そろそろ向ヶ丘のバラ園(生田緑地ばら苑)を見に行く頃合いかなと昨年撮ったバラを眺めているうちに「薔薇の名前」の拙ブログをリンクしていた。そこには下記のように記していた。
ウンベルトエーコの「薔薇の名前」で過去に一度だけ愛した女に例えられた薔薇とその名前、愛したその一瞬にすべての意味があり、「思い出」の過去は単に名前(記号)でしかないと「思い出」を否定的にとらえたくなる。しかしどっこいそう単純ではない。
すなわち全宇宙とは、ほとんど明確に、神の指で書かれた一巻の書物であり、・・・そのなかでは一切の被造物がほとんど文字であり、生と死を映す鏡であり、そのなかではまた一輪の薔薇でさえ私たちの地上の足取りに付された注解となるのだが、 下P40
「すなわち全宇宙とは、ほとんど明確に、神の指で書かれた一巻の書物であり」これは「虚しきその名」こそ意味のある実体であると述べているのではないか。
薔薇の名前とその美しさを画像つまり記号で見直すとき、その奥深い意味の一端に触れた気がする。
さらに「松岡正剛 千夜一夜 0241夜 薔薇の名前」に飛んでいくと
ウンベルト・エーコにはもともと「書物の相互発生」が見えている。「ついには、小規模の文書館として、あの大規模な失われた文書館の記号として、片々たる語句と、引用文と、不完全な構文という、切断された四肢の書物から成る一つの文書館を、私は思い描くようになった」と。
情報が言語や記号をつくったのであって、言語や記号が情報をつくっているのではないということを熟知している。
われわれが本書の字面を追って読む物語というものは、エーコが設計したそのような情報プログラムに加えられた「みかけテキスト」なのである。
コンピュータにはもともとハードウェアにもとづいたプログラムの回路というものがある。その上にソフトウェアが走るためのOSがある。そこでそのOSに『薔薇の名前』の内容(コンテンツ)をアルゴリズミックにのせるとすると、まず『薔薇の名前』のどこをハード回路にもたせ、どこをOSにするか、そこがユーザーからは見えない潜在的な構造になる。
テキストのホットワードや書名の箇所にさしかかるたびに、そこから別のホットワードや書名の中身のどこかにリンクできるようになる。
あの大規模な失われた文書館の記号として、片々たる語句と、引用文と、不完全な構文という、切断された四肢の書物から成る一つの文書館を、私は思い描くようになった」と。
コンピュータの3つの部分、つまり割り込み制御(ハードと記しているだけだが)とOSそれにアプリという松岡氏の把握は流石で割り込み制御をよくご存知のようだ、確かにそのとおりだと思う、かつて20代のはじめにアセンブラで盛んにプログラムを作っていた頃にそのような仕組み特に割り込み制御を小説に応用したらどうだろうと夢想したことがあることも思い出した。
割り込み制御を発生させる元になるのが「テキストのホットワードや書名の箇所」になる。割り込み制御を発生させるのは宇宙の知を体現すると自覚するエーコだ(つまりAIに真似のできない部分なのだが)。OSに相当するのは中世の社会構造でありアプリは「ついには、小規模の文書館として、あの大規模な失われた文書館の記号として、片々たる語句と、引用文と、不完全な構文という、切断された四肢の書物から成る一つの文書館」で繰り広げられるウィリアムとアドソと物語だとの理解に達した。
この世の現象は「片々たる語句と、引用文と、不完全な構文という、切断された四肢の書物」でしか表現されないのだということも。つまり因果と縁起をすべて書き表すことなど無限を書き表すに等しく不可能だということを。