パラソル以前の販売方法模索時代はどうだったのか。
ADSLの販売でも公正取引委員会からは何回も注目を浴びた。景品表示法違反の疑いを他社から指摘されたために公取が乗り出したのだがすぐに取りやめたために排除命令などの大きな問題にはならなかった。
不当景品表示法の存在は当時どうにも孫正義氏のキャラクターに合わなかったようで、様々な顧客獲得のアイデアが法務部門の反対意見にもかかわらず彼の口から出てくる。
あるときADSLサービスの獲得にアイデアを絞っているときランボルギーニやアルファロメオなどの超高級車を景品にしたらどうかという提案があった。
流石に会議に参加しているメンバーからは「一般顧客は超高級車を収容するガレージなどを持っていない」などの反論や特に法務部門から景表法違反だとの強い反対の声が上がり流れたことがある。
孫さんはモデムお持ち帰り作戦を語る。
「皆さんが小学生、中学生の時に、あらゆる駅前でYahoo!BBの赤い袋が、タダです、持って帰ってください、と。
ブロードバンド体験してください。これで日本のインターネットが速くなりますと言って、それで日本中でタダで配りまくったということであります。
ネットバブルが弾けて金がない時にようやるわ、ということ。
でもそれはただひとつの想いだったわけです。
参入目的。志。事を成す。」
SoftBank World 2017
モデムを街でお持ち帰りさせるパラソル営業をはじめる。持ち帰ってゴミ箱に捨てられる、あるいは不良バイヤーが組織的に集めて海外に売りさばくなど、大きなリスクはいくらでも考えられたがあえてこれを実行した。
結果的に特に大きな傷を負う事もなかった。
数十万ものモデムが見も知らぬ人の手に預けられて大きなロスもなく顧客宅でADSLサービスに使われるなどは世界広しと言えども日本でのみ唯一通用する販売手法だろう。
孫さんが寝ても覚めても販売手法に関心をもっていた2002年のころのこと、ある会議で聞いた話を紹介しよう。
ある夜半に突如、電車の中つり広告とサムソンの液晶パネルに関連したアイデアを思いついた。
朝の始発4時になるのが待ち遠しく、始発電車に乗り込んで実地検分した。孫さんにしてはめずらしく欠伸の多い日だった。思い立つといてもたってもいられなくなる。
孫さんがソフトバンク営業部隊の手を借りずに自力で販売手法を模索していた時代、つまりパラソル営業が始まる以前から話を始めたい。
日本全体のADSL顧客数は2001年11月に100万を超えたがそれから3か月後の2002年2月までにさらに100万顧客が増えたことになる。この後日本全体で月に50万以上の顧客獲得の伸びを示し始める。FTTHは5月時点で5万程度であり、ADSLにおおきく水をあけられる。
2002年4月にはソフトバンクがIP電話「BBフォン」を開始、日本国内と米国は3分7.5円、BBフォン同士は無料と驚異的な価格設定だった。
後の携帯電話での自社間無料の萌芽がみられ、7月にはBBケ-ブルテレビが始まり、電話、インタ-ネット、映像サービスというトリプルサービスが完成する。
2002年9月にはソフトバンク単独で100万加入を達成、開業からちょうど1年目、この100万は既に2001年の9月で近い数の申し込みがあったので、1年をかけてようやくこの申し込みを顧客に変えた。整備不良で難離陸の末にようやく高度1万メートルの安定飛行に切り替わった記念すべき月だ。
100万加入達成を目前にした2002年8月を堺に孫さんはADSLの販売に頭を切り替えた。
最重要の目標である単年度黒字の200万顧客獲得、株主に約束した累積黒字化300万顧客に向け、販売手法を熱心に考え始めた。過労で引きこんでいっこうに治らない夏風邪を押して8月にもかかわらずひざ掛けをして電気スト-ブの前にいたのが記憶に残っている。
孫さんが消費者の善意に期待する事例はモデムのお持ち帰りが代表例だが、他に一例思い出したので記しておく。IP電話開始当初、試験サービス期間中は無料で無制限にIP電話を利用できた時期がある。このときも無料電話を無制限に利用可能とすると悪質な利用者が現れて他人に利用させて不当なビジネスを営むのではないか等の危惧が社員から起こった。社員たちははらはらして推移を見まもったが結果的にはそうした悪質ユーザーは一例が有ったのみで終わった。
既にいろんな孫正義本で紹介されている話だが、このころ孫さんの口から会議でよく聞いた話がある。
孫さんの父があるとき喫茶店を経営したが立地が悪くて客が来ない。息子の孫少年に相談したところ、コーヒー無料券を自分でデザインして作り、それを片っ端から配ることになった。
ただ券で多くの客を呼び寄せ、無料のコーヒーは赤字だがカレーライスやケーキなどを注文してくれるので儲かり、繁盛させたという逸話だ。
この無料で最初に顧客を獲得する作戦は通信ビジネスでも多用されてきた。
ADSLサービスの2ヶ月無料キャンペーン、パラソルのモデム無料持ち帰りなど、すべてこの「コーヒー無料」で顧客獲得が原点だ。携帯ビジネスでも早速「通話料0円」などを広告で打ち出したが、公正取引委員会からは何回も注目を浴びた。
景品表示法違反の疑いを他社から指摘されたために公取が乗り出したのだがすぐに中止しために排除命令などの大きな問題にはならなかった。
不当景品表示法の存在は当時どうにも孫さんのキャラクターに合わなかったようで、様々な顧客獲得のアイデアが孫さんの口から出てくる。
あるときADSLサービスの獲得にアイデアを絞っているとき
「ランボルギーニやアルファロメオなどの高級車を景品にしたら注目されるんじゃないか。それぐらいやらんと魅力感じないやろ」
と孫さんが提案する。
「社長、一般顧客は超高級車を収容するガレージを持っていないですよ。もらっても困ります」とスタッフはすかさず茶々をいれるように反論する。法務部門からそれは景表法違反だとの強い反対の声が上がる。社内の風通しがよく、コンプライアンス意識は健全に働いていた。
ソフトバンクがDSLサービスを始めた次の年の2002年夏、(9月の100万加入達成を目前にした頃だから8月であったと思う)ソフトバンク孫さんはひと夏を電話セ-ルスによる販売手法に熱心に取り組んだ。
ADSLサービス開始当初のサービス開始が滞り、溜りにたまった顧客申し込みがようやくサービス開始して一段落し、その後安定的に顧客が増加し続けていた。
しかし株主に約束した300万顧客(これは累積黒字化を意味する)、あるいは最重要の目標である単年度損益分岐点の200万顧客までの伸び率が思ったほどではなかった。
孫さんはなかなか治らない夏風邪を押して次の販売手法は何かと日々考えに考えていた。冷房が寒かったのか、8月と言うのにひざ掛けをかけて電気スト-ブの前にいたのが記憶に残っている。
孫さんの経営スタイルは多くの特徴を持つが、もっとも特徴的なことは、この長時間考え続けるという事だろうとわたしは思う。とにかく朝早くから夜遅くまで考えに没頭する。当然疲労困憊して夜は酒でも飲んでリラックスしたくなるのが並の経営者であろうが、この人はますます多幸感に包まれる。
今でこそ携帯電話のCMを大々的に継続的に打っているソフトバンクだが、当時はテレビ広告などに金を使う事を「笊で水を掬うものだ」との認識を持っており、そういった発言もしばしば幹部会議では聞かれた。
毎回のように会議に電通スタッフが呼ばれていたが提案が採用されるのはかなりあとになってからだった。
孫さんは当初はADSL販売促進にテレビ広告を使う気持ちは毛頭なく、もっと具体的な直接的手ごたえのある販売促進手法を求めていた。
孫さんの言葉では
「科学的販売手法を構築する」
という事で会議でも一時「多変量解析」との統計学用語が連発された。販売促進を「科学したい」表れだった。統計学上の厳密な意味での「多変数解析」はさておき実践的な売れる為の要因分析をデータ(グラフ)から読み取ろうとしていた。今でいえばビッグデータ+機械学習の萌芽だった。
例えば街頭販売ではどの曜日が売れるのか、朝昼夜のどの時間帯がもっとも売れるのか、県ごとに特性があるのか、地下街がよいのか鉄道駅構内がよいのか、繁華街のコ-ナ-がよいのか、あるいはちょっと外れがよいのか等々、考えられる限りのこれらの販売パタ-ンを変数と呼び、「多変量解析」を孫さん用語として社内で多用していた。
2002年の夏の会議はこの分析に多くの時間を費やした。この「多変量解析」の成果がパラソル営業の進化へとつながっていく。
孫さんはある時に米国の伝説的セ-ルスマンの現した書籍(「売る広告」への挑戦-ダイレクトマ-ケティングの父・ワンダ-マン自伝)に感銘を受け、その本を全社員に配布した。
全員に感想文を書かせ提出した社員には商品券をプレゼントする。著作の中には、「著者が顧客の誕生日に合わせてコンタクトする」などの実例エピソ-ドが書かれていた。
孫さんは「俺は毎朝出勤前にサウナに入ってこれを読んでる」と語っていた。
孫さんはこれまで対面販売つまりB toCビジネスの経験がなく、初めて顧客販売手法に頭を巡らせた。
2001年9月11日にニューヨーク、ワシントンで同時多発テロが発生した。当日午前中にソフトバンクの仮設社長室(当時ADSLの開始時で作業場に仮設社長室を設けていた)に呼ばれて入ると孫さんとKさんが大型プロジェクタスクリーンに映し出された画面に見入っていた。
孫さんは椅子から乗り出すように見入っている。
わたしは「なんですかこれ。映画ですか」と尋ねる。
「大変なことが起きたみたいだよ」と孫さんが応える。
CNNのキャスタ-が何度も何度も叫ぶようにアナウンスしている。リアルタイムの事件だとようやく気が付き驚愕した。
孫さんは映し出されるツィンタワーの崩壊に随分長い間見入っていた。
その後の会議で
「世界は戦争になる。うかうかしていられない」と自らに言い聞かせるように社員に訴えた。
それまで東京駅の近くにあった東京めたりっくの社員を日本橋箱崎の2階に集めた。ADSLの開通工事が遅々として進んでいなかったので東京めたりっく社員の応援をお願いしていたのだが準備に手間取っていた。東京めたりっく社員の箱崎移動がこの日を境に火のついたように走り出した。
突然の勤務地移動に東京メタリックの社員たちは驚いたことと思うが、孫さんが引っ越しを決断して2週間で移動を終えた。9.11が自らの経営の強い危機感と結びつき、東京メタリックの社員をNTT工事申し込み遅延の切り札にすることにつながった。
臨戦体制の現れはさらに台風作戦、そしてパラソル作戦につながっていく。
台風と9.11が孫正義氏の頭の中でどう結びつくのかといぶかしむ読者も多いと思うのでもう少し説明がいるだろう。台風は災厄であり、9.11はさらに大災厄だ。
9.11の頃に台風シーズンが到来した。あるテレマーケティング会社が孫さんにADSLを販売するアイデアとして台風作戦を提案した。そのアイデアに惹かれた孫さんはIさんとわたしを呼び、熱病にかかった陶酔した人のような目で台風作戦の素晴らしさを説明した。
台風は九州から中国、四国、本州から東北、北海道に抜ける、このようにテレマーケティング対象地域を重点的にまとめて移していくと極めて効率的、計画的な販売が可能である、NTT局舎工事も計画的にできる、販売数も統計的に予測できると提案されたのだ。
特に販売数も統計的に予測できるとの提案に心を激しく揺さぶられた。
この頃の孫さんは広告マーケティングは効果が見えないもの、ザルに水を流すようなものだとの思いを持っていた。会議でもそのように発言していたが販売数も統計的に予測できるという点が孫さんの琴線に触れた。
このアイデアが形を変えてはパラソル販売という究極のプッシュ営業に結びついていく。
2011年(平成23年)3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震でも孫さんは心から震えた。これが再エネ事業や100億円寄付などの行為に直結する。
2001年9月11日といい、こうした危機に心から反応する。人によっては過激に見えるほど反応する。
台風作戦は思ったほどの成果をあげなかった。ついで提案を受けたのが「決着率作戦」だった。
提案を受けた数日後の夜7時からから新宿にある電話販売会社のコ-ルセンタに夜ごと日参してその方法や成果を検討・討議する日々が始まった。
コ-ルセンタの業務が終了する7時、オペレ-タがまだ残っている同じフロアで孫さんを中心に作戦会議が始まる。時には孫さん自らオペレ-タの横に座り対応ぶりを聞き入っていた。
夜食の弁当を喰いながら作戦会議は始まり、終わるのは夜の12時、1時となり深夜の新宿オフィス街を眺めながら帰途に就く日が続いた。
実際に電話を掛けてセ-ルスを行うオペレ-タは学生やフリ-タなどの非常勤アルバイトだ。彼らの内でも成績の良いものとそうでないものが自ら分かれる。成績の優秀なバイトスタッフから孫さんは直接に熱心にそのノウハウや経験談を聞き表彰した。
20代前半のバイト君から直接に話を聞き、そこから成功にいたる話法をつかみ、普遍的な要素をコ-ルセンタの全スタッフに横展開しようとしていたのだ。
顧客獲得は電話販売した対象数に比例するのは確かだが問題はその獲得率で、ついで獲得した顧客がどの程度の間使ってくれるのかが利益を出すための大きなファクタ-になる。
顧客一人当たりの予想売上高から見てどの程度の販売攻勢つまり費用が欠けられるかは常に気になるところで、まだ実績のないころの予測売り上げは結構高めに見積もられていた(3年分の売上相当)ため、周りの投資家や評論家、幹部からは甘すぎるのではないか見られていた。孫さんはその売上額予測に十分な自信をみせていた。数年後の結果としを上回った。従ってこの夏に始まった電話販売戦略は費用も半端ではなかったが成果も十分あったということになる。
NTT局舎工事には先行して金がかかる、赤字が続いていたこの当時には この先行投資は頭を悩ます課題であり、先程の台風作戦もこの悩みに対するひとつの解決手法だったが別の切り口から販売を考えることもあった。
工事を行う前に販売代理店から販売権の予約をとり、顧客が一定期間内に取れなければペナルティーをとる方法で、NTT局舎工事完了とともに確実に顧客がつき、先行投資のリスクが減ると考えたアイデアだったが、販売代理店のノリは悪く成功しなかった。ペナルティーをとる方法に賛同する販売代理店はいなかった。
パラソル営業の全盛期、ウィンドブレ-カ-やパラソルセットのデザインを提案するために電通の担当者が様々な候補作品を廊下に並べていた。最終的に残ったのが赤と白を基調としたものだった。
このころテレビ広告にも着手した。広末涼子や藤木直人などがCMに登場したがいずれも短命で終わった。
上戸彩が長期に継続した。この上戸彩採用はちょうどソフトバンクが周波数再編問題で注目された時だから随分長い。当時の孫さんのCMキャラクタ-本命はキムタクか長嶋茂雄で、特に長嶋に関してはちょっと時代遅れだとの社内のコメントに対して「どこへいっても長嶋を悪く言う人はいないんだよ」といまだ絶大な人気を誇っていることを強調していた。ホ-クスを買収して王貞治氏を監督に迎えたことなど、この長嶋と通じている。
販売促進手法の模索の一環から駅構内や繁華街の歩道でのセ-ルスを提案する幹部があり、その販売実績がよかったので徐々に拡大されていき、パラソル営業と呼ばれた。
押し付けがましいといった非難も含めて社会現象となっていった。ロゴを染め抜いた白いパラソルの下にADSLモデムの入った紙袋を積み上げ、電通が作成したウィンドブレ-カ-を着用したスタッフたちが「無料でお持ち帰りできます」と声を張り上げる。
この営業の特徴はその場でモデムを持って帰らせることであり、持ち帰ってゴミとして捨てられあるいは部品のみを売りさばく、あるいは外国に持って行って売りさばくなど場合によっては企業に致命的な懸案材料があり、幹部たちも一様に心配したがこれも結果的にそうした事故は僅少であった。
ある幹部会議でこうしたモデムの不当廃棄などのリスクが極めて少ないと報告された。
「日本人は本当に正直だ」と感に堪えない一言を発した孫さんの一言が耳に残っている。
このパラソル営業とモデム持ち帰りの考え方の原点が彼の少年時代の体験である「コーヒー只券」配布にあることは容易に推測できた。
NTTの和田社長(当時)は定例記者会見でソフトバンクとは肌が合わないなどと露骨にこうした経営方針を嫌悪していた。パラソル営業のことを指していた。
KDDIの小野寺社長も後の周波数再配分問題で露骨に孫さん提案を一蹴したことからも推し量れるが、とにかく営業マインドが他社とはまったくあわなかった。他社はソフトバンクと孫さんのパラソル営業を恐らく品がないと意識していたことと思われる。
数年後2006年にイタリアのボロ-ニャやスペインのバルセロナの街角でもADSLパラソル営業を見かけたのには笑ってしまった。ソフトバンクと同じようなその場でお持ち帰り可能かどうかは確認できなかったがこういった営業手法は瞬く間に世界に広がる。
しかし苦情もトラブルもあった。いくつか挙げてみよう。
既に顧客がNTT光収容回線になっているとメタル回線が前提のADSLサービスは受けられない。
街角で申し込んだ人が自宅の回線の種類を知らなかったためだ。回線をメタルに変更する手続きが発生し、ここでサービスを断る人と変更する人に分かれるが変更するにはさらなる工事期間が必要となる。
ISDN回線加入者も同様の回線変更が必要となり、変更に時間がかかることになった。
アンケ-トに答えただけなのに、勝手にADSLモデムが送りつけられてきたというクレ-ムが発生し、その対策にも追われた。
販売代理店のスタッフが成果を焦るあまりに申し込みとした場合や、家族が申し込んでも回線名義人である両親などが認知していない場合などがあった。
申込者本人が街角で申込用紙に記入するときに回線名義人を知らないケ-スが多かった。NTT工事依頼時に名義人不一致が多発してその解決に多くの対応稼働がとられることになる。
孫さんは「誰よりも勉強すればだれよりも出来る」ということを信じていた。率先して早朝からサウナで販売方法を読み、「科学的販売手法」を模索していた。
あるときから「多変量解析」が気に入り、その言葉を連発して販売促進を「科学」することに取り組んでいた。
統計学上の厳密な意味での「多変数解析」を適用するのではなく、売れる為の要因分析をグラフからアナログ的に読み取る手法の構築を口を酸っぱくして叱咤した。
街頭販売ではどの曜日が売れるのか、朝昼夜のどの時間帯がもっとも売れるのか、県ごとに特性があるのか、地下街がよいのか鉄道駅構内がよいのか、繁華街のコ-ナ-がよいのかあるいはちょっと外れがよいのか等々、考えられる限りのこれらの販売パタ-ンを変数と呼んだ。
この夏の幹部会議は日本全国各地からの販売デ-タをグラフ化して販売動向を探ろうとして多くの時間を費やした。会議室のプロジェクタスクリーンに映し出される販売データを眺めながらの「多変量時解析」がやがてパラソル営業へとつながっていく。
販売手法としてNTTができソフトバンクができないことは我慢ならなかった。
ある役員が
「NTTは116を使って営業している。我々は普通の11ケタ電話番号を使わねばならない。3ケタと11ケタでは不公平ではないか」と発言した。
そのうち孫さんまで、NTT東西のみが116などの覚えやすい番号を使い、営業までできるのはおかしい、不公平だといい出し始めた。すぐ総務省に行って解決策を考えてきてくれ、との要求だ。
事実確認のために、注意して街を歩いていると、NTT営業所の前に大きなたて看板があり、
「ブロ-ドバンドは116へ」
の広告が目に付く。
テレビコマ-シャルの訴求には3桁は確かに記憶しやすく訴求性ではるかに優位性がありそうだ。
総務省「番号企画室」と相談すると「番号研究会」が開かれた。しかし他事業者は異論があることがわかってきた。
「すでに各社着信番号が定着しており、それなりに、不都合もない。なんでいまさら、そんなことをするのか」との意見だった。
この話はそのうち霧散した。
販売代理店
LCR(自動事業者識別装置)は孫さんが発明した(厳密には日本テレコムのLCRに限り、他の2社は独自開発している)ことについて記した。
実はLCR(自動事業者識別装置)はその後の電話販売手法にも画期的な影響を及ぼしている。
代理店会社あるいはチームは新聞拡張団のように何人かがチームを組んで、北は北海道から南は沖縄までセールス行脚する、顧客を獲得すると獲得時の一時払いコミッションとは別に電話使用料の4%が継続インセンティブとして毎月入ってくる。
これは代理店には大変うま味があり、この代理店販売で新電電は売上を伸ばした。電話の販売に代理店を使うということはそれまでにはなかったことで、現在では通信ビジネスに当たり前になっている代理店営業の嚆矢になる。
新電電当時、代理店同士の顧客の激しい奪い合いも各所でみられ、ときにはまれに現場で殴り合いにまでいたったというケースも報告されていたが同じようなことがADSLモデム設置でも起こり歴史は繰り返した。