ラパス
南米の一連の旅でもっとも過酷な体験はボリビアのウユニからラパスへのバス移動だ。南米だけではない。一年の旅のなかでも躊躇なく最悪だと言える。541キロを8時間以上かけてラパスにたどり着く。
トラブルはダブルブッキングから始まった。バスチケットを頼んだ旅行代理店とバス会社との金の授受がうまくいってなかったらしい。連れ合いは4ブロックほど離れた代理店のスタッフを走って呼びに行く。
我々は既にスーツケース2個をバスのバゲッジ格納庫に収めた後なのだがバスは今にも出発する勢いだ。私はバスに飛び乗り大声で叫んだ。「だれかスペイン語の話せる方、助けてくれないか」幸い、乗客の一人が一緒についてきてバス会社スタッフとの会話を助けてくれた。なんとかダブルブッキングの解消とバスの出発を阻止する。
ただでさえ高度3800メートルで息苦しいのに、緊張と興奮で息苦しさが募る。やっと連れ合いが代理店の女性をつれてきた。彼女たちは延々と怒鳴りあいを続ける。突然怒鳴りあいは止み、別の座席をあてがわれた。こちらはいったいどうなっているのかさっぱりわからないがとにかく座席が確保できた。
バスはセミカマと呼ばれる軽いリクライニングのついた座席だが、前後の間隔が極端に狭い。そして乗客は満席だ。バス内は既に相当蒸し暑い。リクライニングを倒すと後部座席の足長男性から抗議の声が飛ぶ。連れ合いはなにやら言い返して、リクライニングを強行する。足長男性は足を通路に出して苦しそうな姿勢だ。なにやら気の毒だがやむを得まい。それにしてももう少し前後の幅をとるとか人間的な扱いができないのかこのバスはと怒りがこみ上げる。
閉所恐怖症の気味の私は、身動きできないために恐怖を覚える。バスは出発したが今の日本では絶対にお目にかかれないすざましい凸凹道だ。そのうちスムーズな道路に移るだろうと期待していたが、甘かった。何時間たっても一向に改善されない。延々と悪路は続き、7時間は苦しんだ。
ひとことで凸凹道というが、生易しいものではない。日本では経験できないので、深刻に受け取られないかもしれないが、本当に体がおかしくなってしまいそうだ。高山病症状でも息苦しさと頭痛に苦しめられており、2重苦だ。いや身動きできないので三重苦だ。
ボリビアのバスは揺れるとガイドブックに書いてあったけど、ほんと、ここまでひどいか?という感じ。いやーこんなことなら、週3便ある電車でオルローまで行き、そこから3時間だけ、このガタガタ道を我慢する方法にしとけばよかったと思っても後の祭りだ。朝までずっとこんなガタガタ道で、おまけに、私の席はリクライニングが壊れてて、途中までしか行かない。
チャールズ・ディッケンズ「二都物語」で、当時の馬車で長距離移動するとたくさんの死者がでたとの記述があったと記憶しているが、人間、がたがた道でも死ぬのだと実感した。さらに、長距離走るのになんとトイレがついていない。三重苦改め、四重苦だ。舗装道路にようやく入ったときは本当に「助かった」と思った。
おまけに、このバス、トイレがついてない。3時間ごとにトイレ休憩があり、そのたびごとにトイレに行くのだがバスが寒くて、すぐにトイレに行きたくなる。トイレ休憩を待つがいつまでたっても、トイレ休憩に止まる様子がない。となりのボリビア人に、トレイ行きたいんだけど。というと
あと10分で駅につくから、それまで我慢しろという。そして、なにやらバスが止まった。
さっそくバスから降りるボリビア人にまじって、私もおりてバニョー(トイレ)と車掌に叫ぶ。すると、あと15分で駅だからそれまで我慢しろと言う。もう絶対に無理でばにょーはどこよ?と聞いても、このあたりには無いという。隣にホテルがあったのでそこの親父にばにょーは?と聞くととなりに行けという。隣はしまってるからとにかく貸してくれ!と叫ぶと、そこの奥にある。という。
あ~間に合った。さわやかな気持ちで、バスへ戻っていった。すると、バスがいない。どうやら、時間の都合でバスは先に駅に向かったらしい。私たちはタクシーを捕まえて、バスを追いかけることになった。走ること10分でバスが見えてきたと同時にラパスの町が見えてきた。それにしても、トイレのためにバス代の半分タクシー代に使うとは。
ゆめゆめ中高年は、この区間のバスは避けられるべし。もしも乗られるなら万全の備えを。
恐怖のボリビアバスはラパスに到着した。あまりの悲惨な状況に今日だけはいいホテルに泊まることにする。4つ星ホテルを選び、眺めのいい部屋に通してもらい窓から丘の上までびっしりと家が立ち並ぶ遠望を楽しむ。ルームサービスで朝ごはんを食べて熟睡する。結局、昼間はラパスの町には1歩も出ず夜もホテルでディナーをとる。いかに過酷なバス旅行だったかがわかる。
丘に広がる夜景。1898年、ラパス市は事実上の首都となったが、スクレ市は憲法上の首都として残った。ラパス市中心街の標高は3600m強ですり鉢状の地形を持つ。その高さから雲の上の町と呼ばれる。
チチカカ湖を巡りプーノ
2007年3月4日 今日はボリビアのラパスからペルーのプーノへ両国にまたがるチチカカ湖を見学しながら国境を越えるというツアーに参加する。ラパスのホテルのフロントにこのツアーをオーダーしておいた。すると1人110ドルぐらいでいけるとのことだ。
出発の朝のラパスの景色は霧で視界が悪い。
朝、ホテルに車が迎えにきて旅行会社の前で大きなバスに乗り換える。ガイドは我々専属らしい。
バスから見えたラパスの街は坂が多い。この女性の服装から見て夏でも相当寒いことが分かる。
丘の上からラパスの町を眺めたが霧で何も見えない。
しばらく行くとチチカカ湖が見えてきた。
チチカカ湖を説明する看板によると標高3800m、面積8549平方Km、水深275m、琵琶湖670.4平方Kmより10倍以上大きい淡水湖でインカ発祥の地だ。周辺にはインカの遺跡が多い。チチカカ湖周辺の高原(4000m)には6〜12世紀にティワナク文化が栄えた。チチカカ湖の60%はペルーで40%はボリビア領。
チチカカ湖をボートに乗って周遊する。このおじさんは船頭だ。
インカ帝国各地の遺跡で見かける太陽神が生まれた島、太陽の島に到着する。インカの初代皇帝マンコ・カパックが降り立った聖なる地と伝えられる。ボリビア側チチカカ湖内で最大の島でプレ・インカの文明の中心を示す遺跡がある。
この階段を上る。どんなに休み休み登ってもかなりつらい。上ったところには、若返りの水という泉があった。
こんな船で到着するツアーもある。この船はトトラと呼ばれる葦の一種で編んで作られている。船の舳先は龍を象ったものか。
太陽の島を後にする。航跡に水の透明な青が映える。
急な階段を上る。
登り切ると見晴らしの良いレストランがあった。
今日のランチメニューはインカの伝統食だ。とうもろこしの粒が大きい。そらまめの上にある黒いのはドライポテト。その横の別のお皿にあるのはトラウトでゆでたまごの横にあるのは小魚のフライだ。これは日本食に通じるものがありボリボリとかじる。
ランチを終えて湖を離れるといきなりペルーの国境だ。陸路の国境越えは何度目だろう。
こんな道をひたすら湖にそって進む。さすがペルーの道は整備されている。
プーノの街に到着するとお祭りをやっていた。プーノはプーノ県の県都でチチカカ湖の西岸標高3850メートルに位置し人口は約22万人だ。プーノはスペイン人の征服後1668年につくられた街だ。
ホテルに到着して、ディナーに出かけるとみんなが踊っている。
お子様もサマになっている。踊りのあとは缶スプレーで道行く人をクリーム攻めにするのがこの地のしきたりでかけられたら本物のクリームでベタベタになる。我々はパスタを食べ終えて目立たないようにそっとレストランからホテルへ逃げ込んだ。
人力自転車タクシーのトリシクロが走る。ちなみにクスコでは交通事情のせいかこのトリシクロは走行禁止だ。
出発前のプーノ。夫婦だろうか、二人を乗せて運ぶトリシクロ。バックの壊れたシャッターが街のさびれた感じを醸す。
スペイン征服後に建てられたプーノのカテドラルは頑丈で窓が一切ない。征服者の権力の象徴で威圧感をモティーフに建築するとこんなものが出来上がる。要塞そのもの。
プカラ
2007年3月5日 今日はプーノから、いよいよインカの首都クスコへと移動。この区間の移動手段には、列車とバスがある。そして、バスは単なる移動と、途中の観光スポットに寄りながらいく観光バスタイプとがある。前日のプライベートツアーのペルー側担当者に列車で行きたいと言うと切符が買えるかどうか、すでにオフィスが閉まっているので明日の朝じゃないと分からないという。
実はこの列車中国の高山特急ができるまでは世界一高い場所を通る定期列車ということで有名だった。乗ってみたかったがこのまま明日切符が取れなくて1日つぶすことになるのは嫌だ。それで仕方なくバスをチョイスする。バスなら遺跡めぐりができるメリットがある。
インカ・エクスプレスが35USドルで、英語ガイド、ランチ付きで、途中5箇所の見所に寄るという情報がガイドブックにあるがこの会社のオフィスもクローズで手配できないと言う。
近所にあった「ファーストクラス」が食事、英語ガイド付きで25USドルだという。プーノの標高がこれまでで一番高い。なんと、3855m。ボリビアのラパス3650mよりも、これから行くクスコ3399mよりも高い。夜は動悸、息切れが激しくてほとんど眠れず。
プーノ側から見たチチカカ湖。なかなかしっかりしたバスで、けっこう快適だ。同乗のお客さんは15カップル。ガイドはスペイン語と英語のバイリンガルだ。
バスで移動中にトイレに閉じ込められる事件が発生した。ペルーのプーノからクスコへのバスでの出来事。バスが出発してから一時間くらい経ち、尿意を催し一階にあるトイレに行った。ドアを開けるのもかなり力を入れないと開かない。一見なかからロックしているのかと思ったくらいに固いが、とにかく開いた。中に入るとほとんど身動きできないくらい狭い。ドアを閉めて放出し気持ちよく出ようとすると開かない。ロックがかかったのかとチェックしてもその形跡はない。10回以上思い切り力をいれてトッテを引いてみても開かない。
バスは快調にすっ飛ばしていく。トイレの小窓から外の景色が見えるので不安はないが、こんなところで1,2時間閉じ込められるのは勘弁してほしい。ドアをこぶしの側面でがんがんたたいてみるがバスの騒音で聞こえないみたいだ。外からの反応が無い。狭い空間で力が入らないが、もう一度全力でドアを引いてみるが、トッテが半分壊れているので力が均一にかからないため、よじれたようになり、そのために開かないのだ。
こうなれば仕方が無い。ドアをたたき続けるしかないと思い定め、ガンガンとやること10分余り(と本人は感じたが)、外からなにやら相方の声が聞こえるではないか。これほど相方の声が待ち遠しかったことは無い。しかし、騒音のために何を言ってるのかよくわからない。とにかくバスをとめろと叫ぶとようやくバスがとまった。
車掌がロックを外せと言っているが、そんなものはとっくに外れている、いや最初からロックなんかしていない。ようやくバスのドライバーと一緒になってドアが開いた。外にでると、一階のおばさんたちが一斉に笑いながら拍手だ。笑い事じゃないぜと内心は思いながら、「ベリー デンジャラス!」と救出第一声を叫ぶ。われながら変な英語だが、たまりにたまった鬱憤は大声で叫びでもしないと発散できないものね。
これは「まさに文字どおり雪隠詰めだ」と20以上年の離れた相方にいったら、きょとんとしている。そうか雪隠詰めはもはや死語か。
次の休憩でバスを降り、バスの車体をよくみると、FIRST CLASS と社名ロゴが入っている。これには苦笑するほかなかったね。皆さん 鉄道やバスのトイレはドアの具合をよくチェックしてから入りましょう。
プカラ遺跡入り口。プカラ遺跡は、ティワナク文化の元になったと考えられている。
日時計かと見える遺跡。8分割された時刻を示すのか。
目的のわからない石だが。きれいに刳られた穴が、この石がなにものかのヒントになるのだろうか。
建築の装飾として使われた石なのか。上部に羊の角のレリーフが見えるが、下部はなにが書かれているのか不明。プカラ遺跡はティワナク文化の元型。
平面にレリーフされた石の展示。
ラ・ラヤ峠4335m。 強い風がつくり出す大量の雲の下に山並みが見え、湖ともいえない小さな池がその雲を映し出す。
ラクチ
アルパカ。ぬいぐるみモデルで1,2を争う動物。アルパカは、南アメリカ大陸原産の家畜の1種である。南米にはラクダ科リャマ族の4種アルパカとリャマビクーニャとグアナコが棲息する。ラクダ科に属する。極めて良質な体毛を具えておりアルゼンチン北部の、海抜およそ3500–5000mのアンデス湿潤高原地帯で放牧されている。アルゼンチンなど南アメリカ南部にはほとんどいない。
体長約2m、体重は約50–55kg。ビクーニャよりやや大きく、グアナコより少し小さい。時速40kmの速力で走る。
親子によりそうアルパカ。
土塀。
オラ! 下校する少女たち。目元がインカの末裔を示す。バンダナの柄がインカ的だ。
客待ちをするトリシクロ。幌の屋根がついていて、運転は幌の後ろで行う。背の高いお客の場合は前が見えなくなるのではと心配になる。
アルパカの顔を眺めていると聖人の顔に見えてくる。
チョコレートブラウンと白のアルパカ2頭。これは観光客向けの飼育場で、この中でランチを食べる。白色以外のアルパカの毛は染色しづらく、そのため色のあるアルパカは飼育を敬遠される傾向にあり、絶滅のおそれが指摘されている。
幼いアルパカ。
十字架が小ぶりなことに気がつく。
自転車が遺跡のオブジェにみえてくる。
ラクチの子供が走る。
石組の粗い壁によりかかり息を整える少年。ここは高度3800もあり、さすがの土地っ子も走った後では息が切れる。
チチカカ湖のガイドと話したことを思い出した。高地に順応している人達はサッカーをやれば凄い能力を発揮するのではないかと水を向けると、ガイドは全く別の能力だと言下に否定した。そういうものかもしれない。
インカ帝国の ピラコチャ神殿。神殿跡に咲く黄色い花。遺跡に咲く花は黄色が多い、そしてよく映える。
ピラコチャ神殿 残存する屋根の一部(これはみるからに新しいので現代の複製だろう)に注目すると2棟に分かれていることがわかる。この背骨のように見えるのは屋根の中心部で、柱になりここから傘のように両翼に屋根が葺かれ、両サイドに立つ壁でその両端を支える。両サイドの壁は復元されていない。みるからに不安定な形なので、ところどころで木を使って支えている。
高さ12m、長さ92m、幅25m高さ約15mの柱が残されていて土台はインカの石積みだ。
ピラコチャ神を祀った神殿の推定復元図。壁のように伸びた建物が実は中心の柱だとわかる。目的は城砦(城塞、要塞)、宗教施設、その双方を兼ねた建造物など諸説あるが、確定していない。1983年、クスコの市街としてユネスコの世界遺産に登録された。
オーカー色の断層がなおり切らない深い傷口のように見える。
立ち話する主婦たち。インカ帝国の末裔は必ず山高帽をかぶり、ケープをはおる。多くの女性のウェストが太目に見えるのはスカートのせいかもしれない。
鴨のいる湖。
食料貯蔵庫。円錐の屋根は植物で葺かれている。民家の石組は荒いが、不定形を見事にはめ込んでいる。このあたり、インカの民族的な才能を感じる。
羊毛が通常の倍以上とれそうな羊。高地の厳しい寒冷に適応したのだろう。
立方体の石組はこのあたりでは珍しい。 側面は多角の石組がぎっしりとはめ込まれている。砕石を極力自然の形を生かして無駄なく利用すると必然的に多角形になる。
穴は通路や風通しのためと思うがどうだろう。
石組の土台にアドベ(日干し煉瓦)と粘土で固めて壁をつくっている。
棟と棟の間はこの程度。あるいはひとつながりの棟として屋根はつながっていたのかもしれない。
この幅、2メートルはある。これが側柱になる。
端はすこしそり気味になっている。崩壊を防ぐ技術だろうか。
この円柱は紐を通してドアを取り付ける用途らしい。
短めの神殿がクロスしている。
塀のある神殿。
神殿 斜めから。
背後に長い見事なスロープをもった山が見える。
居住区だろうか。風呂敷のような布を使って上手に大きな牧草を運ぶ女性がやってくる。
神殿の跡に鮮やかな黄色の草花が咲いている。
円形の食料保存庫がつながっている部分がある。頑丈にするためか?
屋根は萱のような植物に、風雪に耐えたためかなにかで固めたように見える。
見事な直線の歩道。糸杉のような樹が見える。
双塔の教会が民家から頭を出している。
神殿の上に馬の置物が2頭、屋根を守るように置かれている。ちょっと目には沖縄のシーサーにみえた。
シーサーは、沖縄県などでみられる伝説の獣の像。 建物の門や屋根、村落の高台などに据え付けられる。 家や人、村に災いをもたらす悪霊を追い払う魔除けの意味を持ち、屋根の上に設置されるケースが多いとされる。wiki
巨大な神殿の中心壁(柱)を支えるつっかいぼう。ささえるには無理がある太さだが。手前に見えるのが側柱跡。
遺跡前の草原に横たわる女性がリラックスしている。
桃源郷ということばが頭に浮かぶ。
アンダワイリーヤス
アンダワイリーヤスの町にバロック様式の教会。17世紀にスペイン修道士によって建造され
豪華な内装だという。
教会前の階段で憩う土地の子供たち。先生のような人が見えるので小学生の一団かもしれない。
織物を中心とした土産物店。しっかりした太い線で描かれた模様が特徴だ。
牧牛が草をはむ。
クスコ
クスコ市内の例の石組みの場所に連れて行ってもらうことにした。
アルマス広場のラ・コンパニーア・デ・ヘスス教会カテドラル。奥にはドームが見える。これらの建物はすべてインカの建物の土台を利用して、そのうえからスペイン人が建てた。
そして、いよいよアトゥンルミヨック通りに並ぶこの壁に到着した。有名な「12角の石」のある通り。「カミソリの刃1枚すら通さない」という評判で知られるインカの石材建築。接合剤も使われず、地震に耐え何百年もの間壊れていない。
この壁は第6代皇帝インカ・ロカの宮殿跡を利用して造られた「宗教美術博物館」の壁だ。これが有名な「12角の石」数えて見ると、確かに12角ある。
角を曲がってみると、そこにもこの石組みがあった。この一角はすべてこの石組みになっている。ピューマに見えないこともない。
周りには土産物屋が並ぶ。どんな狭い路地でも奥までぎっしりお店が並んでいる。
レストランの入り口で。スペイン風なのに門の両サイドの文様などどこかイスラム風だ。
何かを待つインカ女性。ボリビアだけじゃなく、ペルーでもこの三つ編み&だんだんスカートの民族衣装をよく見かけた。
いよいよ郊外のツアーへ出発だ。高みからクスコの町がよく見える。
サクサイワマン
サクサイワマンの要塞跡。この要塞の完成には、1日3万人を動員し、約80年かかった要塞、宗教施設説もあるが確定していない。1983年世界遺産に登録された。フランシスコ・ピサロなどスペイン人による征服でクスコが陥落した後の1536年に奪還戦でマンコ・インカ・ユパンキのインカ軍の要塞となった。
マンコ・インカは、この要塞に2万人の兵士とともに陣取ったのだが、夜は戦わないインカ兵はスキをつかれて敗れる。約20mあった要塞も大部分が壊されてしまった。
次に訪れたのが聖なる谷を代表する三遺跡のひとつピサックの市場。店がたくさんあって見ているだけで楽しい。
アンティークの布や、つぼなど、いろんなものが並んでいる。中にはほんとにこんなの売っていいのかと思うような古美術品まである。
ピサック遺跡のアンティーク店に入った。この小さな店の一角にコロニアル時代のアンティークが雑然と置かれていた。そのなかに、異質なアンティークが目に付いた。黒褐色で漢字や梅、笹、牡丹、杜若が浮き彫りされている。漢字は「上求菩提」「下化衆生」とある。蝶番の扉をひらけると中から釈迦三尊像が現れた。精緻な浮き彫りだ。
惹かれるものがあり、購入した。少し欠けた部分があり、白い。そのため材質は象牙かと思った。帰国後、きれいに拭き清めたところ、白檀の匂いが漂った。
調べてみると諸尊仏龕という形式で、弘法大師が招来した諸尊仏龕によく似ている。但し、作成年代は、裏の刻印で「乾隆年制」とあり清朝だとわかるので、250年ほど前のものだ。
この諸尊仏龕がどうしてペルーの片田舎にあったのかは興味深い謎だ。ペルーの歴史によると、コンケスタドール以降、極端にインディオ人口が減り,労働力を清に求めたとある。そのときに中国人か、フランス人が持ち来たったのだろう。中国人が持ち来たったとしたら、仏僧か。フランス人だとすると、骨董的な興味で裕福な奴隷商人が買い求めたものか。
時と共に忘れ去られ、どこからかこの田舎の店にたどり着き、何者かが購入するのを待っていたものとみえる。このような場所で、このような諸尊仏龕に興味をもつ観光客も滅多にいないだろうから、場合によっては他のガラクタと一緒に消失の憂き目にあっていたかもしれない。
古いパンの釜で焼いたパンはおいしかった。
ファミリー。
オリャンタイタンボは聖なる谷のほぼ中心にある。インカ帝国時代の宿とも要塞とも言われている。1536年、スペインから来た征服者に反旗をひるがえしたマンコ・インカはここに潜み、やってきたスペイン人たちを容易に撃退したらしいのだが、それなのに彼らはさらに奥のビルカバンバへ身を潜めてしまった。鉄と銃に病原菌で滅ぼされたというがスペイン人とインカの戦いは謎が多い。
ガイドと一緒に登る。300段ある。
鉄分が赤くなっている。
まったく隙間がない。
この精度とフォルムの美しさは。
有名な6個の巨石。高さ4m、幅全部で10m、奥行き1m。太陽の神殿の作りかけだとか、鏡だとか言われているが実際のところは不明だ。石と石の間に、細い石が埋められている。これまで見た石組みとは違う手法だ。それにしても、どうやって持ってきたのか?
反対側から見た巨石のある場所。
上から見たオリャンタイタンボの村。
高所恐怖症の人はへっぴり腰だ。
地上に降りてくると、こんな遺跡も残っている。オリャンタイタンボの町はマチュピチュへのインカ道の途中で、トレッキングの人や、高山病対策のためにクスコに泊まらず、ここからマチュピチュへ行く人などが多く滞在する。マチュピチュからの帰り道、途中で列車を降りる人が大勢いたのだがみんなここで降りていたのだ。
標高が2750mなので、リマから来て、いきなりクスコに滞在するよりは、かなり体が楽なんじゃないか。飛行機でマチュピチュ観光目指す人は、こっちのルートが正解かも。
オリャンタイタンボ遺跡のトイレの入り口に飾ってあった人形。
そして、本日最後のスポットであるチンチェーロ村へ移動する道中、すばらしい山並みが見える。
チンチェーロ村へ到着。オリャンタイタンボやピサックと並ぶ聖なる谷を代表する三遺跡の一つだ。
土産物屋のおばさんたちが、楽しそうにおしゃべりしながら編み物している。
もくもくと土産用の布織りをする女性。手製の簡単な機織機に注目。
遺跡の上に腰かける二人。会話が聞こえてきそうだ。
教会。ここもかつてインカの重要な建造物があったがスペイン軍に壊され、土台の上に教会が建てられていた。
土台は確かにインカの石組みだ。
教会の前の広場で寝転ぶ少年。素朴でかわいい。
クスコの町へ戻ってきた。大聖堂(左)とカテドラル(右)がライトアップされている。