まさおレポート

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バリ芸術に及ぼしたシュピースの足跡 10

2020-07-31 | バリ島 絵画・紋様・アート・クリス・美術館・ワルター シュピース

 

 

LGBTの悲劇

ダグラス・サンダース教授によるとゲイの欧米都市からの脱出には歴史があり、1895年 オスカー・ワイルドが嚆矢でありマグナス・ヒルシュフェルトはドイツを脱出し、フランスで亡くなり、エドワード・サイードは、西洋の認識では「東洋はヨーロッパでは得られない性的経験を探すことができる場所であった」と書いている。

ゲイはパリやベルリンに向かい、カプリ島、タオルミーナなど地中海の神秘的な場所へと向かった。

1938 年の末 同性愛行為で拘留、1939 年に裁判、彼の恋人のバリ人の父親は息子にとって名誉だと証言したと伝えられている。なお当時すでに国際的人類学者として名が高かったマーガレット・ミードが釈放に尽力した。バリ人でも彼の性癖を嫌悪するものもいたが、寛容が勝っていたのだろう。シュピースはヨーロッパでよりもバリで性的に自由に暮らすことができバリでも当局から信頼されていた。

オランダ人はバリ島を保存する必要があると決めておりムスリムやクリスチャンによる伝道は禁止された。バリ島は「文化博物館」であり、1932年までスピーズはこの任務においてオランダ植民地政府の協力者でありオランダの地方行政官と仲が良かった。

クリスチャン・グレーダーは、次のように述べる。

スピーズはオランダ当局に大きな影響を与え、多くの場面で貴重な助言をした。 ウォルターは、オランダの総督のレセプションの準備を手伝うことさえ求められた。

だが、その自由も消滅する。

同性愛に対する差別と非難の公的なキャンペーンは1930年代後半にオランダとオランダ領東インドの両方で発生した。ドイツでのファシズムの台頭を反映している。

著名な訪問者とミゲルコバルビアスの著書「バリ島」の出版でウォルター・スピーズは非常に目立つようになった。プライバシーを確​​保するためスピーズは自宅からイセに家を建てて引っ越す。

同性愛者の2人の友人ウォルター・フォンドリーセンとフリッツ・リンドナーは彼のためにイセの家をマネジメントし、ゲストの宿泊費の請求を行うようになった。家はハウスボーイがいるゲイホテルになっていてウォルターの友人であるオランダの役人は1938年半ばに売春の非難を引き起こしていると警告した。しかしスピースは彼の警告を無視した。

1936年のオランダでのスキャンダルは、政府の最高財務責任者であるユダヤ人同性愛者レオポルド・リースが、17歳の男性とのセックス代を支払ったとして非難されたた。異性愛行為の法的同意年齢は16歳だが、同性愛者は21歳のために非難された。

リースと他の7人は無罪となったがリースのキャリアは台無しになり、オランダを去ってニューヨークに向かった。

同様のスキャンダルがバタビアで起きた。地元の新聞がオランダの植民地当局者が未成年のジャワの男性と関係があると非難した。

1938年12月と1939年1月にオランダ東インド諸島中から223人のヨーロッパ人男性が起訴され100人の在住男性が拘留された。名前が公表された後、3人のヨーロッパ人が自殺した。

クリスチャン福音派ジャーナリストのメアリーポスは次のように報じた。

バリで最も有名なヨーロッパ人の1人(この場合はダッチマンではない)が、お気に入りの6人のバリの男の子に囲まれたコンバーチブルで市場に到着した!嘲笑と道徳の崩壊、この人々の非常に貴重な美徳の退化…もちろん、それはウォルター・スピーズを指していた。

オランダの高官が同性愛者に対し植民地全体の弾圧を開始したとき彼らは異性愛者については心配していなかったようだ。バリの数人のメンバーが標的にされ警察は家を捜索し、ベッドの下に裸の男子を探し、刑務所に投獄した。

コリン・マクフィーは、「魔女狩り」の少し前にバリを去った。マクフィーは10歳のダンサーであるサンピの「養子縁組」に大きな疑いがかかっていた。

スピーズとゴリスは 1938年と1939年に、同性の未成年者との性行為の罪で逮捕され裁判にかけられた。

マーガレット・ミードはバリの社会は若い男性の間のカジュアルな同性愛行為に寛大でありその後に彼らは普通の結婚をして子を産み育てる、バリの文化は同性愛関係の持続を想定していないと述べた。

スピーズの性行為についての報告は現存しない。彼のパートナーは21歳未満であると述べたと言われるが裁判の記録は存続しない。強制性行為の記録はない。LGBTとしての差別は現代ではほとんどの国で禁止されている。スピーズが現代で今一つ人気が盛り上がらないのはゲイであることが潜在的に評価を下げているのではと思われる。言われなき差別から復権されるべきだろう。

スピーズはミードの釈明で8か月で釈放されたが山で非常に若い男の子を性的餌食にしていると噂されたゴリスは、スピーズほどの有力な友人はいなかったため16か月間刑務所で服役した。彼のキャリアは粉々になった。

ジェーン・ベロとマーガレット・ミードは心配していた。

ジェーン・ベロ、マーガレット・ミード、グレゴリー・ベイトソンは、ウォルターを支援するためにバリに戻り、彼らは告発で指名された若い男性の年齢を確かめようとした。ミードは同性愛に関する4,000語の釈明を書いて法廷で読み上げた。ミードは、バリでは同性愛は未婚の若者にとってさりげない娯楽であると述べた。

被害者とされる少年の父親は裁判官に次のように話した。

「スピーズは私たちの親友であり、私の息子が彼の愛人であることは名誉でした。双方が同意している場合、なぜ大騒ぎするのですか?」

彼の友人や息子の親の努力は何らかの影響を与えたようで、スピーズは彼に対して起訴された8つの告発のうち4つで有罪判決を受けた。彼は8ヶ月​​の刑を宣告された。裁判官は彼がバリに残ることができると判決し1939年9月1日に解放された。

売春と同性愛に対する道徳的キャンペーンがジャワで始まった。 ジャワで不道徳な人物の最初の逮捕は秋に行われました。 その中にはジャーナリスト、アーティスト、そして外国人がいます。
ウォルターと他の4人は1939年1月1日からデンパサールで刑務所に入れられています。→作者

親愛なるママ!
私は個人的に良くなることはできず、何も気にせず、今までよりも良い気分で、狂人のように働いており、「何があったのか」と「何をすべきか」に悩むことができませんでした 。→スピーズ 1939年3月4日(刑務所から)

常にソプラットなどバリの画家志望の若者を侍らせた青灰色の目をもつ美貌のゲイ。

彼はドイツの詩人、作曲家、写真家、愛好家、ハイカーでした。
彼は金髪で私が見た中で最も美しい人でした。→ハンス・ユルゲンフォンデル・ウェンス(1894年11月10日-1966年11月9日)

彼は自分のやり方と見た目で壊滅的でした。 非常に美しい若者。→デイジー・スピーズ

ホモセクシャルな感覚をいつごろからか、子供の頃はその嗜好はみられなかったという妹のデイジーはウラル山中の経験によるのではと推測している。ただ独自の絵画を創作することやバリで暮らすのにいろいろな面でそれがよかった。金銭的な支援もふくめてと述べる。

1914年、スピーズの父親は敵性外国人として抑留され、家族は軍事病院に住まわされる。スピーズは兵役年齢に達したとき拘留されウラル山脈に送られた。彼は中央アジアで3年間過ごし、タタール人の家族と一緒に暮らし、キルギス語を学び、絵を描き、作曲した。地元の芸術と音楽に多大な影響を受け、彼はこの時期を刺激的で楽しく過ごした。妹のデイジーによるとこの頃同性愛に目覚めたという。

ボネは、1943年に日本に侵攻されるまでウブドに滞在していた。戦後1958年までバリ島に住み、後に何度か訪れる。1978年にオランダで亡くなった。

スピーズは陽気で陽気な気質を持っていた。エイドリアン・ビッカーズは彼をカリスマ的と言い、「本当に素晴らしい温かい人だった」と付け加えした。

非常に明るい絵が描かれた。スピーズの母親への手紙は、彼が投獄されていたとしても、彼を心配する理由は何もないと彼女に語り続けた。

オランダ政府により敵国人として収監される前年の1939年には弟への書簡で一日中怒りを感じて過ごしている。糞真面目に人生の意味や価値や深刻さを探したりする人達よりは、自分の方がより多く、より本当にその厳しさを知っている、人生を信じており、その信仰の中に生きている、人生を遊び、遊びを信じている、人生の遊戯の厳しさ、この信仰の強さがあらゆる苦悩を覆い、あらゆる自負心、あらゆる時間的、空間的、肉体的状況を吸引してくれると自己に言い聞かせるように記し、人生の偉大な神聖さの輝きだけが残ると信じている。 

「この世には素晴らしいことがあまりに多く、それを目にし、それと戯れる時間が殆どない程です。それで多くのことが戯れざるままになっているのです 人生の厳しさが僕を好まないからといって僕に何ができるでしょう。人生が僕を真面目に受け取ろうとしないのです。でも僕は人生を愛し、その厳しさを求めています。そしてその厳しさを、遊びを通し、遊びの中に見出します。僕はむしろ、人生が真剣なものであるにも拘わらず一日中怒りを感じて過ごし、糞真面目に人生の意味や価値や深刻さを探したりする人達よりは、自分の方がより多く、より本当にその厳しさを知っているような気がします。 というのも僕は人生を信じており、その信仰の中に生きているからです。そして人生を遊び、遊びを信じているからです。僕は人生の遊戯の厳しさを信じているのです。 そしてこの信仰の強さがあらゆる苦悩を覆い、あらゆる自負心、あらゆる時間的、空間的、肉体的状況を吸引してくれます。そして人生の偉大な神聖さの輝きだけが残るのです。それが人生を生きるということであり、人生を愛し、人生を遊び、人生の直中に有るということなのです。」

1939年9月1日に解放から6か月後、ドイツのオランダ侵攻に伴い彼は再び逮捕された。彼は今や敵性国人でスマトラに連れて行かれ抑留された。

日本の侵攻が差し迫り、彼と他の抑留者は貨物船に詰め込まれイギリス領インドへと向かう。貨物船は1942年1月18日に日本の魚雷によって撃沈された。享年46歳、17年間の豊かな人生が突然終わった。

バリからスラバヤに移送されたシュピースはそれでも希望を捨てていない。

ジェーン! すべての私の最愛の人!
全体的に考えてみると、すべての良さを見ざるを得ません。→スピーズ スラバヤ(刑務所内)1939年6月27日


ここの毎日は前日と同じで明日も同じです。 実際、とても退屈です。→スピーズ(Java)1940年5月29日


今日はまた悪い日でした! 何もうまくいきません! 私が始めた肖像画は失敗しました!→スピーズ(Java)1941年11月27日

絵画を指導してバリ人からトウアン・サペと慕われた男は第二次大戦勃発でオランダ政府により護送される途中インド洋上で日本軍潜水艦の魚雷により撃沈されオランダ政府はあえてドイツ人を救援せず死去。

抑留者を収容する3隻の輸送船がシボルガ港を出港した。
その後まもなく、彼らは日本の潜水艦に攻撃された。 2隻の船がインドに脱出した、1隻は魚雷を発射した。→レオ・スピーズ 1942年1月19日

デイジー・スピーズへ
あなたのお母さんがウォルターの死の知らせを聞かなければならなかったことを本当に残念に思います。

私は後にタイの友人から、彼が死ぬのを見た誰かに会った話として次のように聞いた。
 彼はとても平和に座って、船が沈むときパイプを吸っていました。→ベリル・ド・ゾエテ 1946年2月6日 ロンドン

私はいつも幸運でした。
世界は私にとっておとぎ話のようなものであり、常にそうでした。
すべてが最高です!→スピーズ

それまでは真の友人としてバリ人に愛されているスピースは誰からも羨まらしがられた生き方だった。しかしオランダ植民地政府の一部からは嫉妬もされていた男だった。それが結局死因になったかもしれない。

ムルナウ42歳没、コンラッド、シュピースといわば非業の死を遂げる。平和と非業は常に彼につきまとうがしかし苦しんでいる気配はない。

「僕はただ現在だけを生きています!この神に憑かれた自然の中では人は簡単に死んでいきます。・・・何故なら死は繰り返し生に注ぎ込まれるからです。」との死生観をもっていたからだ。

一人の冒険者の精神と気概と勇気を示す残されたモニュメントはボネがチャンプアンに建てた記念碑のみ。スピースにはそれがふさわしいのだが。

僕にとって人生のすべては終わりのない誕生日です! これには二通りの意味があります! ひとつは毎日生まれ変わるような感覚。もうひとつは、僕が望むと望まざるとに関わらず、僕の誕生日のテーブルが、いつもたくさんのプレゼントで溢れていることです。→スピーズ

享年46歳。

ウォルタースパイが亡くなったとき、私たちは親を失った子供たちのように感じました。

そうして初めて理解できるのです! それが人生、それが死です! 毎日千回死んで、生まれ変わる!

ヴィッキー・バウム第一次世界大戦が勃発し、彼の家族が敵のエイリアンとして収容されたとき、彼は19歳でした。

彼は囚人として育ち、最終的には囚人として亡くなりましたが、唯一の真の自由、破壊できない内なる自由を決して失うことはありませんでした。→Anak Agung Gede Meregeg バリの画家

スピーズのアートはマジックリアリズムだが、同性愛的ではない。水牛を曳く農民、輝く水田、ヤシの木、矮小化した山などで描かれ今ではかなり時代遅れのスタイルとみなされてる。

バリ絵画は16世紀後半のマジャパヒト王国時代のころ王宮向けの装飾絵画として発展し、『ラーマーヤナ』、『マハーバーラタ』やヒンドゥーの多神教の神々などが描かれた。カマサン・スタイルと呼ばれるバリ絵画の技法は遠近法を用いず影絵ワヤンと同様に横顔で平面的に描かれる。

ヴァルター・シュピースやオランダ人の画家ルドルフ・ボネ、グスティ・ニョマン・レンパッドは芸術家協会(ピタ・マハ協会)を起こしバリ絵画を国際的水準に引き上げた。

1930年代100名以上の芸術家がピタ・マハ協会に所属していた。墨絵風細密画のバトゥアン・スタイルやボネの指導によるウブド・スタイルどが生まれた。

ウブドの画商パンデ・ワヤン・ステジョ・ネカの設立したネカ美術館が運営されている。チョコルダ・ゲデ・アグン・スカワティとルドルフ・ボネらが1956年に開設したウブド絵画美術館プリ・ルキサン(ボネはメンバーの彫刻や絵画を購入し1956年にヤヤサン・ラトナワルタの下でオープンしたプリ・ルキサン美術館に寄贈した。)

デンパサールのバリ博物館、バリ文化センター、そして、1932年からサヌール海岸に居を構えたベルギー人画家ル・メイヨールの作品を収めたル・メイヨール絵画美術館がある。

ドナルド・フレンドは50代で1967年にバリに来て13年間住んだ。

アメリカ人アーティストのサイモンは、20年以上バリに住んでいる。カラフルなイメージの作品を多作した。
オランダのゲイアーティスト、アリー・スミットは、スピーズ、フレンド、サイモンとつながる。

長年のあいだに同性愛は、スピーズからスミット、そしてサイモンまでよりオープンになる。

1927 Walter Spiesがジャワ島からバリ島に移住。
1929ルドルフボネ バリ島を訪問。
1930ミゲルとローズ・コバルビアス バリ島を訪問。
1930年ジェーン・ベロとコリン・マクフィー。
1935年Auke Sonnega (Dutch, 1910–1963)がジャワ島からバリ島を訪問。
1936年マーガレット・ミードとグレゴリー・ベイトソン バリ島を訪問。

スピーズの系譜を継ぐとされている画家は次の3名。
1956年アリー・スミットがジャワからバリに移る。
1967年ドナルド・フレンド。
1978年サイモン

(女性の胸を描く伝統はボネ、コバルビアス、ル・マイヨールへと続くことになる。)

https://www.academia.edu/42660587/BALI_AND_THE_GAY_ESCAPE

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