レイモンド・チャンドラー「ロング・グッドバイ」村上春樹訳を読んで気に入ったフレーズ、気になる台詞を抜き出し感想をメモする。
なんとも思っていないと言うのは嘘ではなかった。私は星と星とのあいだの空間のように、虚ろで空っぽだった。家に戻ると強い酒を作り、居間の開いた窓のそばに行って、それをちびちび飲んだ。ローレルキャニオン大通りを行きかう車がたてる地鳴りに耳をすませ、怒れる大都市が丘の斜面に投げかけるぎらぎらとした光を眺めた。・・・犯罪に満ちた夜のなかで、人々は死んでいく。・・・都市は豊かで活気に満ち、誇りを抱いている。その一方で都市は失われ、叩きのめされ、どこまでも空っぽだ。人がそこでどのような位置を占め、どれほどの成果を手にしているかで、その相貌は一変する。私には手にするものもなく、またとくに何かを求めているのでもなかった。酒を飲んでしまうと、ベッドに入った。 p428
当時のアメリカ社会(もちろん現代にも通じるが)への批評が随所に比喩を伴って表れる。スコッチでしか癒せないようなどこか救いのない虚無と崩壊を食い止めるささやかな、しかし非常に大切な「プライド」が読後に残る。ワインは友好の酒、ウィスキーは孤独をいやす酒だと言われるがこの小説を読むとリアルに実感できる。
「あんたにはさよならを言うべき友達がいた」と彼は言った。「彼のために監獄にぶち込まれてもいいと思えるほどの友だちがね」 P111
この友人テリーに対する共感と友情、そしてやがて訪れる失望と長い別れ「ロング・グッドバイ」の物語を象徴する台詞。
さよならをいうとは死に挑んで別れをいうことで、死に挑んで別れをいうほどの友人を作れるかどうか、それがこの男の大問題なのだ。つまり生きることの意味なのだと。
さよならを言うことは少し死ぬことだとのセリフと合わせてみると、この小説のテーマであることが理解できる。死に挑んで別れをいうべき友人が3人いれば、そのうち一人が死ねば3分の1死ぬという意味だろう。
小説のような安っぽい友情とギャングのメンデスにからかわれるようなテリーに対するうぶな友情が何故芽生えたのかの詳しい説明はない。頬の傷に大戦の暗い影があり、大金持ちで背後に犯罪組織の闇があり、アルコール中毒であり、しかしどこか品位を失わない男に対してひととき午後の5時過ぎに近所の酒場でギムレットを楽しむ二人だが、特に決定的にそれほどの友情をはぐくむ出来事の描写や心理の説明はない。
「なぜか友情をもった」これが仮説であり、その結果としての長編物語が続くことになる。村上春樹が訳者解説でこのあたりのことを詳しく書いている。かれは若い時に「こんな書き方があるのか」と感動したとある。
「ザ・グレートギャツビー」でもニックがギャツビーに関心をもつ理由の説明や台詞はなく、ギャツビーが追い求める女は読者に魅力を感じさせない。(つまり明示的に説明しない)
①女は駐車係に、ぐさりと刺さって背中から少なくとも十センチは突き出そうな視線を投げた。p8
この女性シルビア・レノックスはテリー・レノックスの妻で、大金持ちのハーラン・ポッターの娘であり、親譲りの財産をもつ度し難い美貌の淫乱女として描かれる。アイリーン・ウェイドからテリー・レノックスとロジャー・ウェイドを奪った女でこの物語の3件の殺人(この女が殺されることも含めて)はこの女をめぐって起こるので重要な役どころなのだが、何故テリーがこの女と2度の結婚までするのか、つまりどこに魅かれたのかの説明は次の台詞に表れている。
救いようもなく自堕落な女なんだ。でも僕はひょっとして、随分遠まわしにではあるけれども彼女に好意を持っているかもしれない。p40
②彼女の舌の上では今や、一匙のアイスクリームだって溶けずに残りそうである。p9
①と同じ女シルビア・レノックスの描写。この女の冷酷さ、酷薄さが強調されるほどテリーの絶望が一層際立つ。この種の女に絶望している男が魅かれるのは女もある種の絶望(他人のもちものを欲しがる以外には欲望が沸かない)にあるから。マーローも同じ血をもつシルビアの妹から結婚を持ちかけられるがかろうじて踏みとどまる。マーローはアイリーン・ウェイドとも関係をもつ直前までいくが、男に覗かれていることで止まれる。
マーローもテリーも類似の女に魅かれることから深いところで似た者同士だと分かる。しかしマーローは踏みとどまって崩壊までにはいたらない。この踏みとどまりの理由はプライドという極めて漠然としたものであるとしか読者にはわからない。背景にキリスト教信仰があるようにもみえない。生活上の美学とでも呼びたいものがマーローを律している。
「カラマーゾフの兄弟」にもアリョーシャの同僚から信仰がなくても人類は倫理観をもって生きていけるとの台詞がはかれるがマーローの思いもそれに近いがそんなマーローはやはりどこかせつない。
④ボクシングで言えば、人はなるたけクリンチに逃げて、いざというときのために力を蓄えて置かなくっちゃ p11
これも駐車場係の得意げに語る人生哲学の台詞。マーローの要領の悪い生き方に教訓を垂れる俗物の台詞。マーローの大人になりきれないパーソナリティーが刺激され、「そうやってここまでのし上がったわけだ」と俗物駐車上係に強烈な嫌味を浴びせる。
この作品は大金持ちや政治家、警官さらには駐車係に代表されるやや俗物だが「普通」の人々と、決して「普通」になりきれないマーローの泥まみれの戦いを描いている。作者はこの普通になりきれないマーローのプライドに神なき時代の神を求めている。
⑧君はぜんぜん別の場所に行くんだ。そこではあらゆる色が少しずつ淡くなり、ある種の音が少しずつ静かになる。それに慣れなくちゃならない。・・・これまでよく知っていた人たちがみんな、少しずつ妙な感じに見え始める。君には彼らのおおかたが気に入らなくなるだろうし、むこうだって君の事をよくは思わないだろう p20
作者のレイモンドチャンドラーもアルコール依存症で苦しんだ経験をもつ。色と音それに対人関係の変化の表現、アルコール依存症の経験者でないと書けないリアルな描写。
没落する貴族、落剥する未亡人、アルコール依存症に落ち込んでいく人々、過酷な戦時体験で精神を壊されてしまった帰還兵たちの滅びのなかに落ち込んでいく過程には一抹の快楽もあると作中の作家ロジャー・ウェイド に言わせているが、この一抹の快楽を伴う酩酊中の快楽がまさに色あせていくことのつらさを経てこそプライドが保てる。
⑨僕のプライドは、それ以外になにも持ち合わせない人間のプライドなんだ。p23
このプライドとは、テリーがかつて愛した女であるアイリーン・ウェイドを殺人容疑から守って自分が身代わりになることを指しているのだが、テリーの高価な豚革のスーツケース(アイリーン・ウェイドからもらったことが示唆されている)を質にいれないというこだわりにもプライドが潜む。しかし彼のプライドの源泉は人生で一回きりの離れ技で焼ききれてしまったかのよう。
僕のような人間は、生涯に一度だけ晴れがましい瞬間をもつ。空中ブランコで、完璧な離れ業をやってのける。p41
この固執するプライドにマーローは心の奥で共鳴し、テリーのために危ない橋を渡る。プライドはこうしたギリギリの局面でこそ、よく表現され得る。マーローが共感するのも彼自らがいがらい都会の中でぎりぎりのプライドでなんとか安定を保っているからであり、だからこそテリーと共感できた。マーローのぎりぎりのプライドは拘置所にぶち込まれてもテリーを守ると言う点にあらわれる。
⑩しかし何はともあれテリー・レノックスは彼なりの原則をまもって生きているのだ。それがどんな原則であれ。p24
またしてもテリーの原則とプライド。テリーは最後にまたしても周到な計画の元に生き延びようとする。滅びに任せているようでどっこいしぶとく生き残ろうとするどんでん返し。この小説の凄いところは人間の奥深く存在する無明(生きようとする煩悩)を描いているところだ。
⑭本気で何かを欲しがることなど連中にはないんだ。他人の奥さんを別にすればね。 p36
マーローもリンダ・ローリングと関係をもち、ロジャーウェイドもシルヴィア・レノックスと、そしてチャンドラー自身も18歳年上のシシ―と結婚している。いずれも人妻だ。なんでも手に入る金持ちの男が最後に求めるものが他人の奥さんだという。これって旧約聖書の十戎にもあり、仏教の五戒にもある。
旧約聖書ただしカトリック教会・ルーテル教会の採用するもの
1わたしのほかに神があってはならない。
2あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
3主の日を心にとどめ、これを聖とせよ。
4あなたの父母を敬え。
5殺してはならない。
6姦淫してはならない。
7盗んではならない。
8隣人に関して偽証してはならない。
9隣人の妻を欲してはならない。
10隣人の財産を欲してはならない。
5から10に注目すると快楽と結びついていることがわかる。5がなぜ快樂か。カラマーゾフの兄弟を読めば納得できる。そして5から10のすべての罪悪を備えているのは他人の奥さんを欲しがることだとわかる。5から10はなんと不飲酒戒を省けば仏教の在家の五戒と重なる。
1不殺生戒
2不偸盗戒
3不邪淫戒
4不妄語戒
5不飲酒戒
気になるフレーズ
以下、気になるフレーズを書き記してみた。作者は
愚かしい直喩。こいつは小説家の業だ。p318
といいながらも直喩を多用する。冷静な自己分析の眼も持っているが小説家の業と言い切っているところがすごい。
波のうねりは、賛美歌を歌う老女のごとくやさしい。 P61
目は汚れた氷のようだ。p76
私にとって眠れない夜は、太った郵便配達人とおなじくらい珍しい。p136
彼女は何かをウェイターに告げた。彼は前屈みに急ぎ足で去って行った。重大な使命を与えられた密使のように。p141
あるポイントを越えれば、危険の度合いに差はなくなるといったのは誰でしたっけ? p147
夏の雲を描くときに使う刷毛を思わせる声だった。p150
ボクシングよりも・・・ダンス教室の教師でもしているほうがお似合いだ。p157
転寝をしているおばあさんだって起こせないようなへなちょこパンチばかりだ。
コマーシャルときたら、鉄条網とビール瓶の破片を餌に育てられた山羊たちでさえ、身体を壊してしまいそうな代物だった。p158
この事件はすでに片がついて、はんこが押されて、防虫剤とともに押し入れに仕舞い込まれた。p159
彼女の視線は鋼鉄のようで、その鋭い視線はヒップポケットのなかの金額まで勘定できそうだった。p177
君のような安物探偵は、トスカニーニから見たオルガン弾きの猿のようなものだ p180
錬鉄職人のアンダーパンツほどの魅力だってもっちゃいない p181
両方の眉毛をぎゅっと派手に持ち上げた。ブラシ会社のセールスマンなら、その眉毛にひきつけられた事だろう p193
世間的に成功した人々の多くは、頭脳明晰という地点からはほど遠いところにいる。 p216
この男なら象の後ろ脚だってもぎとれるはずだ。p242
運転手はまるで宝石箱のふたを下すみたいにうやうやしくドアを閉めた。 p265
元気の良い樫の木は見事に葉を繁らせ、どんな人間が通りかかっているのか見届けてやろうと道路に向かって身を乗り出している。・・・雀にしか価値を見いだせないなにかをつついている。p268
崩れかけた肺のような容貌をしていた。p284
世間の多くの人々は、自分のエネルギーの半ば近くを、もともとありもしない威厳を護ることに費やしつつ、汲々と人生を送っているのです p295
あなたには蚤の糞ひとつかみほどの値打ちもない p303
次々に登場する新手の機械にふり回されている我らが時代の人間は、電話を愛し、呪詛し、そしてまた恐れる p313
飲めるだけ飲むと、やがて部屋に霞がかかった。すべての家具が間違った場所に置かれているみたいに見えた p334
こいつを前にしたら、賑やかなワライカワセミでさえ気を落として、死を悼む鳩のようにくうくうと痛切に啼くに違いない p356
昆虫学者がカブトムシをみるときのような目つきだった p358
痛烈な灰色の視線で私を切り刻んだ p360
その事件はもう終わったんだ。蓋を閉じられ、鍵をかけられ、重しつきで海の底にどぼんと沈められたんだ p375
彼女はカスタードのように物静かだった p404
途中で寄り道して花を摘んだりするなよ p417
彼が不在なら、彼の馬を電話に出してもらうとよい p419
でかい金はすなわちでかい権力であり、でかい権力は必ず濫用される。それがシステムというものだ。そのシステムは今ある選択肢のなかでは、いちばんましなものかもしれない。しかしそれでも石鹸の広告のようにしみひとつないとはいかない p433
私はロマンティックなんだよ、バーニー。中略 そんなことをやっても一文にもならない。君ならそんなことはしないだろう。だから君は優秀な警官であり、私はしがない私立探偵なんだ。 P438
彼はとても長い影を落としている。P445
いいとも。君の気に入らないことをしたら、市街電車を背負ってサンタカタりーナ島まで泳ぐ羽目になるんだろう。 P446
穏やかな形で頭をおかしくするにはもってこいの方法だ。声を上げて泣き叫ばずとも、きわめてそれに近いところまでは行ける。P449
ルームサービスのウエイターが飲み物をもって中に入ってきた。そして7品のコース・ディナーを並べるみたいに仰々しくそれを置いた。 P455
その声には明るく澄んだ空虚さがあった。時刻を案内する電話局の機械的な声に似ている。 P475
霞のかかった月が我関せずという顔で浮かんでいた。P497
人生でもっとも切ないのは、美しいものごとが若いうちに命脈を立たれることではなく、年老いて穢れていくことなのです。 P515
コーヒーは幾度ものお勤めで疲弊気味だったし、サンドイッチには細かくちぎられた古いシャツのような深い味わいがあった。 P517
とても興奮したように見えた。安物の葬式で張り切っている葬儀屋みたいに。 P517
月光に照らされた日干し煉瓦の壁のようにひっそりとした男だった。P540
組織犯罪は強い力をもつアメリカ・ドルの汚い側面なんだよ。 P552
さよならをいうのは、少しだけ死ぬことだ。 P571
そのあと、事件に関係した人間には誰にもあっていない。警官は別だ。警官にさよならを言う方法はまだみつかっていない。 P594