ゾシマの次の言葉はわたしには法華経如来寿量品に響きあっているように思える。
「この地上においては、多くのものが人間から隠されているが、その代わりわれわれは他の世界-天上のより高い世界と生ける連結関係を有しているところの、神秘的な尊い感覚が与えられている。
それに、われわれの思想、感情の根源はこの地にはなくして、他の世界に存するのである。哲学者が事物の本質をこの世で理解することは不可能だというのは、これがためである。神は種を他界より取ってこの地上にまき、おのれの園を作り上げられたのである。そして人間の内部にあるこの感情が衰えるか、それともまったく滅びるかしたならば、その人の内部に成長したものも死滅する。そのときは人生にたいして冷淡な心持になり、はては人生を憎むようにさえなる」
「多くのものが人間から隠されている」が「近しと雖も而も見えざらしむ」に読める。
「神秘的な尊い感覚が与えられている」は「方便力を以っての故に 滅不滅有りと現ず 余国の衆生の 恭敬し信楽する者有らば 我復彼の中に於いて 為に無上の法を説く」と響きあう。
「われわれの思想、感情の根源はこの地にはなくして、他の世界に存するのである」は「余国の衆生の 恭敬し信楽する者有らば 我復彼の中に於いて 為に無上の法を説く」とこれまた響きあう。
以下は法華経如来寿量品の読み下し文です。
常に法を説いて 無数億の衆生を教化して 仏道に入らしむ 爾しより来無量劫なり
衆生を度せんが為の故に 方便して涅槃を現ず 而も実には滅度せず 常に此に住のして法を説く 我常に此に住すれども 諸の神通力を以って 顛倒の衆生をして 近しと雖も而も見えざらしむ
衆我が滅度を見て 広く舎利を供養し 咸く皆恋慕を懐いて 渇仰の心を生ず 衆生既に信伏し 質直にして意柔軟に 一心に仏を見たてまつらんと欲して 自ら身命を惜しまず 時に我及び衆僧 倶に霊鷲山に出ず
我時に衆生に語る 常に此に在って滅せず 方便力を以っての故に 滅不滅有りと現ず 余国の衆生の 恭敬し信楽する者有らば 我復彼の中に於いて 為に無上の法を説く 汝等此れを聞かずして 但我滅度すと謂えり
我諸の衆生を見るに 苦海に没在せり 故に為に身を現ぜずして 其れをして渇仰を生ぜしむ 其の心の恋慕するに因って 乃ち出でて為に法を説く
神通力是の如し 阿僧祇劫に於いて 常に霊鷲山 及び余の諸の住処に在り 衆生劫尽きて 大火に焼かるると見る時も 我が此の土は安穏にして 天人常に充満せり 園林諸の堂閣 種種の宝をもって荘厳し 宝樹華果多くして 衆生の遊楽する所なり 諸天天鼓を撃って 常に衆の伎楽を作し 曼陀羅華を雨らして 仏及大衆に散ず
我が浄土は毀れざるに 而も衆は焼け尽きて 憂怖諸の苦悩 是の如き悉く充満せりと見る 是の諸の罪の衆生は 悪業の因縁を以って 阿僧祇劫を過ぐれども 三宝の名を聞かず
諸の有ゆる功徳を修し 柔和質直なる者は 則ち皆我が身 此に在って法を説くと見る
或時は此の衆の為に 仏寿無量なりと説く 久しくあって乃し仏を見奉る者は 為に仏には値い難しと説く 我が智力是の如し 慧光照らすこと無量にして 寿命無数劫なり 久しく業を修して得る所なり
汝等智有らん者 此に於いて疑を生ずること勿れ 当に断じて永く尽きしむべし 仏語は実にして虚しからず
医の善き方便をもって 狂子を治せんが為の故に 実には在れども而も死すと言うに 能く虚妄を説くもの無きが如く
我も亦為れ世の父 諸の苦患を救う者なり
凡夫の顛倒するを為って 実には在れども而も滅すと言う 常に我を見るを以っての故に 而も憍恣の心を生じ 放逸にして五欲に著し 悪道の中に堕ちなん
我常に衆生の 道を行じ道を行ぜざるを知って 応に度すべき所に随って 為に種種の法を説く
毎に自ら是の念を作さく 何を以ってか衆生をして 無上道に入り 速かに仏身を成就することを得せしめんと