その炎は、かつて死後の永遠の愛にたいする期待のなかで広がっていったのと同じくらい、つよく燃え盛るのだ」 4巻p393 この愛はイワンに向けられた歪んだ愛なのかもしれない。「イワンさま!」「なんだい?」「さようなら」の会話にそれを強く感じる。

 

フョードル

無神論であるが、どこかでそれを不安がっている。イワンとフョードルが同質であることをスメルジャコフが指摘している。
 
「人間とは、たとえ悪党でさえも、われわれが一概に結論づけるより、はるかにナイーブで純真なものなのだ。我々自身とて同じことである。」 原訳
 
と作者ドストエフスキーは書くが一方では、
 
男がだね、何かの美に、女の体や、でなきゃ女の体のある一部だっていい、いったんこれにほれ込んだら、そのためには自分の子どもだって手放してしまうし、父親だろうが母親だろうが売り渡してしまうんだ。正直者だって平気で盗みをやる。おとなしい男だって平気で人を切り殺す、忠実な男だって平気で人を裏切るんだ」
 
とも書く。双方ともにフョードルに当てはまる。
 
「じつは、おれはイワンが恐いんだ」 P379 
 
同質ゆえにイワンの気持ちがわかる。そのための怖さと読める。厳密にはフョードルとイワンは一方は無神論と他方は神の創った世界の否定の違いはあるが、潜在的な精神に及ぼすものは同じで、行きつく果てにイワンの精神状態がおかしくなっていることに恐怖を持っているのか、もっと単純に金を狙われているという疑惑ゆえの恐怖か、あるいは双方が相まってのものか。
 
 
ゾシマ長老
アリョーシャとドミトリーの双方の性格を併せ持つ。ゾシマが若い時に決闘をするあたりはドミトリーを彷彿とさせる。修道院に入ってからのゾシマはアリョーシャに近い。ヨーロッパの教会にも押し寄せる科学万能の風潮に反対する。
 
「現実主義者においては、信仰心は奇跡から生まれるのではなく、奇跡が信仰心からうまれるのだ」と述べる。ゾシマ長老の死にあたって遺体から死臭がただよう事について、つまり奇跡が起こらなかったことについてゾシマを取り囲む人々の信仰心の欠如を示すための台詞だろうかと思ってみたがどうも違う。
「薔薇の名前」に
 
「彼女の息子のワーシャはまちがいなく無事生きていますし、間もなく彼女の許に戻ってくるか、手紙を書いてよこします・・・予言は文字通りと言ってよいくらいに的中したのです」 2巻p16 ゾシマ長老の予知能力をホフラコーワ夫人が賛美するくだり。ゾシマ長老がアニミズム的超能力をもっていることを示す。
 

「わたしは自分のこの地上での人生が、新しい、無限の、知られていない、しかし間近にせまった来世での人生とひとつに触れ合おうとしているのを感じ、その来世の予感から魂は歓喜にふるえ、知恵はかがやき、心は喜びに泣いているのだ」・・・p377

 ここでいう来世の人生とは、再び転生して同じような人生を歩むという意味、つまり輪廻転生と読むのが自然だろうか、あるいはキリスト教で説くところの「復活」の日をさすのか。来世での人生とあるので復活の日と天国での生活ではないだろう。そうすると輪廻を意味することになる。してみるとキリスト教的来世感からすでにゾシマ長老は脱却して自由になっている。ゾシマ長老の宗教観を覗うのに非常に重要なフレーズである。

 「この地上では、多くのものがわたしたちの目から隠されているが、そのかわりに異界との、天上の至高の世界との生きたつながりという、神秘的で密やかな感覚を授かっているのだ。それに、わたしたちの思考と感情の根はここではなく、異界にあるのである。だからこそ哲学者たちも、事物の本質はこの地上では理解できないと語っているのだ」

神秘的で密やかな感覚こそが唯一の異界(あの世)をみる管であり、至高を感じる触覚であるとすでに臨終が近く、異界との境に立つゾシマ長老は述べる。

「棺から少しずつ洩れだした腐臭は、時がたつほどにはっきりと鼻につくようになって、午後の三時近くにはそれがもうあまりに明白なものとなり、その度合いがますます激しくなっていったのである。」 3巻p18

奇跡などあってもなくても本質には関係のないことを作者は示す。イワンが大審問官に語らせているように奇跡は悪魔の人心懐柔の手段であることと対応するエピソードだ。

「両親との楽しい子供時代がその人の人生に最も大切なものだ」

ゾシマ長老がごくごく普通のしかし普遍性のある大切な言葉を残して死ぬ。

ラキーチン

「人類ってのはね、たとえ霊魂の不滅なんか信じてなくたって、善のために生きる力くらい、自分で自分のなかにみつけるものさ!」

とアリョーシャに述べる。これはゾシマ長老と正反対の考えを述べている。ラキーチンは修道院に世話になっているが実は無神論者。

「でもな、そうとなったら、人間ってどうなる?神さまもない、来世もないとなったら?だってそうとなった暁にゃ、何もかもが許されちまうじゃないか、なにをしても許されちまうじゃないか、何をしてもいいってことになるじゃないか?・・・賢い人間はなにをしたっていいんですよ、賢い人間というのは、うまく立ち回れますからね・・・」4巻 p222

拘置されたドミトリーとラキーチンの会話。イワンもスメルジャコフも言った賢い人間はなにをしたっていいんですよの言葉がここでも繰り返される。この作品は来世を信じないことが人間の悪の放縦を止められないと信じる男たちと賢い人間はうまく立ち回れると信じる男たちの対峙する物語であるとも言える。作者はもちろん答えをださない。

フェラポイント神父

「院長の部屋から出ようとしてふとみると、・・・これがなかなかでかい悪魔でな。・・・聖霊の時もあるし、精霊のときもある。・・・ツバメだったり・・・のときもあるな」 2巻p27

(ゾシマ長老と敵対する)フェラポイント神父の述懐。彼には聖霊、精霊や悪魔が見えるという。つまり彼も悪魔を心に持つ。

「よろしいですか、悪魔の存在を証明する唯一のもの、それはおそらく、そのような瞬間にあって、すべての人々が悪魔の仕業を知りたいと願っている熱烈さにこそあるのです」 薔薇の名前 下巻 P53

これは「薔薇の名前」のなかでの台詞だ。ついでに下記の2箇所の台詞もこのフェラポイント神父に当てはまる。

「悪魔は物質界に君臨する者ではない。悪魔は精神の倨傲だ。微笑みのない信仰、決して疑惑に取りつかれることのない真実だ。「薔薇の名前」 下巻  p350

反キリストは、ほかならぬ敬虔の念から、神もしくは真実への過多な愛からやってくるのだ。あたかも、聖者から異端者が出たり、見者から魔性の人がでるように。「薔薇の名前」 下巻  p370

パイーシー神父

「これほど性急かつ露骨に示された信者たちの大きな期待が、もはや忍耐の緒も切れ、ほとんど催促に近いものを帯びてきたのを目にして、パイーシー神父にはそれがまぎれもない罪への誘惑のように思えた。…ただし神父自身、…心のうち、いや魂の奥底でひそかに、彼ら興奮しきった連中とほぼ同じ何かを待ち受けていたのであり、そのことは自分なりに認めざるを得なかった」 3巻p12

聖人は腐臭を発しないという奇跡を期待する。イワンが悪魔の提案だとする「奇跡」はロシアの教会組織にも深く浸透していることがわかる。すでに「あれ」の影響がある。

悪魔

「苦しみこそが人生だからですよ。苦しみのない人生に、どんな満足があるっていうんです。何もかもが、果てしないひとつの祈りと化してしまいますよ。そりゃあ神聖だろうけど、ちょっと退屈でしょうね。」

イワンの幻視にでてくる悪魔の述べるセリフ。苦しみのない人生=天国について説得性のある説だ。

「ご当人のぼくはどうなのかって?ぼくも苦しんでいるのに、やっぱり生きてはいないんです。ぼくは不定方程式のなかのXなんです。ぼくは、あらゆる終わりと始まりを失くした人生のまぼろしみたいなもので、とうとう自分の名前まで忘れてしまったくらいです。」 4巻p374

 

イリューシャとコーリャ 

イリューシャは犬ジューチカに針の入ったパンを食べさせるという残虐な行為をし、後悔から胸の病を悪化させ重い病になる。実際は犬は針を吐きだしており生きていた。しかしコーリャは無事な犬を連れてコーリャを安心させてやろうとはなかなかしない。ここにコーリャ少年の持つ深い残虐性を見ることができる。コーリャは頭のよい子どもで社会主義者を目ざすが宗教心は無い。キリストが現代に生まれたら優れた社会主義者のリーダーになると考えている。スメルジャコフも子供時代に子猫を殺して葬式の遊びをしたが、子供も14歳くらいになると原罪を帯びて残虐行為の加害者となる。

作品の最後でアリョーシャとコーリャをはじめとする子供たちは声をあわせて未来を誓い合う。ピュアな子どもたち(アリョーシャの感性は子供なのだ)にしか未来を託せないとの作者の切なるメッセージなのであろうか、あるいは子どもの無邪気に未来を信じる姿の滑稽さを描いたのだろうか。作者の深い懐疑にさいなまれた人生からすると後者ではなかろうか。

 

「カラマーゾフの兄弟」イワンの宗教観

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