紀野一義氏の講演(youtube)メモです。
長沢を訪れて。
こちら寺の息子ですから大勢の人が死んだところとかね、死ぬ人とかねそういうのだいたいわかるんですけど。
で大勢の人が死んだような感じがしないなぁと思っていると浅野長政が切腹した場所っていうのが天守閣じゃないんですよ。50m ほど降りて左へまた行った家老の家で切腹したんですね。
親鸞は流罪で直江津に。海の色が凄いんですね。氏はその目で親鸞と同じ海の色をみる。その地で恵信尼と出会い、子をもうける。名を藤井善信にされる。愚禿と称している。
愛欲を恥じていることを聞き逃してはならない。念仏だけで救われると説いた親鸞が何故膨大な教行信証を書いたのかに思いを。
誰だって人には言えないことをしている。そういう人が歎異抄を読むと尾てい骨に応える。
日蓮上人のお手紙も尾てい骨に応えます。
山口瞳 小説吉野秀雄先生で書いているのはフィクションではなく事実だと思いますね。
親鸞は公家の顔ではなく農夫のたくましい顔ですね。
唯円は放埓無残で人を殺しかねない人物だったと思います。
氏も戦争中に人(上官)を殺しかねないときがあったという。
親鸞は流罪後20年関東を放浪している。唯円はそのころの弟子です。唯円の墓は吉野の近く立興寺裏の山裾から少し坂を上ったところにあります。寂しいところです。
放浪と充電で精一杯生きるのが人生の理想ですね。
念仏を唱えても淋しいという人にこそ歎異抄が必要。
親鸞も吉野秀雄も手弱女ぶりの勇気ですね。
死ぬときに迷うのはあたりまえ、未練たらしいのでよい、だからこそほとけは大悲大願をたてられた。氏も大悲大願が嬉しい。人間そんなにうまく死ねるものではない、いいかっこしなくてよいと考えている。きっとほとけはそんな人間を可愛いと思ってくださる。
親鸞は20年も常行三昧堂ではなく法華堂のまっくらな中に籠っていたことが最近わかった。その法華堂で法華経を読んでいた。
氏はおばあさんの集まりによく講演で呼ばれる。そこで「おむかえがきたら喜んでいきなさい、浄土へいくのだから」と述べる。
おばあさんはそれを聞いても明るい。それは氏を信頼しているからだと。
氏は戦争中三度死にかけても死なない、その体験から「生かしていただいている」と。
死ぬときは夕焼け、紫の夕焼けの中でそばに家内がいて、あんなこと、こんなことがあったねと言いながらそのうち死んでいる。そんな最期を迎えたいと。
親鸞は六角堂で修業中に95日目に枕元に観音が聖徳太子となって現れた。
聖徳太子は「行者が、これまでの因縁によって、たとい女犯があっても、私(観音)が玉女の身となって肉体の交わりを受けよう。
一生の間、能く荘厳して、その死に際しては導いて極楽に生ぜさせよう」
氏は論理よりもイメージによる導きが大事であると。
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