まさおレポート

カラマーゾフの兄弟と小説作法3

読み終わっても多くの謎を残すテクニック。

一見意味不明の言葉や行動を読者にいろいろと考えさせる。さらりと読み飛ばすがよく考えてみると深い意味を持つ。現代の小説ではついてきてくれるかどうか不明の、大作家ならではの高度のテクニックかもしれない。

「大審問官」はイワンがアリョーシャに語って聞かせる彼の創作になる物語だ。舞台は15世紀、スペインに降臨したキリストに対して大審問官は捕えて火あぶりの刑を宣告する。地下牢に一人で現れた大審問官はキリストに向かって、いまだ自由を扱いきれない人間に対し自由を与えることでパンを奪い合い、返って人類を不幸にしたと批判する。

無言で聞いていたキリストは最後に否定も肯定もせずに大審問官にキスをする。自由にすると互いにパンを奪い合って結局は破滅する人間は、奇跡と権威と神秘つまり悪魔の力を借りてコントロールしないと破滅するとキリストにいいつのる大審問官の心のなかに深い苦悩を感じ取り、憐みと共感のキスをする。彼の思想と行為はキリストの思いを否定したものであり、許すことはできないはずであるが、今そこにある大審問官の苦悩を感じ取ることで憐みと癒しのキスと与えると解釈したい。この話が無神論者でこそないが神の作った世界を認められないイワンの口から語られることで深い説得性をもつ。

大審問官を聞き終えたアリョーシャもイワンにキスを与える。イワンは大審問官の苦悩と、さらに神と大審問官との間を揺れ動くという2重の苦しみをもつ。イワンはキリスト教が科学に対して無力となりつつある時代にヨーロッパの人々が持つ神への不信を代表する。それを感じ取ったアリョーシャの憐みと共感のキスである。この作品のテーマの一つは「神は存在するか」ではなくて、「神の創った世界は認められるか」である。

後にイワンが自らを心のなかでは父殺しだと苦しんでいるのに対してアリョーシャが「あなたではない」と宣言するのはこの延長線上にある。

「神が不在であれば作り出さなければならない」との引用が作品中に繰り返し登場する。神が不在だと悪行を止めることができないとする言葉もしばしば繰り返される。又、「賢い人は何をやっても許される」もイワンやスメルジャコフ、コーリャの口から同様に繰り返し語られる。

グリゴーリーはなぜフョードルの家に通ずるドアが開いていたと証言したのだろうか。カテリーナの証言である、ドミトリーが酒場で書いた殺人計画書の裁判への提示と合わさってフョードル殺人事件で長男ドミトリーの有罪が決定的となる。従って何故事実(ドアは閉まっていた)と異なる嘘を言う必要があったのかを推測することが大事になってくる。

スメルジャコフの父がグリゴーリーであるかもしれない、可能性は否定できないと書いたが、その後読み返してみてやはりその可能性はあるなと。さらにフョードルも父親である可能性があるのでスメルジャコフの母スメルジャチフは双方と関係していたのかもしれない。

スメルジャコフの不自然な自殺は謎だがあるいはこの事実と関係があり、書かれなかった第二部への伏線になっていたのかもと想像してみる。例えばグリゴーリーがスメルジャコフ犯行を目撃した事実をスメルジャコフに告げ、それを聞いてスメルジャコフは絶望した可能性もある。

頑固者の単なる勘違いと読み取るにはこの部分だけがあまりにも不自然だ。弁護士フェチコビッチはグリゴーリーが当時西暦何年かもしらぬ無知な男だと証明するが、さりとてそのことが裁判での彼の証言の信憑性に陪審員をして疑問を抱かせたとしても、彼がフョードルの家のドアが開いていたとなぜ証言したかの説明にはならない。

①グリゴーリーがドミトリーを憎むあまり犯人にしたかった、あるいは②スメルジャコフ犯行をなぜか隠したかった、いずれの妥当性の暗示も作者は示していない。グリゴーリーはドミトリーの母親を毛嫌いしていたことが作中に示されるが、それとてドアがあいていたとしてドミトリーを陥れようと考えることとはちょっと無理がある。

 唯一のヒントは「女好きな人々」の章でグリゴーリーとスメルジャコフのなれそめを述べている事で、しかし読者はグリゴーリーが「女好き」だとは非常に違和感を持つと思うが、作者はグリゴーリーの秘密の何かを暗示したかったのだろうか。もしかしてスメルジャチフを腹ましたのはグリゴーリーということもありえるのか、そうするとスメルジャコフは彼の子どもという事になる。

スメルジャチフ(スメルジャコフの母で神がかり)がわざわざ彼の家の風呂に来て子供を産んだということはその可能性も暗示するのか。作者は決定的な説明は避けて、フョードルの息子だと世間が噂しているというレベルでとどめている。しかしフョードルがスメルジャコフの父だとの自覚があるのなら、いくらなんでもスメルジャコフを下男やコックにしてみじめな状態にしておくだろうか。フョードルには自らが腹ましたのならその自覚が多少はあり、なんらかの気遣いを見せるはずだが、グリゴーリーの折檻をやめさせたとあるだけで、折檻に対して激しく怒ったとかの記述はない。まあ、このフョードルならありえることかもしれないことなので一層、フョードルが父でないことはおぼろなことになる。

グリゴーリーは息子スメルジャコフをかばうためにドアが開いていたと嘘の供述をしたかもしれない。

スメルジャコフがイワンに述べるように去勢馬のような頑固者グリゴーリーの単なる勘違いと読み取るにしても、作者はなんらかの意図をもって勘違いをさせている。うそをつくにしても勘違いをするにしても作者ははっきりとした意図をもっている。

弁護士フェチコビッチはグリゴーリーが当時西暦何年かもしらぬ無知な男だと証明するが、さりとてそのことが裁判での彼の証言の信憑性に陪審員をして疑問を抱かせることに成功したとしても、グリゴーリーがフョードルの家のドアが開いていたとなぜ証言したかの説明にはならない。

グリゴーリーがドミトリーを憎むあまり犯人にしたかった、あるいは②スメルジャコフ犯行をなぜか隠したかった、いずれの妥当性も作者は明示していない。①の根拠としてはグリゴーリーはドミトリーの母親を毛嫌いしていたことが作中に示されている。それとてドアがあいていたとしてドミトリーを陥れようと考えることとはちょっと無理がある。

根拠としては「女好きな人々」の章でグリゴーリーとスメルジャコフのなれそめ(グリゴーリーの部屋の近くの風呂で産み落とされる)を述べている事で、しかしそこで読者はくそまじめなグリゴーリーが「女好き」だとは非常に違和感を持つと思うが、作者はくそまじめな人間として描いているグリゴーリーの女好きな一面を章題で暗示したかったと考えるのが自然だろう。もしかしてスメルジャコフの母スメルジャチフを腹ましたのはグリゴーリーということを章題で暗示しているのか。そうするとスメルジャコフは世間で言われているようなフョードルの子ではなく彼の子どもという事になる。

作者はあくまで決定的な説明は避けて、フョードルの息子だと世間が噂しているが本人は面白がっていると述べるレベルでとどめている。しかしフョードルがスメルジャコフの父だとの自覚があるのなら、いくらなんでもスメルジャコフを下男やコックにしてみじめな状態にしておくわけはない。フョードルが自らが腹ましたのならその自覚が当然あり、なんらかの気遣いを見せるはずだが、作中ではフョードルはグリゴーリーの折檻をやめさせたとあるだけで、折檻に対して激しく怒ったとかの記述はない。グリゴーリーもフョードルの子かもしれないのであれば激しい折檻は流石にしない。スメルジャコフがグリゴーリーの子であれば折檻を行っても不思議はない。

もうひとつ、どうとでもとれそうな記述がある。グリゴーリーの妻はスメルジャコフを赤ん坊の時から無条件に可愛がってくれたとある。スメルジャコフは猫を殺して葬儀ごっこをやるような可愛げのない子供でだれからも可愛がられそうもない、通常であれば妻も無関心なのが相場であるが、グリゴーリーの妻は彼を親身に可愛がる。なんらかの理由があるはずでスメルジャコフがグリゴーリーの子どもであるとすると納得もできる。いや、かえって憎むのが自然であるとの意見もありで、いずれかだろう。夫の子であれば無関心だけは有り得ない。

イワンがスメルジャコフの部屋を訪れるとテーブルの上にグリゴーリーが愛読したイサク云々の書物が置いてあったと書かれている。無神論者スメルジャコフがこの書物を読んだというのも謎であるが、グリゴーリーと同じ書物を読んでいたことで作者は二人のただならぬ関係を示したかったに違いない。

そうするとグリゴーリーは息子スメルジャコフをかばうためにドアが開いていたと嘘の供述をしたというのが俄然なっとくできることになる。

そのほか謎は多い。

スメルジャコフはあいまいな遺書を残して不可解な自殺を遂げる。スメルジャコフがこのタイミングで自殺するというのはドミトリーを冤罪に向かわせる流れとしてかなり強引で不自然な気がしてならないがおそらく書ききれなかった深い事情があるのだろう。スメルジャコフはそれまでどこにも自殺をするような人間には描かれていないのだから。

作者はそこまで無理をしてドミトリーの冤罪に説得性を持たせようとする。そうまでして冤罪を語りたかったのだという風にも思う。

カテリーナがスメルジャコフを訪問して、何ごとかを話し合ったことを知ったイワンはスメルジャコフを(三度目の)訪問をする。 しかし作品中では何が話されたかは一切触れられていない。なにかスメルジャコフが自殺を決意するほどの言葉が発せられたのではないかとの推測の思いがよぎるだけだ。

カテリーナとイワンの関係も謎に満ちている。アリョーシャがカテリーナがイワンに「あんた」 と呼びかけることで二人は出来ていると気がつく記述があるが、その関係は相当深いと思わせながら、明確には描かれてはいない。作者はこの二人の関係だけで長編小説ができると作中に書いている。

カテリーナがスメルジャコフになにかを言い、それが自殺へと向かわせた。イワンの裁判直前になっての発狂もカテリーナが一枚噛んでいるのではないかとも。そして裁判でのドミトリー有罪にとって決定的となる殺人計画書の提示だけでも冤罪に追いやるには有力だが、さらに決定だとなる上記の出来事もこれまたカテリーナが関与していたのではないかとも思えてくる。

徹底的な幼少期、成育期の描写が登場人物の行動の根拠と説得性を与える。

三兄弟とスメルジャコフはいずれも極めていびつな環境で育つ。フョードルも居候で生き延びてきたとあるのでまともな環境で生育していないことに想像がつく。グルーシェニカも18歳以降しか描かれていないがあやしい来し方を経ているようだ。コーリャは父親が早逝した後、母親の手で育つ。

育った環境が、その後の性格形成や精神状態に大きな影響を与えることも描くこともこの作品の大きなテーマの一つになっている(ラキーチンが作中のどこかで説明しているが、環境が人生を決めるとの社会主義的な考え方の影響も少しはあるかもしれない)。

もちろん生育環境それだけでもなく、イワンやアリョーシャには神がかりの母親から受け継いだ遺伝子的な影響と受け取れる神がかりなところも見受けられる。アリョーシャはそんな生育環境と遺伝子的影響が神秘主義にこころを魅かれる性格を形成し、信仰の厚い青年に成長した。

イワンは理性が勝ち、金を儲ける能力や快適な生活を望む世渡りの上手さ、ねばねばした若葉を愛する自然で素直な心を持ちながらも神の創った世界を認めることができずに神を肯定も否定もできない深い苦悩を持つ青年に成長する。神の創った世界を受けいれることができない精神の形成にはイワンの生育環境があることが読み取れる。親から虐げられる幼児の話は作中では明らかにはされないが、イワンの幼児期と重なる。理性のみで考えた神の作った世界の否定は、しかし「ねばねばした若葉を愛する自然で素直な心」も持っている。この点にイワンの信仰心を見ていたアリョーシャは大審問官へのキスの話と相まって、心のなかでの父殺しの思いに苦悩するイワンに「あなたではない」と告げる。

 アリョーシャの表向き純粋で極端な信仰心はかなり危険で不安定なものを内に持っていることが実はリーザとのかかわりで浮き彫りにされる。後にイッポリート検事が論告で、こうした若者は神秘主義か無政府主義者に走りやすい危険もあわせもつことが述べられる。アリョーシャタイプの純粋な若者が神秘主義や超能力などに魅せられて行く過程がオーム事件の裁判で明らかになってくることでアリョーシャ像は現代的なリアリティーをもって迫る。

ドミトリーの直情型で粗暴ともいえる性格、金に執着がなく損得で人生を考えない性格、カテリーナを捨ててグルーシェニカに魅かれたために冤罪に巻き込まれて落ちていく人生は母親の人生と重なる。父フョードルを腕力ではやりこめ、若い学生と駆け落ちした後に餓死したらしい母親譲りの性格を引き継いでいることが読み取れる。

彼らの波乱と危険が付きまとう人生は遺伝子と生育環境の影響を色濃く受けながら、神に対する考え方の違い、女たちとの出会いなどの中でそれぞれの化学反応のような反応を示しながら物語を進んでいく。

ゾシマ長老が死を前に行う説教「両親との楽しい子供時代がその人の人生に最も大切なものだ」が一際切実に感じられる。

 

父親フョードル・カラマーゾフのもとでの、ドミトリー、イワン、アリョーシャの三兄弟の、幼児の時から他人に引き取られての離れ離れの生い立ち、家庭崩壊の姿そのものである。、このような三兄弟が長男ドミトリー28歳、次男イワン24歳、三男アリョーシヤ20歳という年頃に父親フョードルの住む町で際会する。

長男のドミトリーはアデライーダ(フョードルの最初の妻)との子供だが母親の財産とグルーシェンカをめぐってやや滑稽味を帯びた奪い合いをしている。そうした親の下で、子供がどのように育つか。

「子供たちははるか老年になっても、父親たちの心の狭さや家庭内でのもめごと、非難、にがい叱責、さらには彼らに対する呪いさえも思い出す」

「人間は肯定的なもの、美しいものの胚子を持たないで、子供時代を出て人生へと出発してはいけない。肯定的なもの、美しいものの胚子を持たせないで、子の世代を旅立たせてはいけない」

子供時代の思い出のなかでアリョーシャは「彼はまだほんの数え4歳の時に母親に先立たれたが、母親の顔、愛撫を生涯、覚えていて、まるで母が私の前に生きて立っているかのようであった」と語り幼児の頃の思い出と現在のアリョーシャをつなぐ。

「このような思い出は早い年齢、2歳頃からでさえも記憶に残り(このことは誰も知っている)、暗闇のなかの明るいスポットのように、絵のキャンバスの一断片 その断片を除いて、全体が消え、消滅してしまった大きなキャンバスの断片のように、生涯を通じて、ひたすら浮かびあがるのである」

アリョーシャが修道院へ入る動機は

「彼の幼時の思い出のなかに、母親に連れられて礼拝に行ったわが郊外の修道院についての何かしらが残っていた可能性がある。ヒステリー女の母親がアリョーシャを抱えて聖像画に向かって差し伸べた時に、聖像画に射しこんでいた日没の斜めの光線が影響したのかもしれなかった。もの思いがちな彼はその時、もしかしたら、ただ一目見るためにわが町にやってき そして 修道院で長老に出会ったのである」

と語られる。

アリョーシャは幼児の母親への思い出に導かれてゾシマ長老に出会い、ゾシマ長老は人間にとっての幼い頃の思い出の重要さを次のように強調している。

「両親の家庭から、私は大切な思い出だけをたずさえて巣立った。なぜなら、人間にとって、両親の家庭での最初の幼時期の思い出くらい貴重な思い出はないからである。それはほとんどいつもそうなのであって、家庭内にほんのわずかな愛と結びつきさえあれば足りるのである。もっとも劣悪な家庭の生まれであったとしても、大切な思い出というものは、本人の心がそれを探し出す力をもっているならば、心に保たれているものなのである」

小説の最終場面でアリョーシャは少年たちに演説する。つまり幼年時代の思い出がアリョーシャの人生を決定づけるといいたいのだ。

「何かすばらしい思い出、それもとりわけ、まだ子供時代に、親の家で作られたすばらしい思い出以上に、これからの人生にとって、尊く、力強く、健康で、有益なものは何一つないのです。 子供時代から大切に保たれた、何かそのような美しい神聖な思い出こそ、おそらく、最良の教育なのです。一生の間にそういう自分の思い出をたくさん集めることが出来るなら、その人は生涯救われるでしょう」

一方、4歳年上のイワンは幼年時代の思い出の意味は不明だ。アリョーシャに対してはあれほど丹念に幼年時代の思い出を示した作者はイワンのそれにあえて記していない。この理由も同様に不明だがあえて不明にするテクニックか。

父親殺害の判決でシベリア送りにされたドミトリーは、決定的な瞬間に母親が祈ってくれたとのべて、母親の思い出の重要さを記すがあっさりと記されるのみだ。

当時の実話から引用する。

イワンの話の中に、フランスの実話として次のようなものがある。無知蒙昧かつ貧しく冷酷な羊飼いに奴隷のように育てられ、空腹のあまり豚の餌を盗んで喰ったと言っては彼らに折檻され続けた子供が大人になり強盗殺人を犯して遂に捕まる。無知と無信仰ゆえに罪を犯したと考えるカソリック信者の市民たちが彼にカソリックの洗礼を受けさせさせ、無邪気にそのことを祝福して彼を死刑台に送り出す。

フョードルの死もドストエフスキーの父の事件を参考にしている。

領主である父は領民に領地で撲殺されるという尋常でない事件で死んだ。領民の恨みを相当にかっていたこの父は単に厳しい取り立てだけでは殺されはしなかっただろう。領民の娘に見境なく手を出すような好色さが領民の怒りをかったのではないかと想像してもおかしくはない。この父は創作の力を借りてフョードルに化身する。幼児である子どもの面倒を全く見ないで女を家に引っ張り込んでらんちきを繰り広げる父フョードルはドストエフスキーの父への憎悪と父のいくつかの本質的な性格を核に創りだされた人物だろう。核は女であればとにかく好色の対象になる並はずれた好色さ、金にたいする吝嗇さ、小利口さとして描かれる。作者の父が殺された場所モークロエはドミトリーが2回にわたってどんちゃん騒ぎを繰り広げ、逮捕される運命の場所と設定されている。モークロエでフョードルが殺されたとするとベタすぎて物語にならない、このようにモークロエで逮捕されるという筋にしたほうが地霊と共鳴し合う物がある。

複雑な事情をを視覚に訴えることで演出する。

イワンは神の復活する終末には子殺しの敵も子を殺された母も互いに手をつないで登場するというオペラのフィナーレのような光景にはどうしても納得できない男であり、大審問官への沈黙の同意あるいは共感を表すキスを創作する男でもある。アリョーシャも兄イワンの復活の光景批判には同意する男で、つまり一方で神を信じ他方で理性的に否定する論理的な男でもある。

このことをオペラのフィナーレのような光景、つまり視覚で神の不条理を一挙に読者に理解させる。

ドミトリーは焼け出された哀れな母娘の夢を見ることで素朴な原罪に目覚める。

さりげない指摘が原罪という概念を端的に描写する。

謎の紳士とゾシマの対話のなかだったか、具体的な人間を愛することができない男の話がでてくる。慈善家でもあるし、気の毒な人々には金を寄付する、観念的にはいくらでも隣人を愛することができるのだが、特定の人と一緒に一日もいることができない。ここでは家族はやはり別のようだが、特に触れていなかったのでひょっとしたら家族でも同じ感覚を持つのだろうか。

よく他人と一緒の部屋などで息がつまりとかの意味合いもあるが、それとは異なる感覚で、むしろなまなましい、顔のみえる隣人に対しては生理的に嫌悪を感じるのだろう。誰にでも程度の差こそあれ持っている隣人愛の矛盾を描いているのだが、こんなことを書いているのはこのドストエフスキーくらいではないのかと浅学ながら思ってしまう。(単に知らないだけかもしらないですが)

顔をみると観念上の隣人愛が消し飛んでしまう。隣人愛よりも欠陥が目についてしまう、だから愛せない。他人の顔をみることによって引き起こされる敵愾心、競争心、相手を見下したいという傲慢、これらが人間に生得的に備わっているといいたいのだろう、実に鋭い観察力だと思う。

「その人はこう言うんです。自分は人類を愛しているけど、われながら自分に呆れている。それというのも、人類全体を愛するようになればなるほど、個々の人間、つまりひとりひとりの個人に対する愛情が薄れてゆくからだ。空想の中ではよく人類への奉仕という情熱的な計画までたてるようになり、もし突然そういうことが要求されるなら、おそらく本当に人々のために十字架にかけられるにちがいないのだけれど、それにもかかわらず、相手がだれであれ一つ部屋に二日と暮すことができないし、それは経験でよくわかっている。だれかが近くにきただけで、その人の個性がわたしの自尊心を圧迫し、わたしの自由を束縛してしまうのだ。わたしはわずか一昼夜のうちに立派な人を憎むようにさえなりかねない。ある人は食卓でいつまでも食べているからという理由で、別の人は風邪をひいていて、のべつ洟をかむという理由だけで、わたしは憎みかねないのだ。わたしは人がほんのちょっとでも接触するだけで、その人たちの敵になってしまうだろう。その代りいつも、個々の人を憎めば憎むほど、人類全体に対するわたしの愛はますます熱烈になってゆくのだ。と、その人は言うんですな」原卓也訳


「俺の考えだと、まさに身近な者こそ愛することは不可能なので、愛しうるのは遠い者だけだ。いつか、どこかで『情け深いヨアン』という、さる聖人の話を読んだことがあるんだが、飢えて凍えきった一人の旅人がやってきて暖めてくれと頼んだとき、聖者はその旅人と一つ寝床に寝て抱きしめ、何やら恐ろしい病気のために膿みただれて悪臭放つその口へ息を吹きかけはじめたというんだ。しかし、その聖者は発作的な偽善の感情にかられてそんなことをやったのだ、義務感に命じられた愛情から、みずから自己に課した宗教的懲罰から、そんなことをやったんだと、俺は確信してるよ。人を愛するためには、相手が姿を隠してくれなけりゃだめだ、相手が顔を見せたとたん、愛は消えてしまうのだよ」原卓也訳

笑いの効果

独特の笑いもところどころに感じられる。いや、ロシア文学イコール重厚で深刻というベールを一枚はがして、ギャグの視点からみると、作品全体に驚くほどいたるところにその種の笑いがあふれている。ドミトリーの振る舞いなど、おおいに笑い飛ばすしかない愚かで滑稽な振る舞いの連続で、しかしそれがふと笑いが止んだあとに、人間の普遍性をしみじみと感じさせる仕掛けになっている。

作者が述べる序文のくどくどといいわけめいた口調もボケ味のユーモアとも読める。

青筋たてて借金を申し込むドミトリーと天然で違う話をするホフラコーワ夫人の掛け合い。色恋に狂った男の見境ないあさましい必死さは、視点を変えると抱腹絶倒ものの場景になる。

ドミトリーの冤罪にいたる物語もギャグに溢れた悲劇として眺めることができる。だからこそ一層悲劇性が強調される。あろうことか好色な親父との間で、決して品のよいとは言えない女の取り合いをおっぱじめ、色情に狂った男が親父の家を偵察に出かけ、のぞきをおこない、いないとわかるとこそこそと逃げ出し、途中でグリゴーリーを殴り、返り血をあびた姿で知り合いを駆け巡り、借金を頼んで回る。

ドミトリーが真剣で血相を変えれば変えるほど、カテリーナから着服した金に対して自分勝手な理屈を述べれば述べるほど、どたばたギャグとしか言いようのない展開になる。その極め付きはモークロエに繰り出してのどんちゃん騒ぎで、性悪女から初めて愛をささやかれて有頂天になるところで御用となり、身体検査でパンツまで脱がされる。もうこれでもかというほどのどたばたギャグ風だ。

フョードルがグルーシェニカに対してみせる好色な期待に涎を出さんばかりの描写も作者の狙い通り、笑ってしまう。フョードルとドミトリーが作品のギャグを引き受けている。この二人が愚かで好色でずれていればいるほど一層神に対する重苦しい議論が引き立ち、作品のバランスをとる仕掛けになっている。生真面目なロシア文学者風の翻訳ではなかなかみえずらい、抱腹絶倒風でかつ重い内容もバランスよく訳した翻訳がでてこないものか。仮に村上春樹がもしロシア語から訳せたら、もっと笑いに溢れたものに仕上がったかもしれないと妄想。

ゾシマ長老の腐臭事件でうろちょろとゴシップを嗅ぎまわる他の修道院からきた修道士の振る舞いも笑ってしまう。フェラポイント神父とこの修道士の週に食べるパンの量についての大真面目な会話もそうとう爆笑物。又、フェラポイントが精霊を見ることができると話すとそれに対して目を輝かして探りをいれる修道士に、それは小鳥の姿をしていると期待外れの答えを返して修道士の落胆ぶりを読者に想像させるところも笑える。

大地の効果

大地という原点に戻ってキリスト教の価値を認識することがドストエフスキーの特徴だと気がついた、つまり作者のアニミズム回帰がキリスト教圏ではない日本人などにも共感を与えるのだ。大地という普遍の価値をもってきてそのメタファでキリスト教を肯定すると高度の説得性もってくる。極めて高度のテクニックではないか。

「大拙は、考えが「大地」を離れない、あるいは心が地面を離れないということを、浄土教における<慈悲>を根本においているとおもいます。この「大地」はどこからくるのかということは、ぼくにはまったくわかりません。・・・でも、何を言おうとしたのかはとてもよくわかる気がします。

この「大地」を離れた思考というのは、だいたい抽象化されて、抽象化を推しすすめれば物と心、物と精神とが全部二分化される。だから、どうしても「大地」を離れてはいけないんだという。もし大いなる<慈悲>というものを離れまいとすれば「大地」を離れてはだめだということでしょう。
・・・
日本浄土教の、法然、親鸞の思想から「大地」という考え方を特徴として採り出したのは、ぼくの知っているかぎりでは大拙以外にはありません。これは珍しい考え方だといえるとおもいます。「親鸞復興」吉本隆明」

「彼の頭上には、静かに輝く星たちをいっぱいに満たした天蓋が、広々と、果てしなく広がっていた。天頂から地平線にかけて、いまだいおぼろげな銀河がふたつに分かれていた。」

「微動だにしない、すがすがしい、静かな夜が大地を覆っていた。寺院の白い塔や、金色の円屋根が、サファイア色の空に輝いていた。建物のまわりの花壇では、豪奢な秋の花々が、朝までの眠りについていた。地上の静けさが、天上の静けさとひとつに溶けあおうとし、地上の神秘が、星たちの神秘と触れあっていた。…彼は、地面に倒れたときはひよわな青年だったが、立ち上がったときには、もう生涯かわらない、確固とした戦士に生まれ変わっていた。…あのとき、だれかがぼくの魂を訪ねてきたのです」と、彼はのちに、自分の言葉へのしっかりした信念をこめて、話したものだった」 カラマーゾフの兄弟3巻109

アリョーシャの懐疑は輝く星や花々からの神秘な霊感によって「もう生涯かわらない、確固とした戦士に生まれ変わっていた」イワンが理性だけの人であり崩壊するのに対し、アリョーシャのこうした大地に根ざしたアニミズム的感覚を基礎にした信仰が彼の崩壊を救った。

太陽の光がが長い道のりを辿ってこのささやかな惑星に到着し、その力の一端を使って私の瞼をあたためてくれることを思うと私は不思議な感動にうたれた。・・・私はアリョーシャ・カラマーゾフの気持ちがほんの少しだけわかるような気がした。おそらく限定された人生には限定された祝福が与えられるのだ。 P339 「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」下巻

「薔薇の名前」にも一輪の花に神秘を感じる描写がある。

「いや、むしろ目の中で。太陽の光線のなかで、鏡の映像のなかで、何ごともない事象のあちこちに拡散した色彩のなかで、濡れた葉に照り返す陽射しのなかで、光として感じとられる神・・・・・・そのようにして捉えた愛のほうが、被造物のうちに、花や草や水や風のうちに神を讃えた、フランチェスカに近いのではないか?この類の愛にはいかなる裏切りも潜んでいない。それに引き換え、肉体の触れあいのうちに感じた戦慄を、至高者との対話にすり変えてしまう愛は、わたしには好きになれない・・・・・・ 」薔薇の名前 p98

次のフレーズはこの作品の中で最も感動的な文章の一つだと思う。「ドーミトリーを乗せた馬車は、街道をまっしぐらに突き進んで行った。…アリョーシャが地面につっぷし、「有頂天になって永遠に大地を愛すると誓った」のと同じ夜、ことによると同じ時間だったのかもしれない。」と対応してみると兄弟ともに有頂天になっていたことが示されている。時間を一にして兄弟が大地を愛する瞬間をもつ。これも又アニミズムへの回帰。

「武家は腕力をもってはいたが、武家の強さはそれではない。武家の強さは、大地に根をもっていたというところにある。・・・大地に根ざさぬ限り、腕力は破壊する一方だ。公卿文化は、繊細性の故に亡びる。武家文化は、その暴力性・専横性などの故に亡びる。・・・平安時代に取って代わった鎌倉武士には、力もあり、またそのうえに霊の生命もあった。力だけであったら、鎌倉時代の文化は成立しなかったであろう。
・・・平安時代は、あまりに人間的であった。鎌倉時代は、霊の自然・大地の自然が、日本人をしてその本来のものに還らしめたと言ってよい。」

「鎌倉時代になって、日本人は本当に宗教、即ち霊性の生活に目覚めたといえる。平安時代の初めに伝教大師や弘法大師によりて据え付けられたものが、大地に落着いて、それから芽を出したと言える。・・・
まず浄土系思想の日本的な新たな展開・・・その次には、日蓮宗の興隆を忘れてはならぬ。・・・そうしてまた他方に伊勢神道の源泉となるべき「神道五部書」が書かれた。両部神道は仏教の方面から神道を見たもの、「五部書」は神道の方から、仏教などによりて外から伝えられ与えられたものを、いわば日本
思想的に統一せんとしたものである。・・・「神道」は元来が政治思想であって、厳密には、宗教的信仰性のものではない。霊性そのものの顕現ではない。」

「日本的霊性なるものは、鎌倉時代で始めて覚醒した」、「古代の日本人には、本当に云ふ宗教はなかった」(p33)。

元寇来襲と云ふ歴史的大事変は、我国の上下を通じて国民生活の上に、各方面にわたりて、並々ならぬ動揺を生じたものであらう。各種の動揺の一つで、精神的方面には、わが国民は自分等の国と云ふことについて、深く考へさせられたことと思ふ。(p83)

この精神的反省こそが、霊性の覚醒に必要な条件なのである。しかし、この外的要因は内的要因と相互作用しないならば、それは単に外的なものにとどまる。霊性が覚醒するには、外的と内的の二つの要因が創造的に相互作用しなければならない。蒙古来襲は、平安期の都の享楽的生活と頽廃が、「日本人の生活全体の上に、何となく、『このままでは、すむものでない』と云ふ気分を、無意識ではあるが、起させた」(p108)「親鸞復興」吉本隆明」

作者の人生を投影するというテクニック

ドストエフスキーは人生でトラブルを繰り返し、その体験をベースにしてエピソードを紬ぎ作品化している。根源的体験とは癲癇や推測される幼児体験、父が殺された事件、空想的社会主義に共感した体験など。

三人の兄弟はそれぞれに半端者でありカラマーゾフだと作者は作中で何回となく示している。カラマーゾフの兄弟がそれぞれにのた打ち回りながら聖性を求める物語と言えるだろう。それは賭博癖や浪費癖に苦しんだ作者ドストエフスキーの分身たちと言える。

1849年に逮捕され死刑宣告の直後の恩赦体験をへて、1949年オムスク要塞監獄に収監され4年、その後セミパラチンスクに5年の合計9年をシベリアですごす。オムスクにいた29才の時発作が悪化した。 

1857年、シベリアの部隊の医師エルマコフがてんかんでの診断を下した。

ルーレットに熱中した時期。てんかん者特有の粘着性と賭博者の耽溺傾向には共通するものがある。 

父親を農奴に殺される。

地主だった父親は農奴に殺されている。フョードル殺しに反映している。

ドストエフスキー自身は国家反逆罪で死刑宣告を受ける。セミョーノフスキイ練兵場に引き出され、銃殺刑執行寸前のところで、皇帝による恩赦の知らせが届き、死刑にかえて、4年間の懲役刑に処せられる。これはミーチャの冤罪による有罪判決に織り込まれている。又ゾシマの決闘場面にもその経験が織り込まれている。

「常日頃あまりに分別臭い青年というのは、さして頼りにならず、そもそも人間として安っぽい」

 てんかん者特有の粘着性と賭博者の耽溺傾向をもつドストエフスキー自身をミーチャに投影している。ゾシマが打たれミーチャに拝跪する場面などは一読意味がわからなかったがミーチャつまりドストエフスキー自身の純粋さに打たれている場面なのだ。

ミーチャがカテリーナに抱く不思議な矛盾にみちた恍惚「そのためには全生涯を投げ打ってもいいと思うほどの美と調和に満ちた瞬間」はてんかん者特有の感覚をミーチャに投影したとすると納得できる。

ドストエフスキーはロシア大地思想に真理があると考えていた。アリョーシャが大地にひれ伏す場面やキリスト教と相反すると否定されるべきゾシマの超能力(信者である母の質問に答えて息子の帰還を予知する)もそこから来ている。

ドストエフスキーは空想的社会主義者シェフスキーのサークルに接近し1849年逮捕され,死刑執行の直前に特赦と称してシベリア送りになっている。空想的社会主義者を匂わせる修道僧が登場する。

ドストエフスキーはペテロ=パウロ要塞監獄での拘置、裁判と擬似処刑、懲役と兵役で 8 年をシベリアで過ごし空想的社会主義の思想から神、霊魂の不死、自由に関心を持つ思想家になっていた。アリョーシャはこの時間軸を逆行することでドストエフスキーを投影する。

イワン・カラマーゾフは、大審問官であり、かつて空想的社会主義者であった頃のドストエフスキーを投影する。

持ち金、家にある金目のすべてを失い、「愛してる、金貸せ、急いで送金しろ」とドストエフスキーは妻への手紙に書く。ミーチャのカテリーナへの恥辱、愛と憎しみに投影されている。ドストエフスキーの淫蕩はグリーシェニカとの関係に。

ドストエフスキーは至高の天上世界と現実界がかけ離れたものだとの感覚をもっていた。

「現実をありのままに描かなくてはいけない」といわれるが、そのような現実というのはまったく存在しないし、この地上に一度としてあったためしがない。なぜなら物事の本質は人間には捉えがたいものであり、人間は自然を、それが自分のイデ アに反映する姿において、自分の感覚を介して知覚するだけだからである。したがって もっとイデアを自由に活動させ、観念的なものを怖れないようにしなくては ならない。『作家の日記』

ゾシマに投影して述懐させている。

この世の多くの事柄は、私たちから隠されている。だがその代わりに私たちには別の、至高の世界との生きたつながりの感覚が与えられている。私たちの思想と感情の根も、そうした異世界にあるのだ。だからこそ哲学者たちは、事物の本質を地上において捉えることはできないと解くのだ。神が別の世界の種子を摘んでこの世界に蒔き、自らの作物を育て、その結果生えるべきものが全て生え出した。だがこのように栽培されたものは全て、神秘なる異世界との接触の感覚によってのみ、生き生きと育っていけるのだ。

次の「作家の日記」の文はスメルジャコフとイワンの関係を説明しているように読める。

イデアは空中を飛び回っている。しかも必ずや何かの法則にしたがって。イデアはわれわれにはあまりに捉えがたい法則によって生き、かつ伝播していく。イデアは伝染性を持つ。そして、ご存知だろうか、生活に共通の気分が瀰漫しているところでは、高い教養を持った発達した知性にしか理解し得ないある種のイデアや気がかりや希求が、にわかにほとんど無教養で粗野で、今までろくにものを考えたこともないような人間に伝わり、その影響力で相手の心を感染させてしまうことがあるのだ。『作家の日記』

非ユークリッド幾何学が理解できないと世界が理解できないと嘆くイワンは哲学というものを、自然を未知数とする単なる数学とみなしていた人物として描いている。ある時期までドストエフスキーはそのように思っていたのではないか。つまりイワンはある時期までのドストエフスキーの投影であると読める。

哲学というものを、自然を未知数とする単なる数学とみなすべきではありません…。いいですか、詩人は霊感のきわみにおいて神を洞察する、つまり哲学の役割を果たすのです。つまり詩的な喜びとは哲学の喜びなのです…。つまり哲学も同じ詩なのですが、ただし最高度の詩だということです!「兄への手紙」

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