冤罪の執拗な下ごしらえ
作者ドストエフスキーはドミトリーの裁判と冤罪に至る過程をかなりのボリュームを費やして描いている。しかもフィナーレの直前に書きこまれている。作者はこの冤罪を何故そんなに紙数を費やして描きたかったのだろうか。思うに裁判というのは人生の縮図であり、再現でもあるので、小説のまとめとしてお誂えなのではないか。
作者ドストエフスキーはドミトリーが疑われてもしかたがない状況を執拗に描く。冤罪が自然ななりゆきであるかのようにストーリーを運ぶ。読者は途中までドミトリーがやったのではと思い始める。
スメルジャコフの告白と自殺
スメルジャコフのイワンにたいする告白で読者だけは真実をしるが、スメルジャコフはあいまいな遺書を残して不可解な自殺を遂げる。しかもイワンは気が狂ったと周囲にみなされ、彼の証言は疑わしいものとなる。イワンの発狂はそれまでにも周到に準備されているので流れは自然であるが、スメルジャコフがこのタイミングで自殺するというのはドミトリーを冤罪に向かわせる流れとしてかなり強引で不自然な気がしてならないがおそらく書ききれなかった深い事情があるのだろう。スメルジャコフはそれまでどこにも自殺をするような人間には描かれていないのだから。
もしもスメルジャコフが自殺しなかったらドミトリーは冤罪とはならなかっただろう。作者はそこまで無理をしてドミトリーの冤罪に説得性を持たせようとする。そうまでして冤罪を語りたかったのだという風にも思う。
この作品は未完であり第二部が構想されていたとは作者自身が序文でも書いている。このことはこの第一部だけでは結構が保たれていない点も多く、第二部で解決するつもりの謎も多いのですよと言っていると受け止めたい。そう考えると二つの点が気になってくる。
第一の謎 スメルジャコフは何故あいまいな遺書を残して不可解な自殺を遂げたのか。
第ニの謎 カテリーナがスメルジャコフを訪問して、何ごとかを話し合ったことを知ったイワンはスメルジャコフを(三度目の)訪問をする。 しかし作品中では何が話されたかは一切触れられていない。なにかスメルジャコフが自殺を決意するほどの言葉が発せられたのではないかとの推測の思いがよぎるだけだ。
第三の謎 カテリーナとイワンの関係も謎に満ちている。アリョーシャがカテリーナがイワンに「あんた」 と呼びかけることで二人は出来ていると気がつく記述があるが、その関係は相当深いと思わせながら、明確には描かれてはいない。作者はこの二人の関係だけで長編小説ができると作中に書いている。
第四の謎 カテリーナがスメルジャコフになにかを言い、それが自殺へと向かわせた。イワンの裁判直前になっての発狂もカテリーナが一枚噛んでいるのではないかとも。そして裁判でのドミトリー有罪にとって決定的となる殺人計画書の提示だけでも冤罪に追いやるには有力だが、さらに決定だとなる上記の出来事もこれまたカテリーナが関与していたのではないかとも思えてくる。
第五の謎 グリゴーリーはなぜフョードルの家に通ずるドアが開いていたと証言したのだろうか。カテリーナの証言である、ドミトリーが酒場で書いた殺人計画書の裁判への提示と合わさってフョードル殺人事件で長男ドミトリーの有罪が決定的となる。従って何故事実(ドアは閉まっていた)と異なる嘘を言う必要があったのかを推測することが大事になってくる。
スメルジャコフの母スメルジャチフを腹ましたのはグリゴーリー?
スメルジャコフがイワンに述べるように去勢馬のような頑固者グリゴーリーの単なる勘違いと読み取るにしても、作者はなんらかの意図をもって勘違いをさせている。うそをつくにしても勘違いをするにしても作者ははっきりとした意図をもっている。
弁護士フェチコビッチはグリゴーリーが当時西暦何年かもしらぬ無知な男だと証明するが、さりとてそのことが裁判での彼の証言の信憑性に陪審員をして疑問を抱かせることに成功したとしても、グリゴーリーがフョードルの家のドアが開いていたとなぜ証言したかの説明にはならない。
①グリゴーリーがドミトリーを憎むあまり犯人にしたかった、あるいは②スメルジャコフ犯行をなぜか隠したかった、いずれの妥当性も作者は明示していない。①の根拠としてはグリゴーリーはドミトリーの母親を毛嫌いしていたことが作中に示されている。それとてドアがあいていたとしてドミトリーを陥れようと考えることとはちょっと無理がある。
②の根拠としては「女好きな人々」の章でグリゴーリーとスメルジャコフのなれそめ(グリゴーリーの部屋の近くの風呂で産み落とされる)を述べている事で、しかしそこで読者はくそまじめなグリゴーリーが「女好き」だとは非常に違和感を持つと思うが、作者はくそまじめな人間として描いているグリゴーリーの女好きな一面を章題で暗示したかったと考えるのが自然だろう。もしかしてスメルジャコフの母スメルジャチフを腹ましたのはグリゴーリーということを章題で暗示しているのか。そうするとスメルジャコフは世間で言われているようなフョードルの子ではなく彼の子どもという事になる。
作者はあくまで決定的な説明は避けて、フョードルの息子だと世間が噂しているが本人は面白がっていると述べるレベルでとどめている。しかしフョードルがスメルジャコフの父だとの自覚があるのなら、いくらなんでもスメルジャコフを下男やコックにしてみじめな状態にしておくわけはない。フョードルが自らが腹ましたのならその自覚が当然あり、なんらかの気遣いを見せるはずだが、作中ではフョードルはグリゴーリーの折檻をやめさせたとあるだけで、折檻に対して激しく怒ったとかの記述はない。グリゴーリーもフョードルの子かもしれないのであれば激しい折檻は流石にしない。スメルジャコフがグリゴーリーの子であれば折檻を行っても不思議はない。
もうひとつ、どうとでもとれそうな記述がある。グリゴーリーの妻はスメルジャコフを赤ん坊の時から無条件に可愛がってくれたとある。スメルジャコフは猫を殺して葬儀ごっこをやるような可愛げのない子供でだれからも可愛がられそうもない、通常であれば妻も無関心なのが相場であるが、グリゴーリーの妻は彼を親身に可愛がる。なんらかの理由があるはずでスメルジャコフがグリゴーリーの子どもであるとすると納得もできる。いや、かえって憎むのが自然であるとの意見もありで、いずれにしても夫の子であれば無関心だけは有り得ない。
イワンがスメルジャコフの部屋を訪れるとテーブルの上にグリゴーリーが愛読したイサク云々の書物が置いてあったと書かれている。無神論者スメルジャコフがこの書物を読んだというのも謎であるが、グリゴーリーと同じ書物を読んでいたことで作者は二人のただならぬ関係を示したかったに違いない。
そうするとグリゴーリーは実の息子スメルジャコフをかばうためにドアが開いていたと嘘の供述をしたというのが俄然納得できることになるが果たしてどんなもんだろう。
裁判
裁判の場面は1000 ページにも及ぶ小説原本のほぼ100 ページを占める、つまり10%のページを法廷シーンに当てていることになる。作者は検事の目を借りてこの家族の光景に、ロシアの知識階級に共通するいくつかの基本的な要素「母なるロシア」「唯物論的なヨーロッパ主義」「民衆原理」を抽出してこの作品の主題を束ねにかかる。
ドミトリーの公判が始まり弁護士フェチュコーウィチと検事イッポリートは論戦を展開する。召喚される証人たちの証言は一進一退を繰り返す。裁判は深夜まで続けられ陪審員がドミトリーに有罪判決を下した。
検事イッポリートは「おれはロシアの神を愛しているんだ」というドミトリーを「母なるロシア」の聖の象徴、イワンは「ヨーロッパ伝来のキリスト教、聖とそのアンティテーゼとしての唯物論、俗を併せ持つヨーロッパ主義」の象徴、アリョーシャは「民衆原理」の象徴だと言う。スメルジャコフは俗な「唯物論的なヨーロッパ文明」でフョードルは俗な「母なるロシア」というところか。
スメルジャコフはイワンの「ヨーロッパ伝来のキリスト教」は理解できず「唯物論的なヨーロッパ文明」のみに傾倒する、このため「母なるロシア」の俗の体現者フョードルを殺し、聖の「母なるロシア」体現者ドミトリーを有罪にする。
俗な「唯物論的なヨーロッパ文明」はフョードルを殺し、イワンを狂わせる。この構図はなにやらプーチンとトランプの今日を予言している。
裁判における事実認定は現代も同じ
現代の裁判における事実認定は民事でも刑事でも証拠によって行われ、人の話を証拠として用いるには証人尋問が行われる。そして証明したい事実に辿りつくまで証明しようとする側からの主尋問と証明させまいとする側からの反対尋問での弾劾が交差する。ドミートリの弁護人フェチュコーウィチ弁護士と検事イッポリートの論戦は現代日本の裁判でも変わらない。