まさおレポート

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軍資金 8421

2021-10-14 | 通信事業 孫正義

わたしはこの時代の孫さんを直接知っているわけではない。しかし孫さん自身が十分に語っている、そして弟の泰三さんや西和彦も当時の様子をそれぞれの立場で語っている。

孫さんは後年に語っている米国留学の話から見ていくことにしよう。

「僕が16歳で、アメリカに渡ったわけです。そのときに父親が血を吐いて病院に入院している不幸のどん底だった。そのときに僕は一人アメリカに行くと決めた。

家族のためにも、そして家族をさらに超えて、自分が何か事を成す、このことのために、人生を捧げたい。だからわしゃ行ってくる!いうことで涙を振り切って行きました。」

1976年大学の3年生のとき、コンピュータチップとの出会いは突然訪れた。

「19歳のとき。初めてマイクロコンピュータのチップの写真を見た。道で雑誌を読みながら歩いていると未来の都市の設計図のような写真があった。マイクロコンピューターのチップの基盤写真だったということを知りました」と続ける。

孫さんはそれを見て感激し涙を流す。

弟の孫泰三さんは当時の兄の勉強ぶりを次のように述べる。

「彼は一日に18時間勉強したそうです。兄は本当にやったらしいです」

以下孫さんの述懐を記す。

「1日1つ、何か発明をしようということにあてた。

1年間で250、発明しました。そのうちの1つが、世界初の、フルキーボードの自動翻訳機、これを19歳のときに発明しました。

世界的に有名な大学教授、5、6人集めた。先生手伝ってくれ。完成して特許が売れたら先生に全額払う。うまくいかなかったら先生ただ働きです」

マクドナルドの藤田さんに「僕、こんなの作ったんですけど」
「すごそうだけど、うちはハンバーガー屋だからね」 とシャープの佐々木副社長を紹介される。

この発明で1年半で3億9千万円稼ぎだす。

発明で1年半で3億9千万円稼ぎだしたころの思い出を西和彦氏が語る。

「そもそも僕と孫さんは「天才・西。神童・孫」なんて言われた時代もあって。最初に会ったのは、77年くらい。彼が松下電器に自分のところで 開発した電子翻訳機を売り込みに来てて、松下電器の人が引き合わせてくれた。気の強そうな男だなあというのが最初の印象でした」

「天才・西。神童・孫」と言われたかつてのライバルだからこそ語れる、”孫正義”の弱点。から引用

そして学生のときにつくった会社は売却し日本に帰ってきて、ソフトバンクを興すことになった。


この話も後々に語り継がれるだろう。

「デジタル情報革命を通じて人々がより幸せになれる。
より幸福になれる。そういう仕事であれば、人生を賭けるにふさわしいというふうに思ったわけですね。

日本ソフトバンク。福岡の小さな町、雑餉隈というところで会社を興しました。資本金1000万円。アルバイトの社員を2人雇って、僕とアルバイトの2人で会社を興した。

で、彼らにみかん箱の上に乗って30年後の我が社の姿を見よ!これからソフトバンクという会社を興して、立派な事業を興すぞ。情報革命だ!1時間くらい最初の朝礼でブチました。

30年後には豆腐屋さんのように、数の単位を一兆(丁)二兆(丁)と数えるぞ。そしたら1週間たったら二人とも辞めちゃいました。「この人おかしい」「気が狂ってる」と。でも僕の心は一瞬もひるまない。」

日本ソフトバンクは98年には東証一部に上場を果たす。


創業してすぐに勝負に出ました。
人生二発目の勝負であります。

創業一ヶ月後の大勝負。

資本金1000万円の会社です。

大阪でエレクトロニクスショーで名乗りを上げた。資本金1000万円のうち800万円使って、「ソフトバンクという会社を興しました!」と。

ソフトのカタログで200万円くらい使った。

つまり会社を作って一ヶ月で全額使っちゃった。

1週間たったら、電話が1本来ました。

「孫さんですか?」
「はい」
「上新電機と申します。エレクトロニクスショーで、ソフトバンク展示コーナーを見ました。驚きました。素晴らしい、ぜひ取引をしてください」

ゼロの売り上げから、1年ちょっとで30億円の年商になりました。そこから倍々ゲームでしたね。


1995年に孫さんは弟の泰三さんに尋ねる。

「ヤフーって知ってるか?ヤフージャパンを作りたいんだ」と持ちかける。そこからヤフー・ジャパンが始まったと泰三さんは述べる。

(ビジネスアイデアコンテスト2002記念講演で孫泰蔵氏より)

先述の西和彦氏も次のように述べる。

「孫さんの立派なところはいくつもあるけど、一番目にすごいと思ったのは、95年に、まだ社員が5~6人しかおらず、利益も上がっていなかったヤフーという会社に100億円もの投資を行ったことです」

96年に合弁会社としてヤフー日本法人を設立する。


20代の終わりに病気になった。闘病後に大きな借金が残った。

野田一夫氏が当時の孫さんの病気克服とついて回る強運について語る。

「世間では、成功者はみんな運がいい。失敗者はみんな運が悪いと言う。たしかにそうだろうが、むしろ、成功者はみんな、幸運に身を任せず、甘えず、悪運に翻弄されず、屈しないという一言も、付け加えなくてはならない。

孫君は、創業から間もなく慢性肝炎になって社長職を辞し、復帰するまで3年ほどかかったが、この間彼は、自らがめざすべき事業のあり方を徹底的に内省したと言う。

この強運は周りにいた人全員が感じたことではなかろうか」


それをLCRの発明で精算しさらに軍資金を蓄える。

新電電発足当時1987年頃は割安な新電電を使おうとすると事業者識別の4桁を余分にダイヤルしなければならない。LCR(自動事業者識別装置)を電話機に前置すると、自動的に新電電を選択して接続し、事業者識別の4桁を余分にダイヤルしなくて済む。この点に着眼した孫さんは借金返済に成功する。

2002年のとある日に孫さんと社長車で移動中、何かの話からLCR(自動事業者識別装置)の話になり、孫さんが発明したと自分で言い出したので大変驚いた。フォーバルの大久保秀夫氏とともにLCR(自動事業者識別装置)を開発し基本特許は孫さんが保有している。

米国では「スピードダイヤラー」と称する自動ダイヤラーが存在した。これはLCR(自動事業者識別装置)とは似て非なるものであり、単に記憶させた4ケタの事業者番号を顧客が回す相手先電話番号の先頭部分に付け足してダイヤル信号を発出するだけのもので、いずれの会社(AT&TかMCIかなど)が廉価かの判断は一切行わない。

日本のLCRアダプター開発にこのスピードダイヤらーがヒントを与えたのは恐らく間違いないだろう。孫さんが米国留学中にスピードダイヤラーに接していて日本のLCR特許をフォーバルの大久保氏とともに取得したと考えられる。

稲盛邸でLCR(自動事業者識別装置)に関する特許権の販売交渉に行ったのだが価格条件面で折り合いがつかなかった事情はその後のネット情報や元DDIの社員の話を聴いて見えてきた。

買い取りで一旦契約したが翌日に販売契約を撤回したことで稲森さんの激怒を招き、そのことは孫さんにあまり愉快な出来事としては記憶されなかった。

新電電各社の市外電話サービス顧客獲得の伸びはLCRによる所が大きい、孫さんなら折に触れてあれは僕が発明したもので新電電の隆盛は実は僕なんですと社内外で語りそうなものだが、あまり詳しく語りたがらなかった印象があるのは稲盛邸での契約撤回という、事業家としては忸怩たる顛末のためだろう。

その後孫さんは日本テレコムと利用契約を結んだ。稲盛さんはその後に社員TさんにLCR制作を命じ独自のLCRを完成させた。日本高速通信も独自のLCRを開発していたのでそれほど難しい発明ではなさそうだ。しかし新電電草創期にLCRを思いついたそのアイデアの新規性は素晴らしい。後年日本テレコムを買収することになるのもこのあたりに縁がある。

新電電が登場する際に江副氏が稲盛さんに参画を要請するが相手にしてもらえなかったと田原総一郎は書いている。「リクルート事件・江副浩正の真実」田原総一朗 このときの思いが後に孫さんを通信事業に駆り立てたのかもしれない。


30代がやってきました。病気も治ってもう一度仕事にチャレンジする。

上場してすぐに、その当時ソフトバンクの時価総額は2900億円になった。アメリカで、世界最大のコンピューターの展示会「コムデックス」800億円を使って、世界最大の展示会を買収したんです。

出版もコンピューター業界の世界最大の出版社「ジフデービス」という会社があります。2300億円。合計3100億円使ったんです。

宝探しに行くのに一番大切なものは地図と、コンパス。

みなさん宝探しで無人島に行った。何が必要か?
地図とコンパスさえあれば、さっと宝を見つけて、一日で帰れるわけですね。

そしたら食料もそんなにいらない。薬も武器もそんなにいらない。一番大切なのは地図とコンパス。

それに相当するのが、コムデックスと、ジフデービスだと。

で、探し当てた宝が、ヤフーだったわけですね。

当時ヤフーのアメリカの社員が5、6人でした。そのアメリカの社員5、6人のできたばかりのヤフーに100億円投資して、筆頭株主になった。
あわせてヤフージャパンを興しました。

ということで30代の勝負をしました。

(孫正義2011LIVEより編集)


1997年に開催された郵政省主催の「1997年情報通信21世紀ビジョン研究会」が記憶に蘇った。今から思うとこのころまさに米アマゾンと交渉中だったのだ。

孫さんは米アマゾン・ドット・コムの株式を取得する機会があったにもかかわらず、あと3000万ドル(約33億円)が用意できなかった。

孫さんは25日に都内で行った対談で、かつてアマゾン株の3割を取得する契約をする直前までジェフ・ベゾス最高経営責任者(CEO)と交渉が進んだと明らかにした。

孫さんは1億ドルを提示したが、ベゾス氏は1億3000万ドルを主張する。孫さんはその価値はあると思ったが、資金がなく断念した。

現在のアマゾンの市場価値は8600億ドルを超える。もし孫さんが投資していたら、持ち分は2600億ドルになっていた計算だ。ソフトバンクGが保有する中国の電子商取引会社アリババ・グループ・ホールディングの価値は1320億ドル(14.5兆円)に達する。

1997年に開催された郵政省主催の「1997年情報通信21世紀ビジョン研究会」ではじめて孫さんを見たのだが出席委員の間で当時のアマゾンの経営スタイルと株価の話が話題に出たことを思い出す。

当時のアマゾンはこの研究会が開催された1997年5月16日に上場し、赤字を続けていたにもかかわらず株価は初値1.73ドルから5ドル前後と高くなっていた。

研究会メンバーである慶応大ビジネススクールの教授A氏がこのような赤字会社の異常な株価は本来バブルであり、あってはならないものだと批判した。それに対して孫正義氏は手を挙げ、未来の成果を先取りするのが株価であり、アマゾンは正常な株価であると反論した。

経営学の学者が考える株価と実務家の考える株価に対する考え方が伺えて興味深いが、2018年現在1700ドルで時価総額80兆円を越していることからからみると孫正義氏の方が先見性があったことになる。(アマゾンは1995年から2001年まで単年度赤字が続き2002年にようやくゼロベースになりその後黒字が続いている)

孫さんにはこのAmazonが1000倍になったことを1997年から目の当たりに見ており、また自らのアリババが20億円から8兆円に4000倍と化けたことを体験したことで自己の投資先見性を確信しているのではないか。つまり孫正義氏にとってはAmazonが投資刮目の第一歩だったのだ。

そしてこの反論を行ったまさにそのときに上述引用記事の中にある30%株の取得交渉を行っていたのだと株価から推測することができる。1997年に開催された郵政省主催の「1997年情報通信21世紀ビジョン研究会」が1997年で、同年、つまりアマゾンはこの研究会が開催された1997年の5月16日に上場していた。まさにこの当時に交渉中でありアマゾンを深く研究中であったことになる。だから慶応大ビジネススクールの教授A氏の発言に黙っていることはできなかったのだ。

実は軍資金を作る最中で味わったこのときの後悔が後のビジョンファンドへの道へと駆り立てていく。


続く軍資金獲得の道のりを眺めてみよう。

2000年までの2年間、衛星放送に出資しナスダック・ジャパンを立ち上げ日本債券信用銀行(現・あおぞら銀行)の株式を取得した。

孫さん自ら次のように語る。

「40代がやってきました。30代の最後の頂点のところは、インターネットバブルでバーッと株があがっていく。その絶好調のときはすごかったですよ。

僕の個人財産が1週間で1兆円ずつ増えていくんですよ。

買物ということのよろこび、ほしいなあ、とか、ほしいけどどうしようかなあ、とか、迷いとか、喜びという気持ちが、ゼロになる。完全にゼロになる。

ちょっと人間おかしくなるよ。金銭感覚がね。

でもこのときに思ったのは、やっぱりお金よりも人々に喜んでもらえる何かそういうことをしたい。そのことばっかりだった。

40代ひと勝負かけよう。お金以上によろこんでもらえることをしよう。

その直後になんと、ネットバブルが崩壊。

1年間でソフトバンクの株式価値は、100分の1に減った。100分の1。いらなーい、なんて贅沢なことを言ってられなくなった。

どうせお金ない、ここでもう最後の勝負行くぞ。いうことで既に準備しはじめていた大勝負、ブロードバンドに行くぞ!

で、いざ、というときに、どん底でした。
でももう思い立ったら引けない!ということで、名乗りを上げた。」

1999年孫さんは中国でIT企業の社長を20人、1人10分間ずつ面会した。そのなかにアリババ集団の創業者、ジャック・マーがいた。

孫さんはプレゼンを6分聞いてマーが望んでいた額よりも多い20億円の出資を決める。

アリババ集団は2014年にニューヨーク証券取引所に上場し時価総額は25兆円。筆頭株主だったソフトバンクグループが持つ含み益は約8兆円になった。


1957年 8月11日 安本(孫)三憲の次男孫正義が佐賀県鳥栖市に出生

1973年 久留米大学附設高等学校に入学。秋に中退、翌年渡米

1974年 孫正義が久留米大学附設高校を中退し渡米、高校卒業検定試験合格でサンフランシスコセラモンテ高校を3週間で退学しホーリー・ネームズ・カレッジへ進学

1976年 スティーブ・ジョブズがアップルコンピュータ設立

1977年 孫正義がホーリー・ネームズ・カレッジからカリフォルニア大学バークレー校経済学部3年生に編入

1978年 一時帰国、共同開発した電子翻訳機の営業のため、シャープ中央研究所に佐々木正を訪ねる

1978年 孫正義が日本へ一時帰国し手製の自動翻訳機をシャープに販売、同じバークレー校に学ぶ大野優美と結婚

1979年 米国にてユニソン・ワールド社設立 日本の中古インベーダーゲーム機を輸入販売

1980年 孫正義がカリフォルニア大学バークレー校を卒業し日本へ帰国

1981年 孫正義が福岡市に「ユニソン・ワールド」東京に「日本ソフトバンク」設立(ソフトバンク創業)

家業のパチンコ店の全国展開を断念する

1982年 ハドソンと契約しPCソフト卸売市場を独占、「Oh! PC」「Oh! MZ」でPC関連書籍出版に進出

1983年 孫正義が慢性肝炎療養のため会長に退き日本ソフトバンクで社長に日本警備保障(現セコム)副社長の大森康彦を招聘

1986年 孫正義がステロイド離脱療法で慢性肝炎から蘇生し日本ソフトバンク社長に復帰(社長解任の大森康彦は会長職へ)

1987年 日本ソフトバンクが大久保秀夫のフォーバルと日本初のLCR「NCC-BOX」を共同開発、新電電からのロイヤリティで巨利を得る

1990年 日本ソフトバンクがソフトバンクへ社名変更し孫正義は韓国籍から日本に帰化

1992年 ソフトバンクが子会社「ソフトベンチャーキャピタル」設立(後にSBIホールディングス)

1994年 ソフトバンクが店頭市場に株式上場、米国にSoftBank Holdings Inc.を設立しM&AやIT関連企業への投資を本格化

1995年 ジェリー・ヤンとデビッド・ファイロがYahoo!設立、孫正義のソフトバンクが出資し一時筆頭株主となる

1995年 孫正義のソフトバンクがPC見本市「コムデックス」の主催権を買収

始 1995年 Microsoftが「Windows 95」発売、日本市場開拓のため孫正義のソフトバンクと合弁で「ゲームバンク」設立(1998年業績不振で撤退)

1995年米Yahoo! に出資
1996年Yahoo! JAPAN 設立→インターネット市場参入

ソフトバンクが米国Yahoo!と合弁で「Yahoo! JAPAN(ヤフー株式会社)」設立、間もなくYahoo!が設立1年でMASDAQ上場を果しITバブルを牽引

ソフトバンクが豪News Corp.とJスカイB(スカパー!)で事業提携

ソフトバンクが豪News Corp.と合弁会社を設立しテレビ朝日(旺文社メディア)買収に挑むが断念

1997年 ソフトバンク傘下のヤフー(Yahoo! JAPAN)が店頭市場に株式上場

1998年 ソフトバンクが東京証券取引所1部昇格を機に純粋持株会社移行を決定しグループ再編に着手

1998年 ソフトバンクの出資でネットオークション運営会社「オンセール」を設立し弟の孫泰蔵に経営を任せる

1998年 長銀経営破綻、リップルウッドが10億円で買収

1999年 「ソフトバンク・テクノロジー」が店頭市場に株式上場、孫正義ソフトバンクの純粋持株会社化を完了

2000年 孫正義のソフトバンクと米国NASDAQの合弁会社が大証に新興企業向け証券市場「ナスダック・ジャパン」開設(2002年業績不振で撤退し大証ヘラクレスへ改組)

2000年 孫正義のソフトバンク傘下の「ベクター」「ソフトバンク・インベストメント(→SBI)」がナスダック・ジャパンに株式上場

2000年 ソフトバンク・オリックス・東京海上が連合し経営破綻した日本債券信用銀行をで買収しあおぞら銀行設立。のソフトバンクは株価急騰で株式時価総額が国内2位

 

 


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