まさおレポート

国が違えば仏教も異なる 十如是はサンスクリットではシンプル

東南アジアの仏教は小乗教で日本のそれは大乗教だと教科書などでならって知識だけは一応ある。小乗という言葉は小さな乗り物を意味し、大乗つまり大きな乗り物に対して若干侮蔑的な意味を含んでいるという。南伝仏教というのがそういう意味価値判断を含まず伝承のルートだけを伝えているので適切な表現だろう。一方日本の仏教は大乗教もしくは北伝仏教と呼ばれる。これまた同様の理由で北伝仏教と呼ぶのが適切だろう。
 
東南アジアの南伝仏教が釈迦の時代の説法であり、北伝仏教は釈迦の滅後500年も後に編まれたということが20世紀になってわかった。その事実を基に北伝仏教は釈迦の直接の教えではないとの理由で日本の仏教すなわち大乗仏教は仏教ではないとの説=大乗非仏論も盛んに唱えられたときもあったという。しかし現代では原始仏教の発展形として法華経や華厳経などを立派な仏教の教説として扱い、それを否定するのは少数派だろう。

私の興味を引くのは500年も経た後に「かくの如く我聞き」=「如是我聞」との書き出しで竜樹が法華経や華厳経などの経文が多く書き記されたことだ。華厳経などは竜樹が竜宮で発見してきたことになっている。これらのおとぎ話のような背景も含めて仏教として一くくりに同一名称で呼ばれ、受け入れられている事実にまず驚く。500年といえば日本では徳川家康と現代くらい年代が離れている。家康が書いたことにして現代に発表すれば狂人かとんでも本の扱いを受けることは確実だろう。

これらの経文は原典は当然のことながらサンスクリット語で書かれている。我々が見聞きするのは漢文の経文であるがこれは亀茲国の鳩摩羅什(くまらじゅう)(344-413)が見事な漢文に翻案したものだがここでも驚くほどの意訳と現代感覚では創作と呼んでも差し支えない文章が付け加えられている。これは中村元「法華経」を読んで初めてしった。それまでは法華経の漢文は少なくともサンスクリット語と対訳関係にあるとぼんやりとではあるが考えていた。しかし法華経の有名な十如是は原文のサンスクリットでは驚くほどのシンプルな文章でしかない。

それらのもの(ダルマ)は何であり、どのようなものであり、何に似ており、どのような特質(ラクシャナ)を有し、どのような本性(スヴァバーヴァ)を有するものか。これらのものを如来のみが眼に知り直接に知っている。 

 

 このサンスクリット原文では、如来の知る「もの」(存在)が「どのようなものであり、どんな特質や本性を有しているか云々」とは述べてはいるが、羅什訳のように10もの哲学的概念を並べたてているわけではない。したがって、サンスクリット原文に従うかぎり、『法華経』の編者たちがこの箇所で諸法の実相に関する詳しい考察をしようとしたとは思えない。そもそも天台教学にもちいられているような意味での「実相」にあたるサンスクリットの概念はないように思われる。 

 

『最澄と空海 日本仏教思想の誕生』立川武蔵(講談社選書メチエ、1998年)

500年の時を隔てて原始仏教を元に形成され、しかもサンスクリットからきわめて大胆な、創作といっていいほどの漢文への意訳をされたという事実に着目するとき、東南アジアでの旅でタイ・ベトナムでの寺院とそこで説明される仏教が私の仏教感覚と多いに異なるのは当然だといえよう。

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

※ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最近の「紀野一義 仏教研究含む」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事