まさおレポート

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「薔薇の名前」下巻 読書メモ

2013-08-27 | 小説 幼年期の終わり(UFO含む)薔薇の名前

以下のページナンバーは下巻のものです。

朝鮮朝顔、ベッラドンナ、毒人参、 白色ヘレボルクス、ハクセン、黒色ヘレボルクス・・・P14

まえにも言ったように、あれは大掛かりな謝肉祭だった。そして謝肉祭にはすべてが逆さまになる。終わってみればわが身は老いていて、少しも賢くなっておらずに、意地だけが汚くなっていた。 P31

私は知性では彼女を罪業の火種であると心得ていたのに、感性ではあらゆる恩寵の隠れ家であるかの如くに捉えていた。 P39

まさに森羅万象が彼女のことを語りかけてくるみたいであり、そのなかにあって、私は願っていた。そう、今一度だけ、彼女に会いたい。  P40

すなわち全宇宙とは、ほとんど明確に、神の指で書かれた一巻の書物であり、・・・そのなかでは一切の被造物がほとんど文字であり、生と死を映す鏡であり、そのなかではまた一輪の薔薇でさえ私たちの地上の足取りに付された注解となるのだが、  P40

愛ハ、認識ソノモノヨリモ遥カニ強イ認識力トナル P42

そのときまで書物はみな、人間のことであれ神のことであれ、書物の外にある事柄について語るものとばかり思っていた。それがいまや、書物は書物について語る場合の珍しくないことが、それどころか書物同士で語りあっているみたいなことが、私にもわかった。 P52

ヨハネスの考えでは、どうやら、正義の人であっても最後の審判が下るまでは至福のお姿を享受できない、と主張するらしい。  P69

聖木曜日の夜のユダよりもさらに乱れた心で、ウィリアムに従って、晩餐のための大食堂に入っていった。  P84

キリスト教徒たちが学ぶべき科学の著作まで、怪物や虚偽の書物の間においてしまっている。  p99

非常に巧みに造り上げられた多数の蝋人形の中に、ほかならぬ教皇さまを象ったものがみつかり、その身体の急所のいくつかに赤い丸印がつけられていた。だれもがしるように、そういう蝋人形を糸で吊るして、鏡の前に置き、目印の急所を針でつくのだ・・・p122

キリストと使徒たちは所有したのではなく、使用したのであり、彼らの清貧は損なわれずに保たれた。  p138

清貧とは宮殿を所有するか所有しないかではなく、俗世の事物に法を定める権利を保持するか放棄するかを意味しているのだ p144

もしもキリストが聖職者たちに強制的な権力をもたせたいと願ったならば、モーセが古代の戒律をもってしたのと同様に、細かい規則を作ったであろうに。しかしそうはされなかった。   p160

わたしたちが焼き討ちをし、強奪をしたのは、普遍的な掟として清貧を掲げたからだ。わたしたちは他人が不当に蓄えた富を自分たちのものにする権利を持っていた。   p207

わたしたちが焼打ちをし、強奪したのは、普遍的な掟として清貧を掲げたからだ。わたしたちは他人が不当に蓄えた富を自分たちのものにする権利を持っていた。教区から教区へと張りめぐらされた貪欲の網の目を壊滅させたいと願ってはいたが、所有のために強奪した例はなかったし、また強奪のために人を殺したこともなかった。わたしたちは天罰を与えるため、不純な者たちを血で浄めるために、人を殺した。

「だが、何であれ、純粋というものはいつでもわたしに恐怖を覚えさせる」

「純粋さのなかでも何が、とりわけあなたに恐怖を抱かせるのですか?」

「性急な点だ」  p208

いったい私たちの誰に、断言できようか、正しかったのがヘクトールかそれともアキレウスか、アガメムノンかプリアモスか、いまでは灰の灰にすぎないひとりの女の美しさを求めて、彼らが争ったというのに?  p219

気違いと子供は正しいことばかり言うものだ、アドソよ。   p222

この事件の流れのうちには、教皇ヨハネスと皇帝ルートビッヒの争いよりも、もっと重大な事件が潜んでいるのではないか、とかんがえているのだからだ・・・・・・

禁じられた一巻の書物をめぐる事件、アドソよ、禁じられた一巻の書物をめぐる事件なのだ   p222

ロジャー・ベーコンの知識への渇きは、欲望ではなかった。彼はあくまでも神の民を幸せにするために学問を利用したいと願ったから。それゆえ知のための知は追及しなかった。ベンチョのそれは、単に飽くことのない好奇心であり、知性の驕りであり、ひとりの修道僧が自分の肉体の欲望を宥めたり、その捌け口にするための手段の一つと、なんら変わるところがなかった。この世にあるのは肉体の欲望だけではない。ベルナール・ギーのそれも、やはり欲望だ。正義への歪んだ欲望であって、それは権力への欲望に同化される。  ・・・それは不毛な欲望であり、愛とは何の関係もないばかりか、肉欲の愛とさえもそれは関係のないものだ・・・ 真の愛とは愛される者の喜びを願うものだ  p225

私が見た幻は、すべての幻が瞬時のものである如くに、わずかな祈りの言葉にも等しく、長続きするはずはなく、「怒りの日」の歌の長さほども続かなかったのだ。   p284

おまえは、以前から承知していた物語の枠組みのなかに、この数日間の出来事や人物たちの挿入したのだ。夢の大筋は、以前にどこかで読んだり、あるいはおさないころに学校や修道院で人から聞いたりした出来事なのだ。  p286

思うに、おまえの魂は、まどろんでいる間に、わたしがこの6日間に、しかも目覚めているあいだに、理解したのよりもはるかに多くの事柄を、理解したのだ p289

一場の夢は一巻の書物なのだ、そして書物の多くは夢にほかならない p289

アリストテレスは笑いを誘う傾向を、認識の価値さえ高める一つの善良な力と見なそうとしているのだ。なぜなら、辛辣な謎や、予期せぬ隠喩を介して、あたかも嘘をつくかのように、現実にあるものとは異なった事象を物語ることによって、実際には、それらの事象を正確に私たちに見つめさせ、そうか、本当はそうだったのか、それは知らなかった、と私たちに言わしめるからだ。この世界や人間たちを、現実の姿や、わたしたちがそうだと思い込んでいる姿よりも、悪しざまに描き出すことによって、明るみに出された真実。   p341

なぜ、数多ある書物のなかから、この一巻をあなたは守ろうとしたのか? 

なぜなら、あの哲学者が書いたものだからだ。あの人物の著した書物は、キリスト教が何世紀にもわたって蓄積した知恵の一部を破壊してきた。  p343

以前には空を見上げて泥にまみれた物質に眉をしかめたというのに、いまでは地上を見つめては地上の証明にもとづいて天上を信じるようになった。  p344

笑いは、束の間、農民に恐怖を忘れさせる。けれども掟は恐怖を介して律するのであり、その真の名前は神への畏怖だ。  p345

悪魔は物質界に君臨する者ではない。悪魔は精神の倨傲だ。微笑みのない信仰、決して疑惑に取りつかれることのない真実だ。  p350

反キリストは、ほかならぬ敬虔の念から、神もしくは真実への過多な愛からやってくるのだ。あたかも、聖者から異端者が出たり、見者から魔性の人がでるように。  p370

邪悪な知能に長けたものの企みを追って、私はホルヘに辿りついたが、そこには何の企みもなかった。・・・・・・見せかけの秩序を追いながら、本来ならばこの宇宙に秩序など存在しないと思い知るべきであったのに p372

わたしたちの精神が想像する秩序とは、網のようなもの、あるいは梯子のようなもので、それを使ってなにものかを手に入れようとするのだ。しかし手に入れたあとでは、梯子は投げ捨てなければいけない。なぜなら役にはたったものの、それが無意味であったことを発見するからだ。   p372

ほどなくして、わが始まりの時と私は混ざり合うであろう。そしていまではもう信じていない、それがわが修道会の歴代の僧院長がといてきた栄光の神であるとも、あるいはあのころ小さき兄弟会士たちが信じていたような栄光の神であるとも、いや、おそらくはそれが慈愛の神であるとさえも。<神とはただの無なのだ。今も、この場所も、それを動かさないのだから・・・・・・>  p383

さあ、この最後に近い文章でのアドソの独白 <神とはただの無なのだ>をどう読むのだろう。神は存在しないとの意だろうか。ローマ教会風の神は存在しないといっているのだろう。

<過ぎにし薔薇はただ名前のみ、虚しきその名が今に残れり>   p383

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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