「信じない人のための<法華経>講座」を数年前に読みメモをブログに掲載した。最近「ほんとうの法華経」植木雅俊を読み終わったので気になるところを補ってみた。
「ほんとうの法華経」植木雅俊では法華経が編纂された時点でそれまで考え出された仏について、あれはすべて私(釈迦)だったとうちあける。つまり法華経の前半では三乗の教えを一仏乗によって統一、後半、宝塔出現の際に十方の分身の諸仏が招集され空間的に諸仏を統一し寿量品で過去の諸仏を時間的に統一し集大成している。
小乗、大乗の差別を除いたもの、法華経の説教開始を72歳と設定するなど物語性虚構を強めながら、法華経になお残る陀羅尼品以下に差別思想が残る部分を後世の妥協的流入として排除している。また、サンスクリット原点に立ち返って鳩摩羅什漢訳を修飾過多とやんわり批判し、迷ったらスッパニータなどの初期資料に返れと主張している。それでは初期仏教だけでいいのではないかとの批判には特に答えていないようだ。
本屋の店頭で題名に魅かれてかったこの本、読んでみるとなかなか面白い。著者は「別に押し付ける気はさらさら無いけど、私は結構好きだよ 法華経」というのりで等身大と言うのか飄々としてというべきか、わからないことは良くわからないと書き、時折独自の鋭い見解も見せる。諸経の王と言われ源氏物語にも何かといえば法華経供養が登場するが一体何がそんなにすごいのか。
また大乗非仏説もあり、大乗は仏教ではないなどの厳しい批判も時折見かける。タイやベトナムで出会った寺院や人々の仏教信仰とはるかな距離を感じさせる日本の仏教はこれらの国の仏教とどう違うのか。積年の疑問を解く補助線になればと数年前に掲載したものだが最近読んだ植木雅俊氏の「ほんとうの法華経」から関連のある話も併せてメモしてみた。
原始仏教では
「まのあたり即時に実現される、時を要しない法 ブッダのことば p240」
「過去をおわざれ。未来をねがわざれ。・・・ただ今日まさになすべきことを熱心になせ マッジマニカーヤ 」
とシンプルで具体的なことしか言っていない。それが鳩摩羅什による美しい漢訳になったためかサンスクリット原文からかけ離れた思弁的、物語的な内容に仕上がっているというのが素直な感想だ。
その最たる例が十如是でおよそ法華経に少しでも親しんだ人なら必ず法華経寿量品にあるこの十如是が最も重要なフレーズであるということを知っている。ところがこれが原文では5の疑問節が並ぶだけであり、これがとても深遠な天台の一念三千の展開になり、ひいては日本の仏教各派の理論的基礎になるものとは思えない。これは全く鳩摩羅什による創作といってもおかしくないが、かといって批判的に見る必要はないと思う。こういう風にしてタイやベトナムの仏教とはるかに違う日本流のものが出来上がったと事実として理解している。
1.法華経は釈迦入滅後700年ほど経ったAC200年ごろに編纂されたものだそうな。当然のことながら釈迦の直接説法したものではない。しかし如是我聞=かくのごとくわれきき などと直接聴いた風な書き出しで始まるのも面白い。誰がかくのごとく聴いたのか、あるいは天からのメッセージを聴いたのか、主体の名前すら残っていない。無名の大乗仏教の天才達のメッセージを集めて編纂したのは誰か。そんなことはお構いなしに経文のみを残したと言う。これらの大乗仏教運動を起こした無名の天才群がいなければ天台チギも伝教もさらには日蓮も存在し得なかったが、しかし歴史のかなたに消えてしまってこれらの真の天才達の姿は今では全く見えない。
700年の隔たりといえば凄い。現代の宗教化が「私は鎌倉時代の人物からこのように聴いた」と書き記し、世間にアピールすることを想像してみる。「冗談もいい加減にしろ」と一笑されるか、頭がおかしいのではないかと思われるのが関の山だろう。それにアピールすることも当時の知識層に勘に障ることばかりだ。当時の聖人達に向かって「お前達の悟りなどは方便にすぎない。真の目的は菩薩道を通じて仏になることだ そして聖人たちのみならずすべての人が仏になる」と説いたものだから、かなり激しい迫害を受けたのではないかと推測する。法華経の経文に迫害を受けるという内容が頻出することでそう推測している。
最近読んだ「ほんとうの法華経」植木雅俊では平川氏の大乗仏塔信仰起源説で大乗が小乗とは独自に生まれたとの説を改めて否定し当時の小乗集団の中から大乗が生まれてきたことを次のように述べている。
平川氏の大乗仏塔信仰起源説は現在では否定されている。大乗と仏塔の関係を示す歴史的遺物が一切発見されていない。大乗は当時の小乗仏教集団の中から同じ場所で発生し即文字化された。
大乗はAC200年ごろに編纂されたもので釈迦の直接説法したものではないが如是我聞=かくのごとくわれききと直接釈迦から聴いた体裁にした小説や物語と同じ考え方に立った組み立てになっている。
インドで仏教全般が廃れた理由として、インド人は回りくどい議論を好み、大乗仏教を起こしたがこの回りくどさと一般性が結局はヒンドゥ教に吸収されてしまったとある。一般性を持つということは土着のヒンドゥーの神々も吸収してしまうことでもあり、翻ってそれがヒンドゥーに逆吸収されてしまった。
「ほんとうの法華経」では土着のヒンドゥーの神々を吸収したのではなくむしろ対抗して梵天勧請や韋駄天などゾロアスターの神々を吸収したとありそれが仏教のわかりにくさを助長したのではないかと述べている。いずれにしてもグローバルな物語性を取り入れたことがご本家での衰退を招いた。
3.ではなぜ日本では中国と異なり生き延びているのか。日本では中国の儒教や老荘思想に匹敵するもの無かったから、またそれに加えて、漢文の美しさや翻訳の傑出した上手さが漢字輸入国の日本で生き延びた大きな理由で、さらに加えて外来ものを舶来ものや唐ものなどと言って尊重する傾向があるためではないかと考えている。さらにはヒンドゥーのような吸収する宗教を持たなかったことが大きいのではないかと。
サンスクリット原文では平易に簡単に記述されていることでも漢文となると奥行きが増し、それだけで数倍ありがたいものになることが無いとはいえないだろうと思っている。さらに言えば漢文読み下し文の美しさはご本家をしのぐのではないかと思ってきた。ご本家の中国では漢文は日常でもあり、儒教や老荘思想も漢訳の中に混じりこんでいてそれほどのありがたみや新鮮味は感じなかったのではないか。
「ほんとうの法華経」によると鳩摩羅什が法華経寿量品の十如是を創作している。原文のサンスクリットには疑問節が5並んでいるのみで特に重要な説という風には見えない。他にもサンスクリットでは1200人の弟子が鳩摩羅什漢訳では12000人の弟子になっているなど修飾過多の創作もある。
それらのもの(ダルマ)は何であり、どのようなものであり、何に似ており、どのような特質(ラクシャナ)を有し、どのような本性(スヴァバーヴァ)を有するものか。これらのものを如来のみが眼に知り直接に知っている。【『最澄と空海 日本仏教思想の誕生』立川武蔵(講談社選書メチエ、1998年)】より孫引き
しかしこの法華経寿量品の十如是が龍樹(大智度論で)世親(法華経論で)の法華経評価を経て天台によって一念三千へと展開されそれが最澄により日本に伝来し彼によって創建された比叡山から法然、親鸞、日蓮という日本の仏教各宗祖を輩出した。
「ほんとうの法華経」では橋爪氏が「仏教の原点に返れば密教はヒンドゥに等しい。」と述べているが最澄により日本に伝来し比叡山から法然、親鸞、日蓮という日本の仏教各宗祖を通じて密教は日本仏教の一大特徴になっている。つまり日本の仏教はヒンドゥと混交しているといってもおかしくない。
こうしてみると大乗仏教が日本で生き延びてきたのは日本人の物語好き、漢訳経文(鳩摩羅什の漢訳法華経がなければ日本の仏教はなかった。誇張訳がもたらした最大の歴史的事件ではないか。)それに密教がミックスされたことが理由ではないかと思えてくる。
4.「うそも方便」の方便とは法華経の方便品からでた言葉だ。つまり法華経は物語性が一つの特徴だ。ことわざと化した嘘も方便は大方この元意を伝えているようだ。
釈迦が実際に説いたといわれる四諦、苦を滅するための悟りへの道は実は菩薩と仏へと導くための方便であったとあかす。声聞や縁覚と呼ばれる当時の聖人たちを「君たちはまだまだだ。次のステップに移ろう」と呼びかけたものだから、自分達は立派に悟ったと自覚していた方々はさぞや驚き立腹したことだろう。
「あいつらは狂っている」とののしった事などは容易に想像できる。維摩経では「非道を行じて、是れ仏道に到達すと為す。」とあり、十分にカルト的だと橋爪氏は指摘している。
橋爪氏はまた、ネスト構造になった方便も論理的にわかりにくいと疑問を植木氏にぶつけている。ネスト構造になった方便とは何をさすのだろう。久遠の釈尊に還元されることを言っているようだが。
大乗はインドでは滅んだがこんな連中の説く法華経が当時のインドでは生き延びてていけないのも良くわかる。近所にこんなことを言う連中がいたらきっとカルト扱いであっただろう。
だからこそはるかかなたの日本で結果的に洗練された法華経が根付いたのではないか。空間的距離と漢訳の美文化が原文の生々しさを消してくれたのだろう。それでもなおかつ法華集団は十分に先鋭的とみられがちだが。
植木氏は「法華経は堕落した小乗仏教、差別的な大乗から原始仏教に還れ」p297と主張する経典だとし原始仏教に還るための方便の書と述べている。法華経の個々のエピソードも方便だが法華経そのものも方便だとしている。これがネスト構造の由縁か。
橋爪氏から法華経の矛盾点を指摘された植木氏は中村元氏が原始仏教にかえるべきだと主張したことを自らの考えとして踏襲していると述べている。
スッタニパータの
「わが徒はアラルバベーダの呪法と夢占いと相の占いを行ってはならない。鳥獣の声を占ったり、懐妊術や医術を行ったりしてはならぬ。ぶっだのことばp201」
などの例を挙げて法華経観音菩薩品に入り込んだ観音信仰などを否定している。
5 植木氏の法華経
法華経観音菩薩品に入り込んだ観音信仰などを否定している。さらに法華経の差別思想も後世に入り込んだものだとしてスッタニパータなど初期仏教の言説によるフィルターにかけることを特に力説している。つまり大乗と法華経を隔絶したものとし、センダラ差別思想など一部不適切と思われるものを大乗の二乗不作仏思想から不純物として流れ込んだものとしている。法華経を全面的に評価するのではなく納得できないところは後世の追加であるというあるいは対機説法的な方便であるという解釈はご都合主義と批判を浴びそうなきわどい判断ではある。
植木氏は法華経の価値は一仏乗が説かれたことで、つまり一人残らず差別なく成仏できる点だとしている。般若経も一乗だが仏乗ではなく菩薩乗で二乗を成仏から排除し差別している。法華経は般若、勝鬘経より古いにもかかわらず差別思想では革新しているが何故かは不明だ。原始仏教は智慧を備えた聖なる仏弟子のみが成仏するとされ、小乗では釈尊と弥勒のみが菩薩でありかつ在家と女性が成仏から排除され、男性出家は阿羅漢にのみなれる。
また小乗の堕落も指摘している。 小乗は紀元一世紀頃には釈迦が言及していない葬式を執り行い 、経済力をもつ在家を大福徳と持ち上げ清貧はうだつがあがらないものとして見下しているという。「私は家なく、重衣をつけ、髭髪を剃り p294」からかけ離れているというのだ。
5.輪廻転生 たまに「仏教では輪廻転生の教えなど説いていない」との説を拝見することがあるが、大乗の法華経ではまさに輪廻転生のオンパレードではないか。もっとも釈迦滅後700年後に生まれた経典群は仏教ではないとの説に立てばどうなるのだろうかとの疑問も。
この世限りの悟りであり、この世で釈尊は仏になったと考えていた人々に、実は永遠の過去世から未来永劫にわたって仏であり、有り続けるという宣言は、時空を超えて繰り返し繰り返し転生するという宣言でもある。なるほど、仏教に輪廻はあるか否かの議論は原始仏教に限っての話だと合点がいった次第。それにしても、このAC200年ごろに空間と時間を超越した思想が生まれたのだ。当時の人々には驚くべき新鮮な考え方に見えたに相違ない。
「ほんとうの法華経」では「輪廻転生は中央アジアに古くからある教訓的寓話が仏教に取り入れられた。」p263との中村元氏の説を採用している。植木氏は橋爪氏の輪廻転生否定に対して潜在意識での転生なら合理的だ?とさりげなく反論している。
6.釈迦生存時代の教えの中心と修行の目標は「悟り」であり、真実を知ることによる救いを得ることだと理解した。ユダヤの神の様なビジュアルな「父」のイメージは無いように見える。
それが200年ごろに大乗経典群で「永遠の仏」なる仏像に形作り易いイメージが現れる。般若経典群の空を悟らんとする希求=哲学的な希求からがらりと変わる。永遠の如来や仏から父のようにあるいは悲母観音や弥勒菩薩から直接的に救いを得たいとする信仰へと変化する。
原始仏教と大乗の両者は全く別の宗教の様だ。ユダヤ教とキリスト教、イスラム教を一緒にしてxx教と呼ぶようなものだ。本来なら別の名前をつけても良かったのだろうがこの当たりの差異のよって来る事情は寛容さで説明がつく。インド的寛容性と理解できる。
「ほんとうの法華経」では仏教では万物を創造した神や絶対者をたてない、原始仏教も法華経も一神教的な立場をとりませんでしたと記し大乗の阿弥陀仏など一神教的な経典群を批判している。しかし「私は久遠に成仏」 菩薩の実践は終わっていない。菩薩の寿命が今までと同じだけ続く。
法華経の前半では三乗の教えを一仏乗によって統一、後半、宝塔出現の際に十方の分身の諸仏が招集され空間的に諸仏を統一しジュリョウホンで過去の諸仏を時間的に統一する
以下、気になる点をメモ。
平安・保元の乱まで400年間日本に死刑はなかった。
法華経が作られたのはアフガニスタン・パキスタン地方だ。
大乗は独自の戒律がない。
安楽行品のチャンダーラの記述には違和感がある。世間を気にする態度がありあり。p176
法華経等のフィクションを通して歴史的人物としての現実のお釈迦様を軽視すべきでない、p306
龍樹は二身論、世親は三身論、久遠のブッダは報身。p318
説一切有部等の部派仏教では、75法のダルマの実体を説き、釈尊の説いた一切皆空の教えが忘れ去られてしまうことになった 釈尊の原点に返って、空思想を蘇らせようとしたのが、大乗仏教における般若思想 大成させたのが龍樹。
中村元氏は『龍樹』の中で、原始経典に縁起真如(諸法実相)の法理が説かれたことを指摘。法華経の諸法実相は釈尊の説。
平川彰氏の『初期大乗と法華思想』 法華経の阿耨多羅三藐三菩提 パーリ上座部において、かなり早くから説かれていた 無上菩提の悟りが、かなり以前から語られていて、それを大乗が取り上げたことを示します。(竹村牧男著『仏教は本当に意味があるのか』82P)