死後の世界を説明する輪廻に限って言えば、信頼できそうな人の臨死体験、例えば米国の神経外科医、エバン・アレキサンダー氏の臨死体験に関する手記からはあの世の存在を示唆する話がある。しかしあくまでも臨死であり死後の世界とは一線を画する。従って近くまではいけるが決して到達できない不全感が残らざるを得ない。
次の中村真一郎の言は横の広がりに目を向けたものだ。つまり 歴史上の時代や文明圏の相違を考える時、 まことに不思議な一致だから事実であると 結論する。統計的真実とでも言えようか。最先端の量子力学も統計的真実と言えるので決して軽んじ得る話ではない。
中村真一郎は「死を考える」の中で、次のようなことを言っている。「それが私を不愉快にしている。」というのがいかにも作りごとではなさそうな気配を漂わせる。中村真一郎は魂が残りことを潔しとしていない、つまり願望ではないにも関わらず首肯せざるを得ない、「それが私を不愉快にしている。」のだ。つまり願望者の願望に過ぎないという批判の根を絶った上で魂を否定しきれないと述べている。
『ところで、私は四十歳の大患中に、心と肉との分離の経験が幾回かあったり、入院中に私の副身(ドッペルゲンガー)らしい存在の出現が、病院外で、目撃せられるというような事件があったりで、死は単純に私の願っているように、肉と魂との同時消滅を意味しないかも知れない、死は肉体にのみ発生する現象かも知れないと疑うようになり、入手しうるかぎりの、古代から現代に至る死後の世界の記述(チベットの『死者の書』など)、あるいは死の世界の訪問記(スエーデンボルグなど)、又、一旦、死んで甦った現代の人たちの告白の医師による膨大な報告、又、甦る際に、同時に甦った別人と魂の入れ替った記録、自己の前生や、更にそのまた前生への記憶の回復の記述などを、次から次へと各国語の文献によって検討して行った。
そして、極めて興味ある事実に気付くに至った。それは、ほとんどの古代から現代に至る記録が共通して、肉体の死後に、私の希望に反して魂だけ生き残るらしいという事実を示しており、その魂のこの世からあの世への移転の状況が、無数の実例によって、酷似しているという、これまた奇妙な事実である。
これは、 歴史上の時代や文明圏の相違を考える時、 まことに不思議な一致だということになり、このような、相互に全く影響のない経験のあいだに、このような一致が見られるとすれば、それは客観的な事実であると結論するのが常識だと、私は考え、それが私を不愉快にしている。』中村真一郎「死を考える」