バリの舞踏と歴史
バリの舞踏は古くからある伝統芸能だが今のような形になったのは次のような歴史的な災害があったためだ。
1917年 バリ島南部大地震による死者・負傷者はそれぞれ1000名を上回る。
1918年 世界的に流行したインフルエンザがバリを襲う。
1919年 南部バリでネズミが大量発生し穀物の収穫量が激減した。
こうした災難をバリの人々は神々に対する儀礼をおざなりにしていたことに対する神の怒りとして捉え清浄化のために、バロンやサンヒャン・ドゥダリが盛んに行われるようになる。
February 2, 2010
ビラの中で舞踏の夕べ 微笑むダンサー
バリ舞踏で人気のある子役ダンサー
サヌールのビーチ沿いにある、タンジュンサリホテルに隣接する集会所でみかけたバリダンス練習風景。10歳くらいの女の子がリーダーを勤めるが、なかなか本格的というか、伝統の力を体現している。腰と手と目の動きに特徴がある。腰はやや突き出し、手の指は反りと指の分離に修練が必要で、目は何かを見てはいない、目線を常に左右に泳がせている。
レゴンダンス 2011-08-08
昨夜はイナ・シンドゥ・ビーチでレゴンダンスを観る。既に何回も見ているが、やはり何回見ても楽しい。最初に数名の女性で群舞、次に男性の舞踏、女性二人の舞踏、男性と女性の舞踏、少年の舞踏で構成している。特に女性のソロダンスは手と目の動きがよくできていた。目を見開いて黒目を左右に猛スピード(1秒で4回ほど左右に動く)で動かすなどと言う技は初めてみた。これまでにも見ていたのかもしれないが意識的に観たのははじめてだ。こんなことが人間業で可能なのだ。
やはりあの特殊な黒目の動きと手の指が中心となってこの世ならぬものの動きを表している。目は決して観客の目に焦点を結ばない。左右に極端によっていたり、前を向いていてもぶっ飛んだようにあらぬ方を見ている。手の指もくねくねとそりかえり見ているだけでこちらの運動神経までが妙な感覚に刺激されてくる。
男性の舞踏は滑らかな動きと、突然静止して再び動く動作の繰り返しで、密林の猫族を思わせる。
レゴンダンス
バリ島のあらゆる場所で催されるレゴンダンスは東南アジア一帯の特徴と共通しているのだがやはりバリ特有の手と腰、肩の動きがある。
ネカ美術館の絵画
ネカ美術館の絵画 ダンサーの頭がアップで描かれている。金色の飾り物、眉の間に黒いほくろ状が描かれている。
金箔でコラージュしたようなタッチ 二人の掛け合い舞踏
ウブドのレストランで見かけた。
ネカ美術館のショップにて
ウブド宮廷
ウブド宮廷 バリ島最高級のダンスが見られる
キンタマーニ村の祭り
キンタマーニ村の祭りでダンサーの登場を待つ人々
ダンサー登場
極める
子供のダンサーが登場すると女性たちの歓声が一層高まる
スターダンサーの揃い踏み
男性ダンサーが中性風に
ホテルでレゴンダンス
このホテルがレゴンダンス育成の基金を設立しているらしい。踊り手はすべて思春期以前の子供たちで構成するのがこのホテルのレゴンダンスの特徴で、大人のダンサーの凄味はないが一層ピュアな踊りを見ることができる。
ガムラン奏者は17名でこの楽団の音色は柔らかい。ガムラン特有と言ってもよい金属のキンキンした響きが抑えられており、耳に心地よい。メロディーは江戸の吉原から聞こえてくるといってもおかしくない風情だ。写真の足の開きと腰の入り方が宮島で見た奉納舞と通じるものがある。
沖縄の石垣島で行った安里勇さんの店で踊っていた漁師の腰と手つきにも似ている。22年前にバリのディスコでバリ人がこの手つきで踊っていたのを思い出した。この足さばき手さばき腰の据わりはバリ人男性の遺伝子に結びついているらしい。
この少女は10歳になっていないと思われるが、レゴンダンスの本質はつかんでいる。さすがにこの年では瞳を左右に激しく動かす術は体得していないが瞳を横に寄せて踊るさまは神がかっている。ついでながら瞳を左右にずらすのはマスクの効用と同じだと思いついた。古来踊りは神がかりと結びついており、善悪聖邪さまざまな霊が憑依する。踊りが終わると速やかにこの霊たちと縁を切らないと厄介なことになる。そのために能の仮面が作られたというが、仮面のかわりに瞳をずらして踊ることで神がかり、舞踏の後では常の位置に瞳を戻すことで現(うつつ)に戻る仕掛けになっているのではないか。
ケチャダンスでは憑依された男は燃えるヤシがらの上を裸足で踊るが、最後には必ず気を失い、聖職者に聖水を振りかけてもらってうつつに戻る。カラマゾフの兄弟でも兄弟の母親の一人は「おきつねさん」と呼ばれる神がかりで、神がかっては気を失うことを繰り返す。
椰子殻の炎を踏む。
6人の青年が踊りながら中境内の中央で踊って腰を下ろす。8人の少女がり踊りながら入場。ジャンゲールの踊り手がコの字型に腰を降ろすと境内の中央に椰子殻が積み上げられ火が点けられジャンゲールが続く。
椰子殻の炎の前で僧侶のお祈りが始まりひとりの僧侶が何ごとかつぶやきながら出てくるがすでにトランスしている。別のトランスした僧侶が登場し何かに向かって指をかざしている。突然、嬌声とともに踊り手の何人かが燃えさかる椰子殻に突進した。
唄い踊る男女が次々とトランスに陥り、真っ赤に燃える炭の中に飛び込み、蹴散らし、炎を浴びた。
少年ダンサー像
バイパス通り中央分離帯に立つバリスと呼ばれる少年ダンサー像。
単独で踊られる「戦士の舞い」バリス・トゥンガル(Baris tunggal)(インドネシア語で単一・単数)、複数の踊り手のバリスをバリス・グデBaris Gedeと呼ぶ。グデは、ジャワ語&バリ語で大きい・偉大。バリスは列の意味だが一人で踊る。
バリス舞踊は古くは10~20人の槍や剣などの武器を手にした戦士が、列をつくり踊る戦闘舞踊で
寺院祭礼で悪魔払いとして演じられる。つまり隊列を組んで踊っていたのがいつのまにか単独に変わったのだ。
老ダンサー
老ダンサー スリーモンキーの壁にある写真
ケチャダンス
シューピースは1925年にバリに来てサンヒャン・ドウダリ サンヒャン・ジャランの悪魔祓いやチャンドと呼ばれる男性コーラスに感銘を受けた。それを知ったウブドの王スカワティが1925年に27歳のシューピースをドイツから招聘した。シューピースはプドール村のワヤン・リンバックと協力してケチャを作った。
ケチャはトッケーやカエルの鳴き声から来ている。上半身は裸でボレンと呼ばれる白黒のパンツをはき、右耳にハイビスカスの花をつける。
バリ島は年に何回もお祭りがあり、そのたびに村を離れて観光地のクタなどに働きに出ている多くの人々が帰郷する。経営者も従業員の申し出を拒むことはできない。その優先度は大変なもので彼らの人生の最も大切な一つだろう。仕事がたとえ忙しかろうとお祭りには帰る。そのために備える供物代や衣装交通費など相当なもの入りだと聞いている。
バリ滞在中は地元の友人夫妻の誘いでお祭りには何回か参加している。お祭りには村人全員がそろうようだ。祭に参加しないことはあってはならないことで、それは共同体からの離脱を意味する。全員で祭具を作り飾り豚を屠り捌き料理を作る。これらを村の大きな庭で和気あいあいと進めていく。男たちはガムランの演奏を奏でる。子供の時から見聞きしすべての男達が演奏できるようだ。
大きな祭りにはプロの舞踏集団が招かれる。プロと言っても農業の他に他の村に出向いて踊る人々のことで、子供も多く含まれる。このときに演じられるのはレゴンダンスと呼ばれる種類のもので、タイや中国の踊りをどこか連想させる。可愛い男の子のダンサーが登場するとおばさんたちの掛け声も熱を帯びてくる。
バリにはもう一つの舞踏がある。ケチャダンスあるいは単にケチャ、ケチャックと呼ばれる。ギャナールのボナ村がケチャダンス発祥の地とされている。 これは男だけの舞踏で大勢の男たちが胡坐をかいてすわり、チャ、チャ、チャという声を連続して発する。その声の中を男のダンサーが踊る。踊り手はチャ、チャ、チャの声と舞踏で徐々に投資状態に入っていく。
陶酔が深くなってきたころ、ヤシガラに火をつけて床一面を火にする。ヤシガラは燃えてる。ふれればやけどは間違いのないところだ。その燃え盛るヤシガラのなかに男は飛び込み、裸足の足で踏みつけていく。踏みつぶして火の手が収まるころに男は失神する。僧がこの男を抱きかかえていく。これでダンスは終わりを迎える。
このダンスで驚くのは二つある。陶酔に入り熱さを感じなくなっているばかりか、やけどをしていないことだ。目の前で火の中に入り、直接燃えるヤシガラに触れているのに誠に不思議な現象だ。もうひとつは言葉ともいえない音の発声だけで深い陶酔に入り、火の恐怖と痛みを克服している点だ。酒も麻薬も使っていない単にリズミカルな連続した発声だけでトランス状態になっていけるものなのだ。
酒も麻薬も外部からの薬物効果だが、このケチャは音声のみによるトランス効果だ。体をむしばむことのない方法の一つだろう。もうひとつは北アフリカやエジプトで見る旋回舞踏だろう。これは音声ではなく、ひたすらクルクルと旋回することによりトランス状態に入る。
考えてみればこれらの方法は信仰にも使われている。念仏やお題目の繰り返しはこのケチャと通じるものがある。信長の時代に流行った踊り念仏は旋回舞踏と同じに見えてくる。
バロンダンスは平和で穏やかで神に感謝を捧げる踊り、ケチャダンスは生死をかけた戦闘の前の勇気を鼓舞するための踊りそんな理解を自分なりにしてみた。そしてケチャは音声の繰り返しだけでも麻酔に匹敵する効果があることを予測させる。
ケチャダンス サムアンティガ寺院でお披露目の席で座って眺めているのは創作者のワヤン・リンバックか。
シュ―ピースと協力してケチャを作ったワヤン・リンバック。
タナロットのケチャ
2002年10月12日 クタでテロ 200人以上が死傷。
2002年10月、バリ島南部の繁華街クタで、路上に止めてあった自動車爆弾が爆発、向かいのディスコなど多くの建物が吹き飛んで炎上し、外国人観光客を含む202名が死亡した。
2005年10月1日、インドネシアのバリ島南部、デンパサール国際空港に近い国際的な観光地クタとジンバラン・ビーチにある3軒の飲食店で爆発があった事件。死者は容疑者3人を含む23人。
2006年9月29日 テロの犠牲者追悼のケチャがタナロットで催される。
ネカ美術館 写真に見るダンス
息子にダンスを教える名人の父
踊る少女
「バリ島物語」より
バロンダンス
「バリ特有のものです。・・・神懸かりと魔術とクリス(短剣)踊りとその他いろいろなものが混ざっていて、・・・一種の守護神です。・・・我々(注 オランダ人)はいつもバリ人について判断を謝る危険があるんです。彼らは大変礼儀正しく、大変穏和で、大変よく服従し、子供っぽい向こう見ずな性格を持っています。それが一瞬にして残忍性と異常とに転じ得ると言うことがバロンをみるとわかるのです」
バリ人の侍従がオランダからの役人にバロンダンスを説明する下りだ。このダンスはバリのいたるところで観ることができる。ホテルのショーで、あるいは村の観光向けの劇場で、あるいは村々のお祭りでの催しにと。
バリ島物語の著者は、このバロンダンスの説明を借りて、ププタンに現れたバリ人の奥深くにある性情を暗示しようとしているように思える。ププタンはこの著書の主題であり、100年前に起きたバリ人のオランダ軍に対する集団自決だ。しかし集団自決とバロンダンスでの自らの胸を剣で刺すという自虐的行為形が似ているかというと、実は似て非なるものではないか。何が違うのかはもう少し考えてみる必要があるが。
「悪の主みたいなものです、・・・死の女神ドゥルガの化身なのです、ドゥルガはほかのときにはシバ神の妻として現れるのですが」
ドゥルガの登場に対して、侍従が解説を加えている。このあたりになってくるとどちらが正でどちらが悪か観ている方には区別がつかなくなってくる。バロンが聖獣で頭では正義を表していると理解してるのだが、勝負の決着が最後までつかないので、知識と先入観なしにみると、どちらが正か悪かわからなくなるのもバリ舞踏劇の特徴かと思う。
「次の瞬間一つの叫び声が上がると短剣の踊り手が一斉に荒々しく突進して、ランダに飛びかかった。反りをうった剣をまっすぐに突き立て、死と殺人と狂気とを眼に漂わせて。・・・ランだが手を上げると、男達は・・・死んだように横たわった。しかしランダもまた、ある神秘の力の犠牲となった。」
ここにも勧善懲悪は見られない。善も悪も同等の価値として存在するのか。
「この獅子の足が触ると、彼らは一人一人起ち上がった。短剣の両刃の切っ先を持ち帰るや彼ら自身に向けた。・・・なおも深く、なおも激しく短剣を胸に突き立てた。」
クビヤール
クビヤールは原始的で烈しく速く猛々しい。壮烈、華麗、興奮、衝撃、激動の中に浮かび上がる澄んだ響き。
メロディがチェンチェン(小さなシンバル楽器)に破られる。 ふたりの若い女性の踊り子は眼を輝かせてランセル(幕)を振るわせ現れる。
軽くステップを踏みゆっくりと頭と身体を傾けて首を振る。チェンチェンに合わせて半円を描きながらまわる。
膝をつき半分座った姿勢で身体を震わ視線は稲妻のように動く。
木の葉が風に舞っているように端から端へ動く。
踊り子は紫色と金色の布の冠、深紅と金色の長袖、胴に帯を巻いている。
透かし彫りの金の首輪、カマン(腰布)は黒く輝く。ターコイズと金の腰飾りには銀色のへりが。
踊り子は陶酔からいきなり眼を見開くが黒眼は完全に白眼に囲まれ真ん丸く見える。
前歯の1本の金歯がかすかに光る。