まさおレポート

当ブログへようこそ。広範囲を記事にしていますので右欄のカテゴリー分類から入ると関連記事へのアクセスに便利です。 

師が地獄に落ちたら自分も地獄に落ちる覚悟でついていかないと一定のレベルには至らない。道元も日蓮も親鸞もそうした。それから一本の道を歩み出した。

2023-03-26 | 紀野一義 仏教研究含む

師を決めたなら一生その道を歩む。これが日本の古来から現代に続く人の生き方だが果たしてそうなのかとの疑念が昨今のカルト問題やオームを見て湧いてくる。

師を決めたなら一生その道を歩むということを否定したら宗教は成り立たない。よく言われるように師が地獄に落ちたら自分も地獄に落ちる覚悟でついていく。しかしこれは極めて危険だということも既に多くの現実で学んだ。


途中で師に疑念を抱いたらどうすれば良いのか。これは極めて深刻な問題だが誰も明快に答えを出していない。

一つ言えることは師を決めるということはその人の考えを受け入れると決めることなのだろう。だからその考えにズレが生じてきたら離れるのが良い。

それも師を決めたなら一生その道を歩むということと共存できる考え方だ。(この論法は現代では納得されない、しかし矛盾に満ちた世界を丸呑みする一段飛んだ世界が宗教ではないか。)

鎌倉の祖師たちは師を持ったが自分の考えを確立すると離れていった。道元は中国から帰還して自ずと生身の師から離れた。親鸞は法然と別の宗派を開いた。日蓮は清澄寺の師や比叡山の師から離れてむしろ批判を加えた。


そうか、これはステップなのだ、師が地獄に落ちたら自分も地獄に落ちる覚悟でついていかないと一定のレベルには至らない。道元も日蓮も親鸞もそうしたのだ。それから一本の道を歩み出した。


これでカルトの見分け方が見えてきた。一定のレベルに至るまでは地獄に落ちる覚悟でついてきなさい、そのあとは自分の足で歩きなさい、批判しても全く構わない、自由だ、そう言ってのける師こそがあるいは教祖こそが求めるべきなのではないか。

でもしかし自由だと言われてそれに耐えられる人間も多くはいないだろう。そういう人はどう心の安定を得れば良いのか、どう救われるべきなのか。


つまり今度は自由だと言われて「カラマーゾフの兄弟」の大審問官問題、つまり自由か崇拝かの人類の大問題にぶち当たることになる。

なるほど現代のカルト問題を考えるということは「カラマーゾフの兄弟」の大審問官で提起された人類の大問題にぶち当たるということだったのか。200年前に文豪によって提起されたビッグテーマはそう簡単に解けない。


さてあれこれ考えてみても個々の生きている生身の心の平安には程遠いことに気がつく。(考えるのはいいことだが)

わたしなりの結論は好きな人の言うことを信じてついていくと言うことか。金と権力を追い求める人は論外だ。


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。