2002年のとある日に孫正義氏と社長車で移動中、何かの話からLCRの話になり、LCRは孫正義氏が発明したと自分で言い出したので大変驚いた。京都にある京セラ創業者の稲盛邸までLCR使用に関する特許権の販売交渉に行ったのだが価格条件面で折り合いがつかなかったとの話をしてくれたことがある。(あまり詳しく語りたがらなかった印象がある)ということは現在普及しているLCRは孫正義氏の特許を使っていないLCRということか、あるいは既に誰かにこの特許を譲渡したという事か、あるいは現在も特許を保有し続けているのか。(wikiによるとフォーバルの大久保秀夫氏とともにLCRアダプターを開発したとある。LCRアダプターの基本特許は孫正義氏が保有しているとも記述されている)
いずれにしても電卓型翻訳機を発明してシャープに買い取ってもらった金を原資金にして現在の隆盛を築いたというほど発明好きの若き日の孫正義氏(逆算するとまだ20代の頃になるが)がLCRアダプター開発に深く関わっていたというのは興味深い話であった。孫正義氏は折に触れて発明カードの話をし、単語カード風のものをいつも持ち歩いて一日のノルマとしてアイデアを書いたという、言ってみれば一種の自慢話だが、筆者には面白く聞けた。モデムやIP電話機開発を製造したときもTさんに命じてアイデアを特許申請していた。
米国では「スピードダイヤラー」と称する自動ダイヤラーが存在した。これはLCRアダプターとは似て非なるものであり、単に記憶させた4ケタの事業者番号を顧客が回す相手先電話番号の先頭部分に付け足してダイヤル信号を発出するだけのもので、いずれの会社(AT&TかMCIかなど)が廉価かの判断は一切行わない。つまり機械的なダイアル付加装置で、ソフトウェアによる判断機能は持っていなかった。しかし日本のLCRアダプター開発にこのスピードダイヤらーがヒントを与えたのは恐らく間違いないだろう。孫正義氏が米国留学中にスピードダイヤラーに接していて日本のLCR特許をフォーバルの大久保氏とともに取得したと考えられる。
稲盛邸でLCR使用に関する特許権の販売交渉に行ったのだが価格条件面で折り合いがつかなかった事情はその後のネット情報や元DDIの社員の話を聴いてその交渉が見えてきた。買い取りで一旦契約したが翌日に販売契約を撤回したことで稲森さんの激怒を招き、そのことは孫正義氏にあまり愉快な出来事としては記憶されなかったに違いない。新電電各社の市外電話サービス顧客獲得の伸びはLCRによる所が大きい、孫正義氏なら折に触れてあれは僕が発明したもので新電電の隆盛は実は僕なんですと社内外で語りそうなものだが、あまり詳しく語りたがらなかった印象があるのは稲盛邸での契約撤回という、事業家としては恥ずかしい一件のためであろうと憶測している。
その後に孫正義氏は日本テレコムと利用契約を結んだ。稲盛さんはその後に社員TさんにLCR制作を命じ独自のLCRを完成させた。日本高速通信も独自のLCRを開発していたのでそれほど難しい発明ではなさそうだが新電電草創期にLCRを思いついたそのアイデアの新規性は素晴らしい。
LCR発明と孫正義について述べたが、実はLCRはその後の電話販売手法にも画期的な影響を及ぼしている。代理店会社あるいはチームは新聞拡張団のように何人かがチームを組んで、北は北海道から南は沖縄までセールス行脚する、顧客を獲得すると獲得時の一時払いコミッションとは別に電話使用料の4%が継続インセンティブとして毎月入ってくる、これは代理店には大変うま味があり、この代理店販売で新電電は売上を伸ばした。電話の販売に代理店を使うということはそれまでにはなかったことで、現在では通信ビジネスに当たり前になっている代理店営業の嚆矢になる。新電電当時、代理店同士の顧客の激しい奪い合いも各所でみられ、ときにはまれに現場で殴り合いにまでいたったというケースも報告されていたが同じようなことがADSLモデム設置でも起こり歴史は繰り返した。
いずれにしても当時の孫正義氏にとっては通信事業や稲盛さんも手の届かない存在だった。「リクルート事件・江副浩正の真実」田原総一朗著で新電電が登場する際に江副氏が稲盛さんに参画を要請するが相手にしてもらえなかったと田原総一郎は書いているが孫正義氏にはさらにその感が強かっただろう。このときの悔しさが彼を通信事業に駆り立てたと思うのは考えすぎだろうか。