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まさおレポート

量子力学と唯識 メタファとイメージによる理解は可能か

粒子の運動量と位置を同時に正確には測ることができないとする不確定性原理は1927年にハイゼンベルクによって提唱され量子力学の基礎原理の一つとして定着した。この不思議な原理を巡ってボーアとアインシュタインとの間に大きな見解の相違があった。

ボーアは粒子の運動量と位置を同時に正確には測ることができないという観測問題は“元々決まっていないからだ”としてコペンハーゲン解釈と呼ばれる解釈を示した。


量子論 ボーアらの考え 1920 年代コペンハーゲン派 実在性の否定(局所性の仮定は残した) 電子は「波」 我々が電子を「観測」すると電子の波は一点に収縮
電子が「重ね合わせ」の状態にある。 

「電子は A 点と B 点の両方に同時にいる」ということではなく「電子は A 点か B 点のどちらか一方にいるのだが、どちらにいるかは分らない」ということでもない。

「一個の電子が A 点にいる」状態と「同じ一個の電子が B 点にいる」状態とが、同じ一個の電子の中で重なり合っている。

電子は、我々がそれを観察しようがしまいが、いつでも特定の位置にあるというような従来の見方を続ける限り、あいついで発見された各種の実験結果を矛盾なく整合的に説明することは不可能。


アインシュタインは量子論の不可解な事例を「不気味な遠隔作用」とし、量子力学のコペンハーゲン解釈は間違っているとし、物体は観測の影響を受けることはないという局所実在性を提唱した。

アインシュタインは「隠れた変数理論」で“、粒子の運動量と位置は実際は決まってはいるが人間にはわからないだけ”との解釈をした。

ボームも、電子の見つかる場所は偶然ではなく知られていない未知の「隠れた変数」がそれを決定しているとした。実在性を肯定し決定論の立場に立つ。「量子ポテンシャル論」と呼ばれる。

アインシュタインの手紙の文章である「神はサイコロを振らない」がよく知られている。ここでアインシュタインの神とはキリスト教の神を意味するのだろうが、ユダヤ人であることからユダヤの神あるいはもっと素朴に人間の神概念、自然に対する通念をさしているとも思える。


その他の理論として以下の解釈がある。

実在性の仮定「多世界解釈」「一個の電子が A 点にいる」世界と「同じ一個の電子が B 点にいる」世界とが重なっている。世界は可能性の数だけ枝分れして行く。
多世界解釈が何故このような奇妙な見方をするかと云えば、コペンハーゲン派のいう「波の収縮」は数学的に説明出来ないものだから。

ジョン・ホイーラーは「二十の扉」に喩えている。私の発する一つ一つの質問に対して、先方から「はい」か「いいえ」かの返事が返って来る。私が別の質問の仕方をすれば、それに応じて「答」も変わってくる。

観察に応じて世界が形成されるが、観察に対してどう反応するかを決めているのは先方―世界―である。


物理学者ベルはニールスボーアの提唱をおかしなものと思い、ベルの不等式と呼ばれるものを提案した。

「ベルの不等式」1965 年、ベルは、実在性の仮定と局所性の仮定とがともに正しければ、或る種の不等式が成立つ、ということを数学的に証明した。逆にベルの不等式が成り立たたなければ量子論が正しいとした。


ベルの意図とは裏腹に。

ベルの不等式とは、隠れた変数理論などの局所実在論が満たすべき相関の上限を与える式であるが、量子力学の世界ではこの上限を破ることが実験で判明した。

1960年代以降、このベルの不等式を実験的に検証する試みがなされ1982 年アスペはベルの不等式は成立しないことを実験で示し、ベルの不等式が実験的に否定された。

しかし完全に不成立が納得されたわけではなかった。ベルテストは実験に際して実行者がランダムさを証明できないという点に問題が有り「選択の自由のループホール」と呼ばれてきた。つまり真の意味での“乱数”がなければベルテストにも疑惑が残されていたのだ。

2016年11月30日、10カ国で計10万人以上の参加者がオンラインゲーム「Big Bell Quest」を同時に9700万回プレイした。3Dマップの中をパソコンで1と0のキーを連打して進みゴールを目指すというもので、プレイヤーが連打した記録は研究チームのもとへ届けられ、大量のまったくランダムなバイナリデータを収集することに成功した。

 この完全な乱数を使い研究チームがベルテストを行い局所実在性の検証を行った結果が5月9日に「Nature」オンライン版に掲載されベルの不等式は一部で“破れ”が示される結果となりアインシュタインが間違っていたことが証明された。観測者の状態が量子の状態に影響を及ぼしているのかもしれない。もし我々が完全に自由だった場合、量子もまた完全に自由だ、つまり意識が量子に影響を与える。


同様の意図をもった不等式にCHSH不等式があり、これもまた1982年にアラン・アスペからCHSH不等式の破れを報告された。

1967年コッヘンとシュペッカーは隠れた変数理論が極めて困難となることを数学的に証明し、個々の系について、すべての物理量に同時に確定した値を付与することはできないとした。

アインシュタインの局所的隠れた変数理論は実験的に否定されたことになり、量子論は局所実在論を否定する理論であることが明らかになった。このことで「神はサイコロを振らない」の通念こそ否定される考えとなり、粒子の運動量と位置を同時に正確には測ることができないことを説明しようと試みたアインシュタインの「隠れた変数理論」は支持されなくなった。

アインシュタインはこれ以降、ボーアらの新しい物理学をフォローすることがなくなったと伝えられている。特殊相対理論、一般相対理論で革命的な仕事を成し遂げた彼ほどの天才でも新旧交代の波に押し流されるという事実は世代交代の観点からある種感動的だ。それほどまでに大きな変革、量子力学の出現がミクロの世界の観察を通じて得られた。


量子論と大乗仏教とくに唯識はメタファとして相互の理解を深めることができるのではないか、さらに古典物理学と量子力学のメタファが原始仏教と大乗仏教の関係に示唆を与えるのではないか。

ボーアは次のように述べる。

「原子物理学論との類似性を認識するためには、われわれはブッダや老子といった思索家がかつて直面した認識上の問題にたち帰り、大いなる存在のドラマのなかで、観客でもあり演技者でもある我々の位置を調和あるものとするように努めねばならない。」Wikipedia

仏教の「縁起」は無限次元の網であり空間、時間を通らずに働く。先ず有るのは縁起(関係)であり。

量子論ではこの空を「場」と呼んでいるのではとメタファとしてイメージする。

素粒子とは場に起る状態の変化として出現するのだからがこの縁起によって有る。素粒子から生成する諸のものは場によって起きる。空を「場」と置き換えると諸のものは素粒子と置き換えられ、素粒子から作られる「もの」は「無自性」であり、「空」であるとイメージすることもできる。理解困難な「縁起のゆえに無自性、空」にイメージを与えてくれる。縁起のゆえに無自性は「諸法無我」ともいえるが事物の本性は無我であり、実体がないという、これまた難物の4文字にも同様にイメージを与えてくれる。


では世界を転変させる原動力の場の変化はなぜおきるのか。ボーアは「電子とは本当は何であるのか」を尋ねるのは無意味である。物理学はこの世のものが何であるかを述べるものではなく、この世のものに関して何がいえるかを告げるものである。」

「量子力学とは、時刻t1と時刻t2とで行われる二つの観測を関係づけるアルゴリズムを供給するもの。」

として場の変化を起こす意思のようなものには「尋ねるのは無意味である」として不知の立場を表明している。

ジョン・ホイーラーは「二十の扉」に喩えている。

私の発する一つ一つの質問に対して、先方から「はい」か「いいえ」かの返事が返って来る。私が別の質問の仕方をすれば、それに応じて「答」も変わってくる。観察に応じて世界が形成されるが、観察に対してどう反応するかを決めているのは先方―世界―である。

ジョン・ホイーラーは観察に対してどう反応するかを決めているのは先方―世界―であるとしてなにやら阿頼耶識を連想することを述べている。


青年の肉体の細胞は入れ替わる(人間の細胞は約60兆個で部位にもよるが3ヶ月で入れ替わると言われている。脳のある部分はいれかわらない)が老いても同じ人格は相続され同一人物として認識される。これはなぜかの問いに唯識は答えを与えてくれる。

場の変化を起こす意思のようなものとは何かに直接的なメタファを与えるかどうかは今少し躊躇するが、近いところを巡っている気がする。

青年が同じ人であることの説明は唯識でなされる。

「現行」が「種子」として「阿頼耶識」に「熏習」され自己同一性が保たれる
「現行」は眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識、末那識の七識が活動する刹那を指す。
末那識は眼、耳、鼻、舌、身、意という六つの識の背後で働く自我意識のことで阿頼耶識への連絡の意識と理解してみる。

阿頼耶識は蔵識とも呼ばれ種子を内蔵する場であり、現行は種子を熏習する。熏習された種子は現行を生み、あるいは自らと同じ種子を阿頼耶識に生む。現行と種子は、「現行熏種子」、「種子生現行」、「種子生種子」という連携を通じて若い青年は成長し老いても同一人物として存在する。「種子生種子」は理解が困難だが宿題としておく。

この阿頼耶識が場の変化を起こす意思のようなものとは何かに直接的なメタファを与えてくれる気がするのだが。法(ダルマ)といってもいいのかもしれない。

唯識説は、あらゆる存在は認識された姿として立ち現れているだけであって、根源的なものによって表されたものに過ぎない。しかも根源的なものが認識された姿の背後に実体的に何かが存在すると予想してはならないとされるのでここでまた躓きそうだ。

「場の変化を起こす意思のようなものだが実態はない」つまり「空」ということになる。空のみが場の変化を起こす意思のようなものだとイメージしてみた。

 


その他未整理のメモ

大乗に至って初めて量子力学のメタファに近づいたといえる。

仏教では「草を焼く焔」
仏教では事物を法(ダルマ)

倶舎論は小乗の一派である「説一切有部」の教えを集大成した

法は一刹那の存在 法に運動はない「有刹那なるが故に、定んで行動すること無し」
法がこの世界に生起するのは他の諸法からの働きかけ(因、縁)に依るが、そうして生じた法は一刹那の間だけ存在して、あとは自発的に滅する。

「有刹那」「刹那滅」このような法の連続は「相続」
説一切有部は、法は一刹那の存在ではあるが、それは「有る」のであると主張「説一切有部」と呼ばれるのはそのためである。(説=刹?)

小乗 経量部 法は「仮」大乗 中観派 法は「空」

法の本性は無我 実体がない 三法印(諸行無常、諸法無我、涅槃寂静)の一つ 初期仏教の時代から主張されて来た

これは情報の世界、特にブロックチェインに置き換える譬喩可能か。

「現行」は眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識がそれぞれパケットとして末那識レイヤに所定の阿頼耶識サーバのアドレスが与えられる。刹那刹那に更新される種子データは「現行」に参照され続ける???。

唯識「三界は虚妄にして但だ一心の作るところ」

量子論(標準理論)と重力の理論(一般相対性理論)を総合する「ひも理論」素粒子振動する「ひも」その振動パターンに応じて、一本のひもが様々な素粒子となって現れる。

空海『声字実相義』「五大にみな響きあり」宇宙の全ては響きとして存在する= ひも理論。


僧侶でも学者でも修行者でもない一般人にとって仏教を理解する方法はメタファによる以外に道はないと考えています。

敬愛する紀野一義氏も法華経はイメージで理解すると述べています。法ダルマや阿頼耶識それに空はどのように量子力学で理解できるかを試みてみます。勘違いなどあると思いますがもとより専門家ではないのでご寛恕のほどを。


量子力学の「非局所実在性」が確定

 
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