まさおレポート

紀野一義の研究73 法師品

以下は紀野一義講演(youtube)メモです。


妙法華経の一偈一句を聞いて、乃至一念も随喜せん者は我皆記を与え授く。


この一偈一句で山頭火の次の一句を思い出します。

遠く遠く鳥わたる山々の雪

戦争が終わって山口県津山でやることがないので毎日山に上って昼寝をしていました。結構な身分でしたね。

あるとき婆さんが「あんた、毎日山で昼寝をしてるんだろう。山がしろくなったら教えてくれんかな。しろくなるとそのうち雪が降るんでね」と。そういわれて毎日山をながめていたらあるときに鳥がやまやまの向こうに飛んでいく風景が目に入り強く印象づけられたのを覚えています。

広島の原爆で家族や仲良くしていた人みんな死んだんですから雪をかぶった山がほとけさまに見えたんですね。そのあとでこの句に出会ったんです。

 遠く遠く鳥わたる山々の雪

雪を頂いた山はほとけさまでそのなかの一羽が自分自身だと気が付いたんです。


わたしは最近藤原定家に惹かれている。妖艶な世界、目に見えない世界であり美しいものを妖艶と言うのです。今風の妖艶とはちょっと違いますね。無常であり滅びであり死があり、そのなかに輝きがある。藤原定家は幽玄、目に見えないもの、黒いものにあこがれていた。

しろたへの袖のわかれに露おちて身にしむ色の秋風ぞ吹く

定家


この法師品の随喜は一念発起して発菩提心を起こすところに生じる。

正法眼蔵では「発菩提心」の巻がなんとも名文ですね。ほとけの意思がないと発心、発菩提心を起こせないのです。


世の中には会長などとして人の上に立場上君臨している人がいます。立場上君臨しているだけならどうしようもない。何万もの人を預かり意思を引き受けている。背後にほとけの意思を感じるようでなきゃいけないですね。

朝比奈老師は32歳の時に村田和尚のところで修業をなさった。この 村田和尚は若い時には自ら仏に向かっていく姿勢がなかった。奥さんもらったらなんとかなると檀家が想ったがさらにいけない。檀家もぼんくらばかりですね。

この村田和尚が博多の寺に預けられて発心した。


若し復人あって妙法華経の乃至一偈を受持・読誦し解説・書写し、此の経巻に於て敬い視ること仏の如くにして、種々に華・香・瓔珞・抹香・塗香・焼香・・蓋・幢幡・衣服・妓楽を供養し、乃至合掌恭敬せん。薬王当に知るべし、是の諸人等は、已に曽て十万億の仏を供養し、諸仏の所に於いて、大願を成就して、衆生を愍むが故に、此の人間に生ずるなり


衆生を憐れむがゆえに生まれてくる。

自分は永遠に彼岸に渡らない。渡すと言われると抵抗がない。

人をわたせ。自分のハエは追えないけど他人のはえは追える。

精霊船がぞろぞろ上ってくるように元の娑婆に戻って渡し守を永遠に行い続ける。 


わたしの年上の友達に坂村真民がいらっしゃる。この方はいつでも

日本各地でたのまれれば「念ずれば花開く」と書く。

「念ずれば花開く」は苦しい時に坂村真民のおかあさんが口にしていた言葉で、氏も苦しい時は「念ずれば花開く」と唱えた。すると不思議に立ちふさがる難問がひとつひとつ解決していった。

「念ずれば花開く」を坂村真民のお母さんからさらにずっと辿っていくとほとけさまからきているんですね。これが一偈一句ですね。


一人の為にも法華経の乃至一句を説かん。当に知るべし、是の人は則ち如来の使なり。

法華経を説くものは如来使であると法師品に説かれている。

せっかくこの世に生まれてきて如来使に会わなければしょうがないですね。わたしの父も如来使だった。母も必要以上に如来使だった。わたしは如来使に会っているのでいつ死んでも成仏は確定していますね。

この父と母はまあ、不思議なことが一杯あったんですね。わたしの育った寺は門から玄関まで50メートルもあったんで、家の中にいると門をたたく音など聞こえるはずがない。

あるとき父がふと目をあけて遠くを見る目をする。母もそれに合わせて何かを感じている。

「入院されていた檀家の方はいま亡くなったんですね」と母がいう。父がそうだと答える。亡くなった人が戸を叩いたという。


宮沢賢治の弟の清六さんは兄の賢治は如来使だと信じていたんでしょう。


オヤジが私に「お前は極楽とんぼだな」と。息子も極楽とんぼでわたしよりもひどいですね。紀野家には極楽とんぼの血がながれているんでしょうかね。


此の経は如来の現在すら猶お怨嫉多し、況んや滅度の後をや。

日蓮上人は法師品を身をもって読まれている。43歳のときに小松原で東条景信一行に待ち伏せ攻撃され絶体絶命に陥る。そのあとに書かれたお手紙には「みな七宝の塔をたて」とあります。 


如来の滅後に四衆の為に是の法華経を説かんと欲せば、云何してか説くべき。是の善男子・善女人は、如来の室に入り如来の衣を著如来の座に坐して、爾して乃し四衆の為に広く斯の経を説くべし。如来の室とは一切衆生の中の大慈悲心是れなり。如来の衣とは柔和忍辱の心是れなり。如来の座とは一切法空是れなり。是の中に安住して、然して後に不懈怠の心を以て、諸の菩薩及び四衆の為に、広く是の法華経を説くべし。


この中の大慈悲心の慈とは呻いたことのあるものという意味です。 呻いたことのあるあらゆる人間に友情をもつ。われわれはみな死んでいくものだから呻いたことのあるものですね。

阿含経は初期の経ですが無常が説かれている。なぜ無常か。われわれは永遠の生命から離れて自立して生まれてくるのですが、自立すれば無常が生まれてくる。だから慈が大切な行為となる。

全てが空であると腹をすえるというのが如来の自覚。


ヘッセの「シッダールタ」 に何ができるかと問われ、考えること、待つこと、断食ができると答える。

(わたしは一週間くらい平気で断食できる)


藤原定家の世界は妖艶だ。妖艶とは怪しい美しさではなく若々しい美しさであり幽玄と同じ意味だ。従来の侘・寂は彩がないことを特徴とするが定家は幽玄でほろびがあるからこそ輝いているのではないかと考えた。それが川端康成までつながっていく。

人生には美が大事で、一点輝くものがなければいけない。

(筆者注 藤原定家の幽玄と法師品の関係は疑問として残しておく)


参考

第六十三 發菩提心

西國高曰、雪山喩大涅槃(雪山を大涅槃に喩ふ)。
しるべし、たとふべきをたとふ。たとふべきといふは、親曾なるなり、端的なるなり。いはゆる雪山を拈來するは喩雪山なり。大涅槃を拈來する、大涅槃にたとふるなり。

震旦初曰、心心如木石。
いはゆる心は心如なり。盡大地の心なり。このゆゑに自他の心なり。盡大地人および盡十方界の佛および天、龍等の心心は、これ木石なり。このほかさらに心あらざるなり。この木石、おのれづから有、無、空、色等の境界に籠せられず。この木石心をもて發心修證するなり、心木心石なるがゆゑなり。この心木心石のちからをもて、而今の思量箇不思量底は現成せり。心木心石の風聲を見聞するより、はじめて外道の流類を超越するなり。それよりさきは佛道にあらざるなり。

大證國師曰、牆壁瓦礫、是古佛心。
いまの牆壁瓦礫、いづれのところにかあると參詳看あるべし。是什麼物恁麼現成と問取すべし。古佛心といふは、空王那畔にあらず。粥足足なり、草足水足なり。かくのごとくなるを拈來して、坐佛し作佛するを、發心と稱ず。

おほよそ發菩提心の因、ほかより拈來せず、菩提心を拈來して發心するなり。菩提心を拈來するといふは、一莖草を拈じて造佛し、無根樹を拈じて造經するなり。いさごをもて供佛し、漿をもて供佛するなり。一摶の食を衆生にほどこし、五莖の花を如來にたてまつるなり。他のすすめによりて片善を修し、魔にせられて禮佛する、また發菩提心なり。しかのみにあらず、知家非家、家出家、入山修道、信行法行するなり。造佛造塔するなり。讀經念佛するなり。爲衆法するなり、尋師訪道するなり。跏趺坐するなり、一禮三寶するなり、一稱南無佛するなり。
かくのごとく、八萬法蘊の因、かならず發心なり。あるいは夢中に發心するもの、得道せるあり、あるいは醉中に發心するもの、得道せるあり。あるいは飛花落葉のなかより發心得道するあり、あるいは桃花翠竹のなかより發心得道するあり。あるいは天上にして發心得道するあり、あるいは海中にして發心得道するあり。これみな發菩提心中にしてさらに發菩提心するなり。身心のなかにして發菩提心するなり。佛の身心中にして發菩提心するなり、佛の皮肉骨髓のなかにして發菩提心するなり。
しかあれば、而今の造塔造佛等は、まさしくこれ發菩提心なり。直至成佛の發心なり、さらに中間に破癈すべからず。これを無爲の功とす、これを無作の功とす。これ眞如觀なり、これ法性觀なり。これ佛集三昧なり、これ得佛陀羅尼なり。これ阿耨多羅三藐三菩提心なり、これ阿羅漢果なり、これ佛現成なり。このほかさらに無爲無作等の法なきなり。
しかあるに、小乘愚人いはく、造像起塔は有爲の功業なり。さしおきていとなむべからず。息慮凝心これ無爲なり、無生無作これ眞實なり、法性實相の觀行これ無爲なり。かくのごとくいふを、西天東地の古今の俗とせり。これによりて、重罪逆罪をつくるといへども造像起塔せず、塵勞稠林に染汚すといへども念佛讀經せず。これただ人天の種子を損壞するのみにあらず、如來の佛性を撥無するともがらなり。まことにかなしむべし、佛法の時節にあひながら、佛法の怨敵となりぬ。三寶の山にのぼりながら空手にしてかへり、三寶の海に入りながら空手にしてかへらんことは、たとひ千佛萬の出世にあふとも、得度の期なく、發心の方を失するなり。これ經卷にしたがはず、知識にしたがはざるによりてかくのごとし。おほく外道邪師にしたがふによりてかくのごとし。造塔等は發菩提心にあらずといふ見解、はやくなげすつべし。こころをあらひ、身をあらひ、みみをあらひ、めをあらうて見聞すべからざるなり。まさに佛經にしたがひ、知識にしたがひて、正法に歸し、佛法を修學すべし。
佛法の大道は、一塵のなかに大千の經卷あり、一塵のなかに無量の佛まします。一草一木ともに身心なり。萬法不生なれば一心も不生なり、法實相なれば一塵實相なり。しかあれば、一心は法なり、法は一心なり、全身なり。造塔等もし有爲ならんときは、佛果菩提、眞如佛性もまた有爲なるべし。眞如佛性これ有爲にあらざるゆゑに、造像起塔すなはち有爲にあらず、無爲の發菩提心なり、無爲無漏の功なり。ただまさに、造像起塔等は發菩提心なりと決定信解すべきなり。億劫の行願、これより生長すべし、億億萬劫くつべからざる發心なり。これを見佛聞性といふなり。
しるべし、木石をあつめ泥土をかさね、金銀七寶をあつめて造佛起塔する、すなはち一心をあつめて造塔造像するなり。空空をあつめて作佛するなり、心心を拈じて造佛するなり。塔塔をかさねて造塔するなり、佛佛を現成せしめて造佛するなり。
かるがゆゑに、經にいはく、作是思惟時、十方佛皆現。
しるべし、一思惟の作佛なるときは、十方思惟佛皆現なり。一法の作佛なるときは、法作佛なり。

釋牟尼佛言、明星出現時、我與大地有、同時成道。
しかあれば、發心修行、菩提涅槃は、同時の發心、修行、菩提、涅槃なるべし。佛道の身心は草木瓦礫なり、風雨水火なり。これをめぐらして佛道ならしむる、すなはち發心なり。空を撮得して造塔造佛すべし。溪水を掬啗して造佛造塔すべし。これ發阿耨多羅三藐三菩提なり。一發菩提心を百千萬發するなり。修證もまたかくのごとし。
しかあるに、發心は一發にしてさらに發心せず、修行は無量なり、證果は一證なりとのみきくは、佛法をきくにあらず、佛法をしれるにあらず、佛法にあふにあらず。千億發の發心は、さだめて一發心の發なり。千億人の發心は、一發心の發なり。一發心は千億の發心なり、修證轉法もまたかくのごとし。草木等にあらずはいかでか身心あらん、身心にあらずはいかでか草木あらん、草木にあらずは草木あらざるがゆゑにかくのごとし。
坐禪辨道これ發菩提心なり。發心は一異にあらず、坐禪は一異にあらず、再三にあらず、處分にあらず。頭頭みなかくのごとく參究すべし。草木七寶をあつめて造塔造佛する始終、それ有爲にして成道すべからずは、三十七品菩提分法も有爲なるべし。三界人天の身心を拈じて修行せん、ともに有爲なるべし、究竟地あるべからず。草木瓦礫と四大五蘊と、おなじくこれ唯心なり、おなじくこれ實相なり。盡十方界、眞如佛性、おなじく法住法位なり。眞如佛性のなかに、いかでか草木等あらん。草木等、いかでか眞如佛性ならざらん。法は有爲にあらず、無爲にあらず、實相なり。實相は如是實相なり、如是は而今の身心なり。この身心をもて發心すべし。水をふみ石をふむをきらふことなかれ。ただ一莖草を拈じて丈六金身を造作し、一微塵を拈じて古佛塔廟を建立する、これ發菩提心なるべし。見佛なり、聞佛なり。見法なり、聞法なり。作佛なり、行佛なり。

釋牟尼佛言、優婆塞優婆夷、善男子善女人、以妻子肉供養三寶、以自身肉供養三寶。比丘受信施、云何不修(優婆塞優婆夷、善男子善女人、妻子の肉を以て三寶に供養し、自身の肉を以て三寶に供養すべし。の比丘に信施を受く、云何が修せざらん)。
しかあればしりぬ、飮食衣服、臥具醫藥、房田林等を三寶に供養するは、自身および妻子等の身肉皮骨髓を供養したてまつるなり。すでに三寶の功海にいりぬ、すなはち一味なり。すでに一味なるがゆゑに三寶なり。三寶の功すでに自身および妻子の皮肉骨髓に現成する、勤の辨道功夫なり。いま世尊の性相を擧して、佛道の皮肉骨髓を參取すべきなり。いまこの信施は發心なり。受者比丘、いかでか不修ならん。頭正尾正なるべきなり。これによりて、一塵たちまちに發すれば一心したがひて發するなり、一心はじめて發すれば一空わづかに發するなり。おほよそ有覺無覺の發心するとき、はじめて一佛性を種得するなり。四大五蘊をめぐらして誠心に修行すれば得道す、草木牆壁をめぐらして誠心に修行せん、得道すべし。四大五蘊と草木牆壁と同參なるがゆゑなり、同性なるがゆゑなり。同心同命なるがゆゑなり、同身同機なるがゆゑなり。
これによりて、佛の會下、おほく拈草木心の辨道あり。これ發菩提心の樣子なり。五は一時の栽松道者なり、臨濟は黄檗山の栽杉松の功夫あり。洞山には劉氏翁あり、栽松す。かれこれ松栢の操節を拈じて、佛の眼睛を抉出するなり。これ弄活眼睛のちから、開明眼睛なることを見成するなり。造塔造佛等は弄眼睛なり、喫發心なり、使發心なり。
造塔等の眼睛をえざるがごときは、佛の成道あらざるなり。造佛の眼睛をえてのちに、作佛作するなり。造塔等はつひに塵土に化す、眞實の功にあらず、無生の修練は堅牢なり、塵埃に染汚せられずといふは佛語にあらず。塔婆もし塵土に化すといはば、無生もまた塵土に化するなり。無生もし塵土に化せずは、塔婆また塵土に化すべからず。遮裡是甚麼處在、有爲無爲なり。

經云、
菩薩於生死、最初發心時、一向求菩提、堅固不可動(菩薩生死に於て最初に發心せん時、一向に菩提を求む、堅固にして動かすべからず)。
彼一念功、深廣無涯際、如來分別、窮劫不能盡(彼の一念の功、深廣無涯際なり、如來分別してきたまひ、劫を窮むるも盡すこと能はじ)。
あきらかにしるべし、生死を拈來して發心する、これ一向求菩提なり。彼一念は一草一木とおなじかるべし、一生一死なるがゆゑに。しかあれども、その功の深も無涯際なり、廣も無涯際なり。窮劫を言語として如來これを分別すとも、盡期あるべからず。海かれてなほ底のこり、人は死すとも心のこるべきがゆゑに不能盡なり。彼一念の深廣無涯際なるがごとく、一草一木、一石一瓦の深廣も無涯際なり。一草一石もし七尺八尺なれば、彼一念も七尺八尺なり、發心もまた七尺八尺なり。
しかあればすなはち、入於深山、思惟佛道は容易なるべし、造塔造佛は甚難なり。ともに進無怠より成熟すといへども、心を拈來すると、心に拈來せらるると、はるかにことなるべし。かくのごとくの發菩提心、つもりて佛現成するなり。

正法眼藏發菩提心第六十三

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