原始仏教つまりブッダの語ったことをそのまま記したとするスッパ・ニータには現代の仏教から みて意外な事がしるされている。意外に感じた点を9項目まとめてみた。それにしてもシンプルだなと思う。ブッダは論争するなと述べているがそれに反し後のヒンドゥやバラモンとの論争で教義が変遷していったのだろう。
以下はスッパ・ニータなどを並べ変えてみただけで見解などは記していない。いわばネットで集めた原始仏教の整理だなのようなものとご理解ください。
①最初期の縁起の思想は何ら輪廻転生説を前提としていないが、反対するものも含んでいない。業とその果報を容認していた。
見よ。他の(生きている)人々はまた自分のつくった業にしたがって死んで行く。かれら生あるものどもは死に捕らえられて、この世で慄えおののいている。
Sn.1075 「滅びてしまったその人は存在しないのでしょうか?あるいはまた常住であって、そこなわれないのでしょうか?聖者さま。どうかそれをわたくしに説明してください。あなたはこの理法をあるがままに知っておられるからです。」
Sn.1076 師は答えた、「ウパシーヴァよ。滅びてしまった者には、それを測る基準が存在しない。かれを、ああだ、こうだと論ずるよすがが、かれには存在しない。あらゆることがらがすっかり絶やされたとき、あらゆる議論の道はすっかり絶えてしまったのである。」
『最初期の縁起の思想は何ら輪廻転生説を前提としていないが、またそれに対して決定的に反対するものも含んでいない。ただ業とその果報を容認していたから、それが輪廻転生説と結びついて発展したということは極めて自然のなり行きであったのであろう。』中村元選集・第14巻
②最初期の仏教においては、ニルヴァーナは、現世において眼のあたりに体現されるもの。
最初期の仏教においては、ニルヴァーナは、現世において眼のあたりに体現されるものであったが、時代の経過とともに、ニルヴァーナは死後に起こるものだと考えられ、ニルヴァーナとは聖者の死を意味するようになったのである。中村元選集・第13巻・P.368
修行僧たちよ、私は以前も今も、苦しみと苦しみの止滅だけを教えるのである。中部経典22
しかも生があり、老いることがあり、死があり、憂い、苦痛、嘆き、悩み、悶えがある。わたしは現実に(現世において)これらを制圧することを説く。中部経典63
③形而上学的にいかなる実在をも前提していない。
中村元選集・第14巻
仏教は恐らく、我執をなくする方便として説かれた無我説を、理論的な問題として固着しすぎたかたむきがある。中村元選集・第18巻 P.43
④最高神のようなものをも認めていない。
中村元選集・第14巻
⑤欲望の消滅
Sn.801 かれはここで、両極端に対して、種々の生存に対して、この世についても、来世についても願うことはない。諸々の事物に関して断定を下して得た固執の住居は、かれには何も存在しない。
Sn.779 想いを知りつくして、激流を渡れ。聖者は、所有したいという執著に汚されることなく、(煩悩の)矢を抜き去って、つとめ励んで行ない、この世もかの世も望まない。
Sn.805 人々はわがものであると執着したもののために憂える。(自己の)所有したものは、常住ではないからである。この世のものはただ変化し、消滅すべきものである。
何物も自分のものでない、と知るのが智慧であり、苦しみから離れ、清らかになる道である。 ダンマパダ
⑥供養の否定
若い人も壮年の人も、愚者も賢者も、すべて死に屈服してしまう。すべての者は必ず死に至る。
かれらは死に捉えられてあの世に去って行くが、父もその子を救わず親族もその親族を救わない。
見よ。見まもっている親族がとめどもなく悲嘆にくれているのに、人は屠所に引かれる牛のように、一人ずつ、連れ去られる。
このように世間の人々は死と老いとによって害われる。それ故に賢者は、世のなりゆ
きを知って、悲しまない。
汝は、来た人の道を知らず、また去った人の道を知らない。汝は(生と死の)両端を見きわめないで、わめいて、いたずらになき悲しむ。
だから(尊敬されるべき人)の教えを聞いて、人が死んで亡くなったのを見ては、「かれはもうわたしの力の及ばぬものなのだ」とさとって、嘆き悲しみを去れ。
⑦死の覚悟
花を摘むのに夢中になっている人が、未だに望みを果たさないうちに、死神がかれを征服する。』(ダンマパダ47~48)
「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟しよう。このことわりを他の人々は知っていない。しかし、このことわりを知る人があれば、争いはしずまる。ダンマパダ(1・6)
⑧非仏教徒でも天に生まれることができる
Sn.894 一方的に決定した立場に立ってみずから考え量りつつ、さらにかれは世の中で論争をなすに至る。一切の(哲学的)断定を捨てたならば、人は世の中で確執を起こすことがない。
Sn.800 かれは、すでに得た(見解)[先入見]を捨て去って執著することなく、学識に関しても特に依拠することをしない 。人々は(種々異なった見解に)分かれているが、かれは実に党派に盲従せず、いかなる見解をもそのまま信ずることがない。
Sn.837 わたくしはこのことを説く、ということがわたくしにはない。
諸思想は部分的に真理を伝えているという主張はおのずから寛容の態度を成立せしめる 中村元選集・第18巻P.178
仏教は他の諸信仰をつねに尊敬し、力によってそれらに取って代ろうとはしなかった。当時宗教的論客のあいだでは、自分たちの教説を誇示し、他人の教義を貶すという傾向が行われていたが、ブッダはそれを斥けた。ブッダは仏教徒が仏教徒に対してのみならず非仏教徒に対しても施与を行うことを勧めている。かれは非仏教徒でも天に生まれることができるということを認めていた。(DN.vol.Ⅲ,p.571)或るアージーヴィカ教徒が業を信じていたために天に生まれることができたことをブッダは述べている。真に道徳的な生活を起こっていたバラモンたちをブッダは非常に尊敬していた。中村元選集・第18巻P.184
⑨見解・伝承の学問・戒律・道徳・思想では清らかになるとは説かない。
なるほど仏教では種々なる思想の部分的真理を承認していたが、それを承認していたという事実は、実は人間存在のうちに普遍的理法なるものがあるということを前提としているわけである。人はあらゆるものを疑い、懐疑的になることができる。しかし懐疑的な思考という現象それ自体は、或る種の普遍的な理法ーそれを把握することは非常に困難であるかもしれないがーの存することを証するものである。疑ういうことも、何らかの合理的思惟の前提があってはじめて可能なのである。何らかの意味の普遍的理法を承認するのでなければ、論理的に首尾一貫した思考を行うことができない。(P.213~214)
真理を見る立場に立つと、既成諸宗教のどれにもこだわらなくなる。どの宗教に属していてもよい。所詮は真理を見ればよいのである。原始経典によると、仏教外の一般の修行者(サマナ)やバラモンたちであっても、人間に関する真理を理解するならば、仏教を実践していることになるというのである。
そうしてまた仏教は出発当初においては、諸宗教を通じて一般の修行者やバラモンたちに「真の修行者たるの道」「真のバラモンたる道」を明らかにしようとしたのであって、それ以外に別のものをめざしてしたのではなかった。したがって釈尊は必ずしも他の諸宗教を排斥しなかったといわれる。ジャイナ教の行者にさえも施食を与えよと説いている。(MN.No.56)」(P.224)
『修行僧らよ、われは世間と争わない。しかし世間がわれと争う。法を語る人は、世間の何人とも争わない。
世間の諸の賢者が「無し」と承認したことを、われも「無し」と語る。世間の諸の賢者が「有り」と承認したことを、われもまた「有り」と語る。
世間の諸の賢者が「無し」と承認したことを、われも「無し」と語るとは何のことであるのか?常住・常恒・永久にして変滅をうけることのない物質的なかたちなるものは存在しない、と世間の賢者によって承認されているが、われもまた、それは存在しない、と語るのである。』(Sn.Ⅲ,p.138)
Sn.884 真理は一つであって、第二のものは存在しない。その(真理)を知った人は、争うことがない。かれらはめいめい異なった真理をほめたたえている。それ故に諸々の<道の人>は同一の事を語らないのである。
Sn.837 わたくしはこのことを説く、ということがわたくしにはない。諸々の事物に対する執著を執著であると知って、諸々の偏見における(過誤を)見て、個執することなく、省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た。
Sn.789 もしも人が見解によって清らかになり得るのであるならば、あるいはまた人が知識によって苦しみを捨て得るのであるならば、それは煩悩にとらわれている人が(正しい道以外の)他の方法によっても清められることになるであろう。このように語る人を「偏見ある人」と呼ぶ。
Sn.790(真の)バラモンは、(正しい道の)ほかには、見解・伝承の学問・戒律・道徳・思想のうちのどれによっても清らかになるとは説かない。かれは禍福に汚されることなく、自我を捨て、この世において(禍福の因を)つくることがない。
Sn.794 かれははからいをなすことなく、(何物かを)特に重んずることもなく、「これこそ究極の清らかなことだ」と語ることもない。結ばれた執著のきずなをすて去って、世間の何ものについても願望を起すことがない。
〔ニルヴァーナとは〕一切を認め知ること(有所得)が滅し、戯論が滅して、めでたい〔境地〕である。いかなる教えも、どこおいてでも、誰のためにも、ブッダは説かなかったのである。龍樹『中論』(第25章・24)