バリ島ではbabybjornのだっこひもに娘を抱えてソニー・ロリンズを聴きながら「カラマーゾフの兄弟」を読むことが多かった。今まで折にふれて書いてきた「カラマーゾフの兄弟」も量的にかなりになる。読み返して少しまとめてみるのもいいかもしれない。
原卓の「謎解きカラマーゾフの兄弟」も大変参考になった。
ゾシマ
ゾシマ長老もドミトリー同様若いときは放蕩無頼で後年改心して聖者になった。
作者にはどちらもアッシジの聖フランチェスコが念頭にあった。だからゾシマはドミトリーに拝跪した。
「人間とは、たとえ悪党でさえも、われわれが一概に結論づけるより、はるかにナイーブで純真なものなのだ。我々自身とて同じことである。」原訳
わたし(ゾシマ)は来世の予感から魂は歓喜にふるえ、知恵はかがやき、心は喜びに泣いているのだ。
わたしたちの思考と感情の根はここではなく、異界にあるのである。
「不死がなければ善なんて無いんです。」とのイワンに対して「絶望で気晴らしをされている。もし肯定的な方向で解決できないなら、否定的な方向でも決して解決されないでしょう。」とゾシマ長老の説教。イワンの悩みは智では解決できないと述べている。
だれもが、人はいずれ死ぬ身であって、復活はないことを知るので、死を神のように誇り高く、平然と受け入れることになる。愛が刹那にすぎないという自覚ひとつで、その炎は、かつて死後の永遠の愛にたいする期待のなかで広がっていったのと同じくらい、つよく燃え盛るのだ。
ゾシマ長老は「子ども時代が大切だ」「傲慢をすてなさい」あるいは兄マイケルが死に挑んで小鳥や花の美しさに目覚める話など、聖フランチェスカをモデルとしている。
兄マイケルはアリョーシャに似ていてあたかも生まれ変わりのようだ。あるいはアリョーシャの数十年前の姿かもと。
「このような思い出は早い年齢、2歳頃からでさえも記憶に残り(このことは誰も知っている)、暗闇のなかの明るいスポットのように、絵のキャンバスの一断片 その断片を除いて、全体が消え、消滅してしまった大きなキャンバスの断片のように、生涯を通じて、ひたすら浮かびあがるのである」
ゾシマ長老は予知能力や病気を癒す力などを持っている。
もしすべての人に見棄てられ、むりやり追い払われたなら、一人きりになったあと、大地にひれ伏し、大地に接吻して、お前の涙で大地を濡らすがよい。そうすれば、たとえ孤独に追いこまれたお前をだれ一人見も聞きもしなくとも、大地はお前の涙から実りを生んでくれるであろう。
「公平な秩序を打ちたてようと考えてはいるのだが、キリストを斥けた以上、結局は世界に血の雨を降らせるほかあるまい。なぜなら血は血をよび、抜き放った剣は剣によって滅ぼされるからだ。だから、もしキリストの約束がなかったなら、この地上で最後の二人になるまで人間は互いに殺し合いをつづけるに違いない。それに、この最後の二人にしてもおのれの傲慢さから互いに相手をなだめることができず、最後の一人が相手を殺し、やがては自分も滅びることだろう。おとなしく謙虚な者のために、こんなことはやがて終るだろうというキリストの約束がなかったら、きっとこうなっていたに違いない。」(新潮文庫 カラマーゾフの兄弟)
この世の多くの事柄は、私たちから隠されている。だがその代わりに私たちには別の、至高の世界との生きたつながりの感覚が与えられている。私たちの思想と感情の根も、そうした異世界にあるのだ。だからこそ哲学者たちは、事物の本質を地上において捉えることはできないと解くのだ。神が別の世界の種子を摘んでこの世界に蒔き、自らの作物を育て、その結果生えるべきものが全て生え出した。だがこのように栽培されたものは全て、神秘なる異世界との接触の感覚によってのみ、生き生きと育っていけるのだ。
ゾシマ長老が「女好きなひとびと」の一人、なるほどなと。女性しか信仰相談に乗らないとか、甘いものが好きだとか。
「やがて、最も堕落しきった富者でさえ、最後には貧者に対して己の富を恥じるようになるだろうし、貧者はその謙虚さを認めて、理解し、喜んで譲歩してやり、富者の美しい羞恥に優しさで答えるようになるだろう。信ずるがよい。最後にはきっとこうなる」
資本主義のいくすえを覗いている。
ドミトリー
ドストエフスキーは最晩年にドミートリーを創出したとの評があった。高潔で直情の人との説明がある。
美の中じゃ矛盾が一緒くたになって悪魔と神が戦っていて、その戦場が人間の心ってことになる。
ドミトリーは手の付けられない乱暴者だがキリストと同じく贖罪のために無実の罪をかぶる崇高性を持つ。
ゾシマ長老がドミトリーに拝跪するシーンがある。原罪意識をもつドミトリーに高貴な精神を見出すとともにその原罪意識故に凄まじい苦悩を予知して共感する複雑な思いがこの跪拝だろう。
イワン
イワンは幻覚症を煩っていることになる。(アルコール中毒から来ると原卓は述べている)この幻覚の中でスメルジャコフの縊死を知るという神秘現象を描いている。
なかには、すべては初め、恐ろしい自然現象に対する恐怖の念から生まれたもので、来世も何もないって主張する人もいます。(カラマーゾフの兄弟 ドストエフスキー 亀山訳)
作者は無神論者を批判する。イワンは無神論者でありフリーメーソンだ。ローマカソリックを批判の対象にする。
「神が不在であれば作り出さなければならない」「賢い人は何をやっても許される」
「不死がなければ善なんて無いんです。」とのイワン
大審問官はローマカソリックのメタファであり”あれ”悪魔の手先であることを明らかにする。
悪が無くなると世界は終わりを迎えるといった話、あるいは「大審問官」では悪魔の方が人々にとって必要な存在だとする大審問官の声明がでてくる。
奇跡、神秘、権威なのだ。・・・おまえはしらなかった。人間が奇跡を退けるや、ただちに神をも退けてしまう事をな。・・・そもそも人間は奇跡なしには生きることができないから、自分で勝手に新しい奇跡をこしらえ、まじない師の奇跡や、女の魔法にもすぐにひれ伏してしまう。例え、自分がどれほど反逆者であり、異端者であり、無神論者であっても。
おまえの偉業を修正し、それを奇跡と神秘と権威の上に築き上げた。おまえとではなく、あれとともにいるのだ。
神は欠かせないといった考えが、人間のあたまに忍び込んだという点が驚くべきところなのさ。
俺にはよくわかるんだ。鞭をくれるたびに性的な快楽、そう、文字通り性的な快楽を覚えるくらい熱くなっていく連中がいることをね。
この子が犬に石をなげ、足にケガをさせたとのことですという報告がなされる。・・・仕置き小屋から子供が連れ出される。・・・「追え!」将軍が命令する。・・・犬どもは、子どものずたずたに食いちぎってしまう!
「神が無ければ作り出さなければならない」との説を受け入れ、その前提で神の存在を肯定するが、神の作り出した世界は拒否する。
イワンは狂う。自らが神になる、つまり無神論者は狂うという懲罰を作者は与える。
イワンがあたかもトーレット症候群つまり汚言症にかかっているかのように、自分では否定したい汚言(この場合、気持ちの上で父を殺した)が意識の表層に浮かび上がり、それが彼を苦しめる。「あなたじゃない」はアリョーシャの深い慈悲と鋭い感覚を示している。
イワンが創作する大審問官は神を棚上げしてこの世の実権を握っている。神がいないのなら作る必要があるとの説に従った創作だ。生まれたてのねばねばした青葉を愛するイワンが神に対する怒りから作り出した。
「復活」の時にライオンもきりんも、子供を犬に食い殺させた貴族も母親もみんな肩を並べて愛の賛歌を謳うと言った漫画的な世界をイワンは認めない、復讐心は持ち続けたいと語るが、神の作った世界を認めない。
「心のなかでは、おれもまた同じような人殺しだからじゃないのか?」そう自問した。
非ユークリッド幾何学が理解できないと世界が理解できないと嘆くイワンは哲学というものを、自然を未知数とする単なる数学とみなしていた人物として描いている。ある時期までドストエフスキーはそのように思っていたのではないか。つまりイワンはある時期までのドストエフスキーの投影であると読める。
イワンは公正世界仮説を信じている人は退屈な人生をおくるバカだとも非難する。
引用: 自由の状態におかれた人間にとって、跪拝の対象を手っ取り早く見つけることほど、わずらわしく厄介な問題はない。しかも人間は、絶対の跪拝対象を、つまり絶対万全で万人がそろってその前に跪拝することに躊躇なく同意するような、そんな相手を探し出そうとする。なんとなればそうした哀れな存在の願うのは、ただ単に自分や他人が跪拝すべき対象を見出すことにとどまらず、万人が信じて跪拝できる対象、なかんずく万人がそろって跪拝できる対象を探し出すことだからだ。この跪拝行為の共通性に対する要求こそ、世の初めから人間が個人としても人類としても、主たる悩みの種としてきたことだ。まさに万民共通の跪拝行為を求めて、人間たちは剣によって互いを滅ぼしてきた。彼らは神々を打ち立てては、互いに宣戦布告したのだ――「お前たちの神々を捨ててわれわれの神々に跪拝せよ。さもなければお前らもお前らの神々ももろともに滅ぼしてやる!」 そしてこの状態が世の終わりまで続くであろう。たとえこの世に神々がなくなろうとも、人間どもは所詮偶像の前に跪くだろうから。人間本性のこうした根本的な神秘をお前は知っていた、いや知らなかったはずはない。しかるにお前は、すべての人間を無条件で自分の前に跪かせるためにお前に進呈された唯一絶対的な旗を、つまり地上のパンという旗印を、自由と天上のパンの名において拒絶してしまった。
見てみろ、その先お前が何をしたか。しかもすべて自由の名においてだ。断っておくが、人間という不幸な存在にとって、持って生まれた自由という賜物を一刻も早くゆだねることができるような、そんな相手を見つけることほどつらい仕事はない。だが人々の自由を支配できる者とは、彼らの良心を安らげてやる者だけだ。パンを手にしさえすれば、お前は絶対の錦の御旗を得るだろう。(ДПСС.14: 231-232)
この説話の語り手イワン・カラマーゾフは、大審問官を、福音書の説く自由と愛の論理を限られたエリートのための教条に過ぎぬとして拒絶し、万人のためのユートピアを構想した博愛家のイエズス会修道士になぞらえている。だがそれはまた人間の社会的本性への懐疑のはてに秩序と管理という方向で地上のユートピアを構想した、政治論者プラトンの一プロフィールなのかもしれない。https://src-h.slav.hokudai.ac.jp/coe21/publish/no12/02_mochizuki.pdf
アリョーシャ
アリョーシャはヒステリーの発作に全身をふるわせはじめた。老人をとくにうちのめしたのは、その姿が死んだ母親と異常なぐらい似ていたことだった。
カテリーナ、イワンとアリョーシャの母親、イワンとアリョーシャもヒステリー体質として描かれている。てんかん持ちであった作者を重ねている。
動揺する他の人々にまじってアリョーシャの姿があったことに気づいた アリョーシャは奇妙な、非常に奇妙な視線を投げた。
ふいに静かに甘い笑いをもらした。しかし彼はそこで、ぴくりと体を震わせた。その笑いが罪深いものに思えたのだ。
アレックスのリズに対する屈折した性嗜好。
アリョーシャが「女好きなひとびと」の一人、なるほどなと。
彼の頭上には、静かに輝く星たちをいっぱいに満たした天蓋が、広々と、果てしなく広がっていた。あのとき、だれかがぼくの魂を訪ねてきたのです。
これはアリョーシャがキリスト教を超えたロシアの大地信仰つまり普遍な信仰に救いを得た瞬間だ。作者はこれを描きたかった。
書かれなかった第二部では12人の若者を従えて皇帝暗殺を試み処刑される。12人の使徒とキリストの再来アリョーシャを描くつもりだったと。
アリョーシャは腐臭事件の後苦悩に陥るが、満点の星空の下で大地に突っ伏して法悦を感じる。イワンはねばねばした若葉を愛する。ゾシマの兄マイケルもイルーシャも花や小鳥の美しさに生の喜びを見出す。ドミトリーも焼け出された母子を夢に見て冤罪を受けいれる。これもキリスト教を超えた普遍的な信仰への回帰賛美。
太陽の光がが長い道のりを辿ってこのささやかな惑星に到着し、その力の一端を使って私の瞼をあたためてくれることを思うと私は不思議な感動にうたれた。・・・私はアリョーシャ・カラマーゾフの気持ちがほんの少しだけわかるような気がした。「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」
アリョーシャが困窮するスネギリョフに金を施そうとして拒絶される。
「もしわたくしがこの金を受け取りましたら卑屈な人間にならないでございましょうか?」「自分の名誉を金で売りません」米川正夫訳とスネギリョフは金を拒絶する。
アリョーシャが第一部ではまだまだ未熟な信仰者であることを示すのだろう。
まず、設問は、乳飲み子を母親の胸からもぎ取って、空中に投げ上げて銃剣で殺すという自由を、神は人間にあたえているか、あたえていないか、です。こたえは、神は人間にそういう自由をあたえている、です。ただし、真に神を愛する者は、そういうことはしないという付帯条件がついています。
これもアリョーシャが付帯条件をつけるなど腹の座っていない信仰者であることを。第一部ではまだまだ未熟な信仰者であることを示す。
書かれざる第二部への伏線。
スメルジャコフ
フョードルの子かどうかは最後まではっきりしない。これは何を意味するのだろう。謎めいたままの存在にするという作者のテクニックか。
イワンを父親殺しで脅しながらも最後に「誰にも迷惑をかけないように」との言葉を遺して縊死する。
イワンの宗教観(無神論者)と鞭身派スメルジャコフの対比を見せる。誤解に気が付いて鞭身派あるいは去勢派らしく自分を罰する。
ゾシマが軍の除隊と修道院へ出家を準備しているある夜に謎の紳士が近寄ってくる。かって熱烈な愛を覚えたある若い未亡人を殺害した男で、スメルジャコフが自殺しなかったとした場合の後日譚がタイムスリップあるいはパラレルワールドだという。
山城むつみ氏「ドストエフスキー」(講談社、2010)は「(20世紀の哲学者)ウイットゲンシュタインは『カラマーゾフの兄弟』を50回は通読したらしいが、読み返す毎にアリョーシャはフェードアウトしていったのに、スメルジャコフは違ったという(「彼は深い。このキャラクターの事を作者は熟知していたのだ」とウイットゲンシュタインは書いている)」
ウイットゲンシュタインがスメルジャコフを深いと言ったのはなぜか。陰画スメルジャコフを描く方が陽画アリョーシャを描くより豊かに描けるということかと。
フョードル
領主である父は領民に領地で撲殺されるという尋常でない事件で死んだ。この父は創作の力を借りてフョードルに化身する。
カラマーゾフ家の父フョードルは実はこの作品の全体を艶やかにする触媒であり、三兄弟を輝かせる闇であり、大審問官に匹敵するなくてはならない人物なのだ。そして作家フョードル・ドストエフスキーの内面の分身なのだ。これがカラマゾフ家の父をフョードルと名付けた理由でもあるのではないか。
カテリーナ
カテリーナが「一種の錯乱でドミトリーを愛している」という。
ドミトリーは容疑者として拘置されるが裁判の前日にスメルジャコフが自殺する。カテリーナがスメルジャコフを尋ねていったことがどう影響しているのか。依然、謎として残る。縊死というどこか他殺を思い浮かべるような死がカテリーナの関与を疑わせるが。
カテリーナはドミトリーから受けた借金の屈辱の報復が変形してドミトリーを愛するという極めて屈折した愛の形を見せる。
ドミトリーの側から見るとカテリーナが部屋にやってきたときには性的な期待が大いにあったのだが、持ち前の高潔さも頭をもたげる。期待と高潔さの微妙なバランスの上に高潔さがほんの少し勝つ。
グルーシェニカ
グルーシェニカもカテリーナと同様、非常に屈折した愛しかもてない。
リーザが部屋の隅にいる悪魔の夢をみるとアリョーシャに言うと、アリョーシャも同じく部屋の隅にいる悪魔の夢を見るという。心のなかにそれぞれ悪魔がひそむ。
リーザはアリョーシャと結婚して稀代の悪妻になるかもと「謎解きカラマーゾフの兄弟」にある。アリョーシャは業からそう簡単には脱却できないようだ。
イワンとアリョーシャの母親 ドミトリーの母親
神がかりであり、スメルジャコフの母も神がかり。ドミトリーの母親は腕力に優れてフョードルを力では圧倒し、父を捨てて若い男と駆け落ちし、後に餓死する。
パイシー神父
パイシー神父が又切り出した。「・・・教会は国家に変質し、やがてその中に消滅して、科学や文明に席を譲らなければならない・・・これがヨーロッパ文明に浸透している考え方ですよ」
コーリャやラキーチン
癖のある頭でっかちの人物が社会主義を賛美する。一方でキリスト教と社会主義の一体化を作者は望んでいる。12人の子供たちが将来アリョーシャの革命軍に加わり13人が反乱軍として処刑されるというキリストの磔刑を思わせる結末を書かれざる第2巻で予定していたらしい。
コーリャはイリューシャの為した行為、犬ジューチカに針の入ったパンを食べさせるという残虐な行為に対する後悔からくる病の深刻さを知りながら、じつは針を吐きだし生きていた犬を連れてイリューシャを安心させてやるための見舞いになかなか行こうとしない。
フィナーレでイリューシャ少年の遺骸からは何の腐臭もしなかったとあえて強調している。
老修行僧
ゾシマ長老の棺の置かれた部屋にも老修行僧がやってきて悪魔が部屋に一杯いることを告げる。悪魔は甘いものが好きだとして、ゾシマ長老もジャムなどに目がないと責める。
作者
善良であり、かつ才能豊かなこの青年に幸多かれと願うものであり、彼のナイーブな理想主義と、民衆の原理に向けたそのひたむきさとが、世間でよく起きることですが、後々、精神的な面では陰気な神秘主義とか、社会的な面では排他的な民族主義とかに変わることのないよう、こころから願うばかりです。
全ての人が狂気、神経症を秘めている、それが宗教的偉大さに化けることが老人をとくにうちのめした。
人を愛するためには、相手が姿を隠してくれなけりゃだめだ、相手が顔を見せたとたん、愛は消えてしまうのだよ」原卓也訳
裁判の場面は1000 ページにも及ぶ小説原本のほぼ100 ページを占める、つまり10%のページを法廷シーンに当てていることになる。作者は検事の目を借りてこの家族の光景に、ロシアの知識階級に共通するいくつかの基本的な要素「母なるロシア」「唯物論的なヨーロッパ主義」「民衆原理」を抽出してこの作品の主題を束ねにかかる。
「人を愛するためには、相手が姿を隠してくれなけりゃだめだ、相手が顔を見せたとたん、愛は消えてしまうのだよ」原卓也訳
1922年3月に作家ナボコフの父でリベラル派のウラディーミル・ナボコフが政治集会の場でツァーリストの青年に殺される。この事件を知りハリー・ケスラー伯爵は,その有名な日記に次のように記している。
「ロシア文化と芸術の生産的な力は衰弱していない。殺人を許されるのは産むことのできる人間のみ」 ロシア人ベルテル・クライアーの回想
「殺人を許されるのは産むことのできる人間のみ」ドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟のイワンのテーマそのものではないか。だからイワンを狂死させた。
批評家
カラマゾフの兄弟で伝統的信仰と反逆的理性の相克を描き、伝統的理性が勝利することを意図したが結果は神による調和に対する攻撃はますます予言的性格を帯びていった。
「人間をあれほど敬わなければ、人間にあれほど要求しなかっただろうし、そうすれば人間はもっと愛に近づけたはずだからな」
小林『もっと積極的な善人をと考えて、最後にアリョーシャというイメージを創るのですが、あれは未完なのです。あのあとどうなるかわからない、また堕落させるつもりだったらしい。』小林秀雄・岡潔「人間の建設」
椎名によれば、ドストエフスキーの作品の主題というのは、人物化した思想であって、「一つの観念の生命がその人物の生命となっているところの人物」であり、そのように人物化した思想の中に事件がとり入れられると、それらの事件が「小説的な生命をもち、何・か・へ・発展しようとする機能をもつにいたる」。
また作品には主題が「人物と同じ数だけ」あって、その軽重は人物の位置によって決まるが、「その主題群は相互に連関を欠いているので、ドストエフスキーはその主題の間を緊密にし、全体的な主題の下に制約しようとした」といっている。
椎名のこの指摘は現在の世界のドストエフスキー研究者に大きな影響をあたえたミハイル・バフチンの指摘と見事に重なっている。バフチンによれば、「ドストエフスキーのすべての主要主人公たちは、・・・・めいめい「大きな未解決の思想(イデー)」をかかえ、まず必要としているのは「思想(イデー)を解決する」ことである。・・・。もし彼らが生きている場であるイデーを無視してしまったら彼らの人物像は完全に壊されてしまうだろう。いいかえれば、主人公の人物像はイデーの像と密接に結びつき、彼らから切り離せない」
ハラリは
「前例のない水準の繁栄と健康と平和を確保した人類は、過去の記録や現在の価値観を考えると、次に不死と幸福と神性を標的とする可能性が高い」(ホモ・デウス)ユヴァル・ノア・ハラリ
こうして見てくると、アリョーシャ=ゾシマ長老による子供時代の思い出、記憶の教育的意義の強調の根底には、家族の絆ばかりではなく、仲間同士の連帯、共有感情、引いては小鳥や植物など自然との交感、他者との関係性における経験的自我の克服を通しての世界の神秘的領域の認識への志向といった複合的なイデーが含まれていて、これが小説の統括的な大主題であると、考えられる。このポジチヴな大主題を、逆説的にネガの形で浮き上がらせるのが、フョードルの主題(カラマーゾフ的淫蕩)であり、イワンの主題(理論的知性のアンチノミー)であり、ドミトリーの主題(ソドムの理想とマドンナの理想の同時受容)であり、スメルジャコフの主題(自己否定+去勢派的禁欲+イワンのアンチテーゼの戯画化)であって、『カラマーゾフの兄弟』というこの長編小説はこれらのネガチブな主題を複合的に構成して、ポジチブな大主題を逆説的論証のスタイルで浮かび上がらせようとするところに成立していると見ることができるだろう。 椎名麟三「ドストエフスキーの作品構成についての瞥見」
キリスト教が伝えようとしている大真理は、ひとつだけである。それは、最初の人間が犯した原罪(意志の肯定)が、キリスト(意志の否定)により救済されるという教えである。
イワンの神の存在は認めるが創った世界は認めないという理由が理解できた。生殖つまりセックスこそが重要な「エントロピー増大の法則」対抗手段として設計しておきながら生殖つまりセックスを原罪として罪の意識に問う、この矛盾を認めることができなかったのだと。
私見
イワンが発狂するまでの実に周到な準備。
臭いによる描写 味による描写。
奇妙な視線やゆがんだ含み笑い
第二部を期待させる手法。
冗長性も大作家ならではのテクニックか。
女を実に多面的に描く。
作中作品の魅力。イワンの存在意義は創作の挿話でしか描けない。
「大審問官」というイワンの創作を挿入することで普遍的な世界的小説に昇華する。この作法を使ったことがこの小説の最高のテクニックだろう。
人として離れられない俗物性と聖性の両面を描く。すべての登場人物といってよいほどすべてをポリフォニー的に描写。
アリョーシャの語るドストエフスキー
僕は書かれざる第二巻で革命軍として皇帝によって処刑される。
何故ドストエフスキーは「いいこちゃん」の僕にそんな人生を歩ませたのだろうかって。それは僕も聞きたいところだけど。多分あの人自身がそういう潜在的願望があったんだろうな。
彼自身が処刑の寸前まで行って助かった経験があるでしょ。その瞬間彼は一回死んだんだ。そのとき処刑されるまでいく人生もそんなに悪いものじゃないなと思ったんじゃないかな。
だからそんな結末を思い描いて第一巻を書き進めたんじゃないか。
しかし作家は一筋縄じゃいかないよ、最後は助けてよい人生を送ったと締めたかった気もする。
彼は一体なにを描きたかったか?
一つはっきりしているのはロシアの大地信仰だね。僕が大地の下で星の降る下で永遠の信仰を大地に誓うだろう。ドストエフスキーも永遠の信仰を大地に誓いたかったんだよ。アニミズムと言って少々土着で軽くみられがちだけど彼はそこに落ち着いたのさ。
その一点を言いたいために多くの人物を登場させ大審問官などの物語を紡ぎだしたんだ。ドストエフスキーが大地信仰こそ全人類にとって普遍性のあるものだと論文を書いてもだれもすぐに忘れてしまうからね。
僕が奇人として描かれたのはどうしてかって?
それは彼自身が奇人の自覚があり、僕を借りて自身が贖罪したかったんだよ。彼の無茶苦茶な私生活は知っているだろう。僕は彼とは違う種類の奇人にもえるけど、実は聖痴愚という奇人だよ、二人とも。現れ方はいろいろだけど、根はそのあたりだね。
僕はドミトリーの性格が一番好きだ。彼が魚料理屋で僕に旨い料理を食べさせてくれるところを覚えているかい。ああいう心根の優しいところが大好きなんだ。
そうそう、あなたはゴッドファーザーを観たかい。長男のソニーをマイケルが愛しているだろう、あんな感じだよ。マリオ・プーゾも「カラマゾフの兄弟」の影響を受けているといっていたよ。
きっとドストエフスキーもドミトリーを一番愛していたと思う。作者の破天荒な性格の部分を色濃く受け継いでいる。部分の分身だよ。
ゾシマがうずくまって接吻するだろう、あのシーンはゾシマがドストエフスキーになり替わってドミトリーを祝福しているんだよ。つまり作者は自分自身を祝福している。
冤罪で牢獄にいるドミトリーはシベリア送りになったドストエフスキーそのものだよ。
腹をすかして泣く「がきんちょ」への贖罪のためにシベリアに行くと言ったドミトリーもね。
僕が大地に横たわってロシアの大地信仰を誓うところがあるだろう、ドミトリーはその瞬間女のいる場所へ馬車を飛ばしている。
ドストエフスキーは愛人と馬車でヨーロッパ旅行に出かけたことを思い出して書いている。
悪魔
苦しみこそが人生だからですよ。苦しみのない人生に、どんな満足があるっていうんです。何もかもが、果てしないひとつの祈りと化してしまいますよ。そりゃあ神聖だろうけど、ちょっと退屈でしょうね。
否定ばかりしているイワンが悪魔に逆襲される。
悪魔を周到に描く。「幼年期の終わり」も悪魔を描いていた。