倉田百三の「出家とその弟子」ウンベルト・エーコの「薔薇の名前」は似ているなと思ったが、おそらく師が弟子に語りかけるスタイルがそう思わせるのかもしれない、そういえばカラマゾフの兄弟のゾシマ長老が弟子に語りかけるのにも似ている。この書物たちは互いに語り合っているように思える。
そのときまで書物はみな、人間のことであれ神のことであれ、書物の外にある事柄について語るものとばかり思っていた。それがいまや、書物は書物について語る場合の珍しくないことが、それどころか書物同士で語りあっているみたいなことが、私にもわかった。「薔薇の名前」
では具体的にどのような箇所が語り合っているように思えるのか。テーマごとに三著作の抜粋を並べてみた。掘り下げるのはまた後の作業として、とにかくフィーリングで並べてみた。
孤独 寂しさ 死
出家とその弟子
「親鸞:おまえの寂しさは対象によっていやされる寂しさだが、私の寂しさはもう何物でもいやされない寂しさだ。人間の運命としての寂しさなのだ。それはおまえが人生を経験していかなくてはわからないことだ。おまえの今の寂しさはだんだん形が定まって、中心に集中してくるよ。その寂しさをしのいでからほんとうの寂しさがくるのだ。今の私のような寂しさが。しかしこのようなことは話したのではわかるものではない。おまえがおのずから知っていくよ。唯円:では私はどうすればいいのでしょうか。親鸞:寂しい時は寂しがるがいい。運命がおまえを育てているのだよ。ただ何事もひとすじの心でまじめにやれ。ひねくれたり、ごまかしたり、自分を欺いたりしないで、自分の心の願いに忠実に従え。それだけ心得ていればよいのだ。何が自分の心のほんとうの願いかということも、すぐにはわかるものではない。さまざまな迷いを自分でつくり出すからな。しかしまじめでさえあれば、それを見いだす知恵がしだいにみがき出されるものだ。唯円:あなたのおっしゃることはよくわかりません。しかし私はまじめに生きる気です」
「親鸞:四季の移り変わりの速いこと。年をとるとそれがことに早く感じられるものだ。この世は無常迅速というてある。その無常の感じは若くてもわかるが、迅速の感じは老年にならぬとわからぬらしい。もう一年たったかと思って恐ろしい気がすることがあるよ。人生には老年になるぬとわからない寂しい気持ちがあるものだ。唯円:世の中は若い私たちの考えているようなものではないのでしょうね。親鸞:『若さ』のつくり出すまちがいがたくさんあるね。それがだんだん眼があかるくなって人生の真の姿が見えるようになるのだよ。しかし若い時には若い心で生きていくよりないのだ。若さを振りかざして運命に向かうのだよ。純な青年時代を過ごさない人は深い老年期を持つこともできないのだ」
「親鸞:恥ずかしながらこのわしも、この期に及んでもまだ死にともない心が残っている、それが迷いとはよく知っているのだがな。あさましいことじゃ。わしは一生の間煩悩の林に迷惑し、愛欲の海に浮沈しながらきょうまできた。たえず仏様の御名を呼びながら、業の催しと戦ってきた。そして墓場に行くまでその戦いを続けねばならないのだ。唯円、このたいせつな時に私のために祈ってくれ。わしはそれを必要とする。わしは心をたしかに保たなくてはならない。一生に一度の一大事をできるだけ、恥をすくなくして過ごすためにな。わしはそのために祈っている。空澄み渡る月のように清らかな心で死にたい」。
薔薇の名前
「いったいなぜ、キリストは笑ったと、福音書は決していわないのですか?」・・・「キリストが笑ったかどうか、という疑問は、無数の人間たちが抱いてきた。そういう、問題に私はあまり興味を覚えない。きっと笑わなかっただろう
人間が考えなければいけないことは、唯一つだけだ。この年になってやっとわかった、それは死だ。
ウベルティーノと話していると、地獄というものは裏側から見た天国に過ぎないような気がしてくる。
カラマゾフの兄弟
もしすべての人に見棄てられ、むりやり追い払われたなら、一人きりになったあと、大地にひれ伏し、大地に接吻して、お前の涙で大地を濡らすがよい。そうすれば、たとえ孤独に追いこまれたお前をだれ一人見も聞きもしなくとも、大地はお前の涙から実りを生んでくれるであろう。
愛 恋
出家とその弟子
「唯円:では恋をしてはいけませんね。親鸞:いけなくてもだれも一生に一度は恋をするものだ。人間の一生の旅の途中にある関所のようなものだよ。その関所を越えると新しい光景が目の前に開けるのだ。この関所の越え方のいかんで多くの人の生涯は決まると言ってもいいくらいだ。唯円:そのように重大なものですか。親鸞:二つとないたいせつな生活材料だ。まじめにこの関所にぶつかれば人間は運命を知る。愛を知る。すべての知恵の芽が一時に目ざめる。魂はものの深い本質を見ることができるようになる。いたずらな、浮いた心でこの関所に向かえば、人は盲目になり、ぐうたらになる。その関所の向こうの涼しい国をあくがれる力がなくなって、関所のこちらで精力がつきてへとへとになってしまうのだ。唯円:では恋と信心は一致するものでございましょうか。親鸞:恋は信心にはいる通路だよ。人間の純なひとすじな願いを突きつめていけば、皆宗教的意識にはいり込むのだ。恋するとき人間の心は不思議に純になるのだ。人生のかなしみがわかるのだ。地上の運命に触れるのだ。そこから信心は近いのだ」
「唯円:・・・けれどあの女を振り捨てる気にはなれません。あの女に罪はないのですもの。振り捨てねばならない理由が見つからないのですもの。私はどうしても恋を悪いものとは思われません。もし悪いものとしたらなぜ涙と感謝とがその感情に伴うのでしょう。あの人を思う私の心は真実に満ちています。胸の内を愛が輝き流れています。湯のような喜びが全身を浸します。今こそ生きているのだというような気がいたします。ああ、私たちがどんなに真実に愛し合っているかをあなたがたが知ってくださったら! 私は自分の心からわいて起こる願いをたいせつにして生きたいと思います。その願いが悪いものでない以上は、けっしてあきらめまいと思います」
薔薇の名前
私は知性では彼女を罪業の火種であると心得ていたのに、感性ではあらゆる恩寵の隠れ家であるかの如くに捉えていた。
まさに森羅万象が彼女のことを語りかけてくるみたいであり、そのなかにあって、私は願っていた。そう、今一度だけ、彼女に会いたい。
愛ハ、認識ソノモノヨリモ遥カニ強イ認識力トナル
いや、むしろ目の中で。太陽の光線のなかで、鏡の映像のなかで、何ごともない事象のあちこちに拡散した色彩のなかで、濡れた葉に照り返す陽射しのなかで、光として感じとられる神・・・・・・そのようにして捉えた愛のほうが、被造物のうちに、花や草や水や風のうちに神を讃えた、フランチェスカに近いのではないか?この類の愛にはいかなる裏切りも潜んでいない。それに引き換え、肉体の触れあいのうちに感じた戦慄を、至高者との対話にすり変えてしまう愛は、わたしには好きになれない
カラマゾフの兄弟
兄弟たちよ、愛は教師である。だが、それを獲得するすべを知らなければいけない。なぜなら、愛を獲得するのはむずかしく、永年の努力を重ね、永い期間をへたのち、高い値を払って手に入れるものだからだ。必要なのは、偶然のものだけを瞬間的に愛することではなく、永続的に愛することなのである。偶発的に愛するのならば、だれにでもできる、悪人でも愛するだろう
真理
出家とその弟子
「親鸞:およそ真理は単純なものです。救いの手続きとして、外から見れば念仏ほど簡単なものはありませぬ。ただの六字(=南無阿弥陀仏)だでな。だが内からその心持ちに分け入れば、限りもなく深く複雑なものです。・・・私の心を著しく表現するなら、念仏はほんとうに極楽に生まるる種なのか。それとも地獄に堕ちる因なのか、私はまったく知らぬと言ってもよい。私は何もかもお任せするものじゃ。私の希望、命、私そのものを仏様に預けるのじゃ。どこへなと連れて行ってくださるでしょうよ」
薔薇の名前
なぜかわからぬが、哲学者たちの記述は完璧であっても、実際にそのとおりに作動した試はない。それに引き換え、農夫の鎌は、いかなる哲学者にも記述された例はないが、つねに過ちなく切れるものだ
カラマゾフの兄弟
孤独におかれたならば、祈ることだ。大地にひれ伏し、大地に接吻することを愛するがよい。大地に接吻し、倦むことなく貪婪に愛するがよい。あらゆる人々を愛し、あらゆるものを愛し、喜びと熱狂を求めるがよい。喜びの涙で大地を濡らし、自分のその涙を愛することだ。その熱狂を恥じずに、尊ぶがよい。