妻が臨月で既に38週目に入りいつ生まれてもおかしくない段階に入った。今朝も少しお腹が痛いというのでもうそろそろかなあるいは少し冷えただけなのかとかやきもきしている。
数ヶ月前から名前をいろいろ考えている。といっても毎日集中的に考えていると言うことではなく、ふとした拍子に、たとえばコーヒーを飲んでいるときなどに考える程度なのだが。性別はすでにMRIで女子と分かっているのだがどんなタイプの子供なのかはもちろん誰にも分からない。つまり美人なのかそうでなくて普通なのか、あるいははきはきした性格かのんびりしているのかおとなしいのか、そんなことはもちろんMRIにうつるぼんやりした映像から分かるはずもないのだが。
既に成人して子供もいる長女の時はあらかじめ考えておいたのか、生まれてから考えたのか記憶が無い。私が名付けたことだけは覚えているのだが。たぶん生まれる前から考えておいたのだろう。長女は私の名付けを気に入ってくれているのでやれやれという気持ちだ。
ところ変われば名前も変わる。インドネシアのバリでは第一子、第二子、第三子、第四子で名前はすべて一緒だ。厳密に言うと本名を別に持っているのだが、世間での通り名はワヤン・マデ・カトウ等で多少変形もあるのだが皆一緒だ。しかし別に本名を持って言うというのも面白い。勝手な推測だが名前には力があると考えられており、それを他人に知らせるのを特に魔術的な理由でいやがるのかもしれない。
欧米ではマイケル・ジョン・パウロなどといったキリスト教の聖人名をよく見かける。イスラム圏でもよく聞くイッシャムとかザッカリなどは聖人の名前だそうな。これもやはり名前には力があると考えられる根拠になるだろう。
我が日本ではどうか。その昔は柿ノ本人麿など麿とつく名前がよくある。麿は実はおまるで大便を意味するとの解説を読んだことがある。大便つまり糞には肥料の理屈が分かっていない時代には作物を生長させる不思議な霊力が宿るとされ、その力にあやかろうとしたという。なかにはご丁寧に糞麿とつけられた人もいるらしい。そんなに奈良・平安までさかのぼらなくても私の子供時代はおくまさんやおとらさんはざらにいた。これまた熊や虎のパワーにあやかろうとする。種夫や胤継さんなどは子孫繁栄を願う気持ちそのものだろう。
こうしてみると言霊の国日本のみならず世界中が名前に対して霊力を期待していることが理解できる。強く丈夫に育ってほしい、子孫繁栄してほしい、聖人に守ってほしい、あるいは邪悪な呪いから守ってほしい。いろいろな思いがこもっている。我が子に対する名付けもこの伝統に従わない手はない。
姓名判断も子供に幸せな人生を送ってほしいとの現れから発達した占いだろう。その歴史は易占のように数千年の歴史を持つものではなさそうで、かの東洋学の権威であった安岡正篤も易占や四柱推命については詳しく書いているが、姓名判断については私のしるかぎり一切ふれていないようだ。江戸時代にでも発生したのだろうか。
ネットのサイトをみるとわりあい気にする人が多いようだ。姓名判断占いサイトが多い。流派もいろいろあり、同じ名前でも結果が異なることもある。しかし大旨の方法は共通しており、特定の数字がでるとよくないらしい。そこである大学の先生が統計的に正しいかどうかにチャレンジしてみたところ、当然と言うべきか名前と運命の相関は見いだせなかったそうだ。私もそんなことは大好きなので早速成功者と不運な人20名を選び、エクセルに入力してチェックしてみた。やはり意味はくみ取れなかった。しかしだからといって存在そのものを否定しているわけではない。やはりそれなりの存在理由はあると考えている。
姓名判断に限らず、おみくじや街頭の占いにも共通して言えそうなことがありそうだ。それは「思いこみ」の力によるものではないかと近頃は考えている。この「思いこみの力」に気づかせてくれたのは最近読んだ宮元啓一氏の著作「インド哲学7つの難問」で、この中に古代インドの仏教やヒンヅーに共通する考え方「戒律」の話が出てくる。
私も今まで戒律といえば人を殺してはいけない(不殺生戒)人のものを盗んではいけない(不偸盗戒)人の女を犯してはならない(不邪淫戒)などであると記憶していた。しかし戒はもっと違った意味を持っていた。つまりある言葉を真実として信じ込むことによってその言葉が現実のものになるという考え方が古代インドの根っこにある。一切衆生を救えなければ自分も浄土に行かないという弥陀の誓願があるがこれも誓願=戒で、一切衆生を救うという言葉を守り通すことによって救済の実現を図ったものであるという。
これは私にとって今までよく分からなかった仏教に大きな解明のキーを与えてくれた。梅原猛の「法然の悲しみ」のよく分からなかった点もこのことにより見えてくる気がする。ある言葉を真実のものとして扱い信じ行じることで世の中にその実現をもたらす。これが戒の意味であるという。戒はルールや規則と思いこんでいたらそれだけではない。もっと深い意味があったということに目を開かれた。
これは本屋にいまでも並んでいるナポレオン・ヒルの「思いは実現する」といった本あるいはイメージを描けば実現すると説く類似の著作、あるいはスポーツ選手のイメージトレーニングになんだか似ている考え方だと思う。そう思ってみるとあらゆる宗教の祈り、お題目、念仏、マントラ、呪の根っこは共通している。先ほどの戒はそれをもっと一生かけて徹底するものだと理解できる。
姓名判断も「自分はよい名前をもっている」と思いこむだけで人生にプラスするなら、それも一種の「戒」であり、それでいいではないかと思えるようになった。統計をとって当たっている当たっていない,あるいは似非科学だなどと論じるのは野暮というものだとの思いに至っている。悪い名前だと言われたときは高い志や深い祈りで運命は自ら運ぶものだ、つまり別の戒を持っていると考えればいい。
私にとっての結論は気に入った名前をつければよい,子供が物心ついたときに良い名前だと思いこめるように教えればよい(=すり込めばよい)。志と思い(=祈りといっても良い)のみが運命を運ぶのだと教育してやることが大事だと。もちろんこれは私の結論であり、いろんな結論があって当然良い。とにかく「思いこみ」の力は偉大なのだから。